パンチの独り言

(2025年8月18日〜8月24日)
(何が頼り、暗雲か、脅し勝ち、混迷の要因、地獄の沙汰、誰の話か、自他の違い)



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8月24日(日)−自他の違い

 昨日取り上げた、映画の話だが、今朝、端末を覗いたら、ある脚本家が、「気になるところが…」と語った、とあった。何かな、と思ったが、読んでみて、やっぱりがっかりした。上映時間を、もっと長くしてでも、原作にあった話を、盛り込むべき、との意見だったのだ。
 確かに、作り手の立場からは、そんな思いが、過ぎるのかも知れぬ。だが、読み手、観客の立場からは、全く別の解釈が、成り立つものだ。小説として、物語を成り立たせるのは、次々に起きる出来事であり、その成り行きで、読み手の心を掴む、ことなのだろう。でも、それが、所詮、作り事だとして、その成り行きに、読み手は、心を揺さぶられるだろうか。そんな思いを抱きつつ、やはり、この作品に、心惹かれなかったのは、原作にあった、ある意味の矛盾、のようなものという点と、映画化するに当たって、伝統芸能の担い手を、誰が、どのように演じるのか、という点に、あったように思う。これだけ、話題になったのなら、おそらく、上映期間は、延長されるだろうし、暫くすれば、茶の間で、鑑賞することも、可能となるだろう。でも、自分の場合は、もう観ないと思うし、観たいとも思わないだろう。元々、書籍にしても、映画にしても、何度も読んだり、観たりすることは、無い。確かに、何度も試してみれば、その時その時に、気付くことがあるだろうし、前回には、全く意識しなかったことに、目や心が惹きつけられる、ということも、あるかも知れぬ。でも、そういうことに、何かしらの、新しい価値を、見出せる訳でもなく、もっと他のものに、目を向けた方が、自分にとっては、いいことなのでは、と思うからだ。この辺りの考え方には、人それぞれのものがあり、他人が、どうしようが、こちらの知ったことではない。兎に角、自分にとり、何が良いのか、何が適しているのか、信じる所に向かうだけだ。それにしても、好き嫌いは、本当に、人それぞれなんだ、と思う。何も、誰かが絶賛したら、必ず楽しまねば、と思う必要は、無いのだ。自分は自分、ということだけなのだが。

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8月23日(土)−誰の話か

 今、ある映画が、流行っているとのこと。興行収入は、一部の漫画以来、かなりの水準に達し、同時に、社会媒体などでは、絶賛の声が上がる。今時の、情報の共有からすれば、このまま、長続きしそう、にも見える。久々の、人間が演じる物語で、活況を呈している。
 普段なら、興味を抱くことなく、評判が過ぎるのを、待つだけだが、この作品に関しては、読んだ本でも、3年程前に、取り上げていたから、重い腰を上げて、観に行ってみた。感想は、芳しくなかった。小説で読んだ時と、殆ど同じ感覚だが、閉鎖的な世界の、特殊性を取り上げつつ、伝統ある家とは、全く異なり、その上に、道を外した、とさえ受け取られる、主人公の生き方に、題名にある名誉は、何処か遠くのこと、としか思えないのだ。確かに、功績さえあれば、何事も成し得る、との見方もあり、その一つと考えることも、可能なのだろうが、紆余曲折の筋と共に、何処か無理筋に思える、成り行きはそのままで、受け入れ難し、との感想が、まず過っていた。それと共に、絶賛の声では、若手俳優達の、伝統芸能の演技が、特に高く評価され、その世界の人間からも、賛辞が贈られた、とされていたが、その場限りの舞台と、何度でもやり直し、繋ぎ直すのが、可能な映画では、比べること自体が、どうなのか、とさえ思った。兎に角、本心では、気に入らないのだ。自分が生まれた頃から、斜陽へと走ったあの世界は、それ以前には、閉鎖社会の俳優達が、盛んに出演したものだが、年に数回の興行では、人気は出ても、実入りが期待できなかったものが、毎日何度も上映される、そんな世界では、状況が一変したのも、当然のことだった。しかし、新媒体の登場から、下り坂へと流れ、不慣れな撮影手法から、適応できなかった人が、多かったとも言われる。そんな流れに対し、今回の映画は、何か、再びの蜜月を、感じさせるもの、となったのかも知れない。でもやはり、何処かがずれており、所詮、作り物に過ぎない、との思いが過ぎる。まあ、このままなら、賞を総嘗め、となるのかも、だが。

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8月22日(金)−地獄の沙汰

 経済の低迷が続く中、屡々聞かれた言葉に、「自己責任」と「市場原理」がある。自己責任は、特に、投資現場で、よく聞かれ、対象選択を、自身で行うべきとする、証券社員の溜息混じりの、言い分だった。責任転嫁が、当然となるにつけ、更に、意味が強まっている。
 一方、市場原理とは、経済学者が唱えたものとして、価格設定の仕組みで、解説されたものだが、当時も、怪しげなものとして、批判対象となっていた。特に、理論武装が不十分な割に、大きなことを言い続け、学者から大臣に、転身した人間が、好んで使った為に、その怪しさは、増すばかりとなっていた。今、丁度、その原理が、如何に脆弱なものか、証明されつつある、ように見える。米価は、昨年の不作が、原因とされて、高騰が続いていた。これこそは、需要と供給の均衡の結果、と原理主義者は、強く主張していたが、その後の、政府の政策転換と、大臣交代に始まる、強制的な、供給過剰政策に、一部からは、強い懸念が漏れていた。しかし、現実には、一度上がった価格は、一向に、下がる気配を見せず、高止まりの様相が、固定されていた。今や、高止まりと共に、供給過剰が、表面化したとして、米余りの報道が、盛んに行われる。この状況は、需要と供給の均衡が、価格を決める、最大の要素である、とする市場原理とは、大きくかけ離れたもので、原理が、ほぼ机上の空論に過ぎない、との結論が、導かれたと言われる。要するに、均衡を調整せずとも、売り手が決めた価格は、高止まりする訳で、値崩れを起こすどころか、供給過剰さえも、調整可能である、という、仲介する業者主導の、値動きが、起きていることを、如実に表している。まして、今の供給経路においては、売却後も、貯蔵を、政府負担にさせ、言い訳を連発して、責任逃れと、暴利を貪る目論見を、達成しようとする、違法行為とも思える、行為の連続に、呆れ果てるしかない。要するに、あの似非経済学者が、盛んに強調したのは、儲け話に群がる、金の亡者に有利な話で、そのお零れを、頂こうとする、別の亡者の作り話だったのだ。

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8月21日(木)−混迷の要因

 軍事侵攻を受けた国では、当時の各国政府首脳の見込みと違い、一気呵成に攻め込んだ軍隊を、巧みな戦略で撃退し、大統領府をはじめとする、主要な政府機関を、守り抜いた。だが、首都陥落を目論んだ、軍隊の攻勢が、脆くも崩れたとは言え、その後も、火力、兵力共に、圧倒する力で攻め続ける。
 その情勢に、僅かな変化が、兆し始めたとして、期待する向きもあり、それに関わる人物への、圧倒的な支持と共に、信頼を寄せる向きもあり、何かしらの変化が、起きそうな気配だが、実態は、依然として、見えぬままでは、何とも評し難い。暫くの間は、傍観を続けるしか、無い様子なのだ。その中で、各国政府は、当初の侵攻同様、暴走してばかりの、別の暴君の、思惑通りには、運ばせぬよう、外堀を埋めることに、専念するように見える。まあ、どう転んでも、賞を寄越せ、との主張は、変わらぬままだろう。さて、一方で、もう一つの紛争地域に関しては、圧倒的な軍事力で、爆撃を繰り返す国の、非人道性ばかりが、取り沙汰されるが、その点についても、もっと深く考えては、と思うことがある。あの地域は、確かに、大国の思惑、あるいは、四枚舌とも言われる、外交の目論見の連鎖から、今の状況へと、関係する人民が、追い込まれた、とも言われるが、既に、その態勢が出来上がり、互いに、自らの権利を、主張するばかりで、議論が平行線を辿るのでは、解決の糸口は、一切見えてこないから、この先も、そのままでは、との思いがあることも、事実ではないか。とは言え、今の状況さえ、非人道を取り上げる前に、もう一つの問題を、真剣に取り上げるべき、と思う。あの国の首相が、盛んに、攻撃の手を緩めず、実効支配を続ける、ある宗教勢力の、殲滅を目指すのも、今回の戦いのきっかけが、そこにあるからであり、その一方で、あの地域に住む難民達も、確かに、あの国の爆撃が、直接的な被害を産むとはいえ、その攻撃対象が、自分らではなく、彼らにあるとしたら、と考えることも、大切に思える。確かに、奇襲攻撃で、これまで抑圧され続けてきた、あの国民に被害が及び、捕虜を確保することで、交渉の手立てを得た時に、歓声を上げていた人々も、ここまでの攻撃に、攻め込む国だけでなく、自分達を窮地に追い込んだ、あの勢力への、別の思いを、掲げる必要が感じられる。あの地域は、混乱の中、暫定自治政府が、存在していた時には、ある意味の安定の中に、あったのではないか。それが、極端な考えで、徹底抗戦を続ける、新たな勢力の登場で、今の状況へと、進んできた。これらについて考えると、今の勢力への、支持の高さが如何程か、知りたい所だ。自分達で決める為にも。

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8月20日(水)−脅し勝ち

 当選前に、公言していたことは、実は、何一つ、実現していない。と、これは、おそらく言い過ぎで、一部の些細なことは、自分の命令で、断行できただろう。だが、その他大勢が関わることや、他の国々との関係では、言い放った言葉は、そのまま、何処かに消し飛んだようだ。
 と書くと、また、支援者からは、否、という礫が、飛んでくるだろう。何しろ、あの人物は、出来もしないことを、さも、簡単な如く、安請け合いをした上で、もし、何かしらの不都合が、起きたとすれば、それは、その他大勢の無責任が、招いたことと、言い放つだけなのだ。今回の停戦だか、和平だか、得体の知れぬ交渉も、交渉術に長けた、と自慢する割に、彼方此方へと、右往左往するだけで、向かう方向さえ、見えてこない。それでも、外交には、よくある出来事で、どんな結論でも、導いてしまえば、交渉成立、となるのだ。これ自体が、何か、更に悪いことを、招くのかと問われれば、多くが、これ以上は、とでも答えるだろう。だが、それ以外の部分で、就任以来の、暴君ぶりだけでも、かなりの悪影響が、世界中に広がっている、とする向きは、多数居るに違いない。では、何が、大問題なのか。何度か、書いてきたことだが、好き勝手に振る舞う、というやり方自体が、悪影響そのもの、ということだ。交渉とは、妥協点を見出し、そこに着地する為に、互いの利害の、落とし所を見出す、ということだろうが、今のやり方は、ただ単純に、暴力的な圧力を使い、脅し続けることで、交渉相手が、示す着地点が、気に入るまで、更に脅し続ける、というだけで、これを気に入る人は、沢山居ると思える。何しろ、自分に有利に働く、交渉手法として、確かに、通用するように見える、からなのだ。だが、一般社会で、これが実行されれば、その多くが、犯罪として裁かれる。脅迫とか、恐喝とか、そんな言葉が、当てはまるからだ。では、何故、国際社会では、そうならないか。力こそが、全てだからだろう。そんな時代に、誰が、戻りたいと願うのか、全く理解できない。

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8月19日(火)−暗雲か

 連日の、更新の報道を、どう受け止めれば、と考える人が多いのか。確かに、ついこの間までは、海の向こうの暴君の、不確実な政策と発言に、戸惑うばかりとなり、相場は、下げを続けていたが、突然、息を吹き返したが如く、上げに転じた。それも、向こうだけでなく、こちらもが。
 不確実な要素は、一つも除かれぬまま、何故、動きを転じたのか、理解できぬ人が、多いのだろう。だからこそ、評論家達は、思い付く限りの、要因を並べ立てる。数打ちゃ当たる、とばかりに、思えるのだが、果たしてどうだろう。そこに、更に、大きな不確実性として、軍事侵攻の解決と、紛争地域の解決に、猫の目外交なのか、真意を出さぬままに、国と国との話し合いを、続けていることが、更なる不安定を、予感させるのに、一向に、相場の勢いが、止まらない様子。それも、今回の騒動で、国内産業の復活が、成し遂げられるか否かで、経済状況が大きく変わる、あちらとは違い、こちらは、更なる圧力を受け、やっと回復した筈の、経済状況に、翳りがさすと言われる中、少数与党へと、成り下がった政府に、打つ手無しとさえ、言われる中での、最高値更新である。何が起きているのか、と思うのも、無理もないことに思える。ただ、相場は、将来への期待を、映したものであり、その意味では、国内事情として、動かぬことが、逆に、慌てふためき、悪手を続けるよりも、ずっとまし、と言われることと、繋がりそうに思えるし、海の向こうの懸念も、極論を出し続けつつ、前言撤回や、何度も繰り返される、実施延期の数々から、結局は、心配や懸念には、当たらないとする判断が、下されつつある、と見る向きもある。政府と独立の、中央銀行が、利下げの要求に、従わぬと見れば、その地位を奪おうと、司法に訴える、と脅す動きにも、自分の法廷闘争と、似て非なる動き、と見れば、心配無用とさえ、思えてくるのでは。その他様々な要素が、積み重なることで、暴君さえも、恐るるに足らず、となっているようだ。では、この勢いは、いつまで続くのか。

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8月18日(月)−何が頼り

 節目になると、必ずと言っていい程、歴史を振り返ることが、行われる。大衆媒体では、盛んに、ドラマや特集が制作され、何らかの意図を持って、流されている。確かに、歴史に学ぶことは、多いに違いないのだが、肝心の歴史そのものの、正しさについて、語られることは少ない。
 元々、過ちを繰り返さない、という信念から、歴史から学ぶ、と言われ続けてきたが、肝心の歴史は、その殆どが、勝者の記録に過ぎない、と言われている。その意味では、現在の状況からすれば、国際機関の、常任理事国が、記したものとの考えに、行き着くだろう。それが、事実に基づくもの、であることは、当然に思えるが、加害者の立場か、被害者の立場かで、全く異なる解釈が、施される場合も多い。従来であれば、人伝に聞いたことでも、自分の周囲の話を、基にして考えることが、多かったのだが、今では、皆が、手にした端末から、手に入れた情報を発信し、他の人々からの情報を、手に入れる形となる。話の真偽については、相手の信頼度も、重要な問題であり、身近な存在は、その意味で、ある程度の保証が、為されている、と考えるだろう。ところが、端末に流れる情報は、その源が、どの程度の人物か、だけでなく、その人物が、仲介した情報の、送り主についてさえ、何の保証も無い、ものとなっている。にも拘わらず、多くの人々は、どの位の「いいね」が、つけられているかで、その信頼度を測り、興味を抱くだけでなく、次の人々へと、渡そうとしていく。歴史そのものの、信頼度が、揺らぐ中で、このような状況が、構築されていくことに、誰も、懸念を抱かぬのか、と思うのも、ほんの一握りであり、世の中全体に、極端な主張や、傲慢な論理が、蔓延することとなる。ある意味、制作側は、そういう懸念を、払拭したいと願い、番組を作る、のかもしれないが、その中に流れる、情報についても、真偽の確定は、行えないに違いない。さて、そんな状態でも尚、歴史に学ぶべきか、考える必要は無いのか。科学の研究活動とは、明らかに異なる状況に、どう対応したらいいのか。一方で、科学についても、同じような形で、歪曲や捏造が蔓延り、世論操縦が、行われつつある。何を、拠り所にすべきなのか。

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