パンチの独り言

(2025年9月15日〜9月21日)
(生き延びる、禿鷲達、自分の為が、実効支配、牽強付会、狼狽売り、含み益)



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9月21日(日)−含み益

 水を差す決定が、発表された途端に、心理に揺さぶられる、市場は、急激な下げ、という反応を示した。実際に、何が起きるのか、を見定めるより前に、動くのは、相場の常であり、損失を、未然に防ぎ、事が起きる前に、動くことが、肝心と言われる所以だろう。本当か。
 昨日も書いたように、狼狽売りが続けば、現実の景気とは、かけ離れた場所に、相場が動くことになる。ただ、狼狽は、まさに、心理の動きであり、弱気になる投資家には、ある意味、当然の行動なのだ。一方で、尊敬を集める、投資家の一人は、全く異なる行動に出る。備えて、とか、先を読んで、とか、そんな小賢しいことに、終始するのは、相場の動きを、長い目で捉えた時には、賢明なことではなく、単に、心を擦り減らし、目標とする成果を、手に入れることは、却って、難しくなるとする。長期を見据えた、投資行動では、日々の変動に、振り回されることなく、落ち着いて、見込みを立てた企業の株が、徐々に、上がっていくことを眺め、通常、年に二度ある、配当によって、更なる収益を、上げようとする。ある意味で、中央銀行が、せっせと買い集めたことは、損失覚悟の行動で、それが、そうなったとしても、予算の範囲内で、損失を補填する、という備えは、できていたのだろう。だが、その後の経過は、何が働いたのか、好況へと転じ、保有株が、産み出した含み益は、購入額と、ほぼ同額となったことが、報じられた。個人投資家なら、利益確保の為に、売却を進めるだろうが、政策本位で、購入を続けた総額は、かなりの額に上り、決定した売却計画では、100年以上の期間を、必要とする程、との話がある。その勢いを増せば、今回のような、狼狽によるものではなく、単純に、売買の均衡が、保てなくなり、値崩れを起こすのだろう。それにしても、これ程の含み益を、どう処理するのか、とは、こちらの勝手な、懸念の一つだが、本来ならば、国の政策では、一部を除き、収益を得ては、ならぬものとされる。これについては、どんな処分方法が、考えられるのだろう。

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9月20日(土)−狼狽売り

 まさに、水を差した、ことになった。と報じられたのは、国の中央銀行が、保有していた、上場投資信託の売却を、決めたことを、発表した途端に、それまで、連日、最高値を更新し続けてきた、相場が、突然の下落に、見舞われたことだ。傍迷惑な、と思った人が、多いだろう。
 確かに、売りが、市場に示されれば、株価の下落を、招くのが、市場原理となる。特に、この投信は、指数連動型であり、逆に言えば、特定の銘柄ではなく、全体への影響を、及ぼすのだ。だから、これ程の、急激な下落へと、結び付いたとの、解釈が、専らなされるが、その額からして、こんな影響を、与えるものとは、冷静に考えれば、思えない。にも拘らず、こんな結果を、導いたのは、市場特有の、心理的影響による、と考えるのが妥当だろう。中央銀行にとり、経済低迷当時に、物価上昇を、誘発させる為、と称して、前任者が、実しやかな解説を加え、盛んに、購入を続けたことは、実は、当時の、株価を支えることへと、繋がっていた。だから、投資家にとっては、ある意味、歓迎すべきことで、その場の損失を、解消したのだから、今ここで、このような措置が、なされたとしても、批判ばかりは、していられない。特に、銀行にとっては、無理を承知で、多額の投資を、続けてきた訳で、場合によっては、それ自体が、銀行の損失を、拡大するものに、なっていたかも知れぬのだ。ただ、この話には、もう少し、じっくりと考える必要がある。中央銀行は、損失が見込まれたら、即座に、銀行券を増発し、それを補填することが、可能だからだ。それこそが、前任者の目論見であり、あれ程の強気で、断行した理由だろう。一方で、その後、特にここ数ヶ月で、一気に、相場の好況へと、転換したことから、損失どころか、かなりの含み益へと、転じたことで、今回の決定も、何の問題も無し、と結論付けられた。何れにせよ、不安や心配という、心理的な要素ばかりで、一時的な急変に、見舞われた訳だが、さて、ここから、次の動きは、どうなるのか。何しろ、この調子では、100年の間、売りが続くのだ。冷静になれば、何をすべきか、明白な筈だが。

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9月19日(金)−牽強付会

 海の向こうの政権の、紛争地帯に対する指摘が、正しいと書いたが、それは、あの暴君が、正しいという意味とは、かなり異なる。特に、難民を追い出し、一大観光地へと、変貌させるとの案は、馬鹿げたものだ。その上、あの人物は、不都合な発言は、専ら、取り巻きに押し付ける。
 地下活動家達を、獣呼ばわりしたのは、正直な気持ちの、表れに違いないが、本を焼いたり、教祖を批判しただけで、世界的に、暗殺命令が出るなど、狂信的な連中に対し、厳しい発言は、同じ結果を、招きかねない。暴言を繰り返す、とは言え、彼は、安全圏に身を置き、敵の前に、姿を現すのは、極力避けている。そんな人間が、言いたい放題を、繰り返したとしても、保身こそが、最優先であり、任期を終えても、同じ境遇にありたい、と願うのは、当然の権利、と思っている。そんな人間が、何かしらの提案を、したとしても、その殆どは、取るに足らないもので、真面目に取り合うのは、馬鹿げている。にしても、今の紛争地帯や、軍事侵攻により、荒らされ続ける国に、どのような働きかけを、するべきかについては、全く別の事情が、あるに違いない。特に、最大の経済国で、その大統領の発言や提案が、その他の国々により、大真面目に、受け取られる状況では、今のような流れは、選択の余地が無い。投げられた、暴投気味の牽制球に、冗句で応えるのは、あの国の君主くらいのもので、その他大勢の、無力な人々は、横暴な扱いに、我慢を強いられても、服従まではせずとも、反発は、禁忌事項だろう。さて、そうなったとして、これまでの混乱は、どう片付けられるのか。おそらく、彼の任期中には、何の結論も、導かれることなく、夢に描いた、受賞の喜びは、実現せぬまま、忘れ去られるだろう。仮令、実現したとしても、様々な歪曲の末に、牽強付会の如く、導かれたものとなり、冷めた世間からは、まさに、冷たい視線を、浴びることになるだろう。そんな些事は、さておき、分断が繰り返され、脅迫じみた、行為の連続を、断ち切ることは、可能だろうか。いや、あれ程の騒ぎでも、所詮、落ち着く所に、落ち着くもの、と見るべきかも、だ。

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9月18日(木)−実効支配

 国内の問題でさえ、山のように積み上がり、どう解決するのか、全く見えてこないが、国際問題も、様々なものが、積み上がっている。自分のことさえ、片付けられぬままに、他人のことに、頭を突っ込むのは、愚の骨頂とも思えるが、実は、それぞれが、互いに繋がり、こんがらがるのだ。
 物価高騰についても、軍事侵攻が、小麦価格に影響を与え、民族紛争が、原油価格に影響する、そんな具合だから、他人事として、無視する訳にも、いくまい。だが、だからと言って、筋違いの主張を、展開するのは、それこそ、愚かとしか、言いようのないことだ。暴君とか、餓鬼大将とか、馬鹿にし続けてきたが、彼の政権に関して、これらの国際問題について、大口を叩いたように、即座の解決は、夢幻に過ぎず、期待を裏切ったが、その一方で、紛争地域に出かけた、国務長官が、指摘した根源の問題は、重要なものだった。犠牲者が増え続け、それを、抑制する為と称して、国家承認に、踏み切る国々が、出ている一方で、あの国は、一切それを認めず、根本問題の解決が、先だと断言した。あの地域は、嘗て、暫定自治と称する、政府の存在が、ある一定の安定を、保っていたが、その実、中心人物の議長が、私服を肥やすだけで、国家としての成立を、目指したものには、なっていなかった。その上、後継者を育てずに、鬼籍に入ったことで、無政府状態へと陥り、次に登場したのは、暴力的な地下活動を、専ら行う、ゲリラ組織で、実効支配との表現が、使われた。それでも、散発的な攻防だけで、不安定な中での安定が、続いていたが、かの国務長官が、語ったように、まさに、獣でしかない、蛮行をしたことで、今の状況を招いた。人質という形で、交渉材料を得て、悦に入ったまでは、想定通りだったが、その後の対応は、想定外の攻撃の連続で、組織壊滅を、目指す形となり、市民の犠牲も、増えるばかりだ。前にも書いたが、その直接的な原因は、爆撃を続ける、国家の横暴さではなく、市民を盾にして、勝手な地下活動を続ける、あの組織の存在だ。その点に関しては、皆が認識せねば、この先の交渉は、あり得ない。また、実効支配しかない、あの地域を、国家として承認するのも、明らかな過ちでしかない。独り言を、書き始めた頃に、記したように、あの地域の実情を、理解せずに、人道を持ち出すのは、愚の骨頂でしかない。

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9月17日(水)−自分の為が

 ここ数日書いた、問題に関して、諸悪の根源は、個人主義にある、と言われる。社会の一員としてではなく、個人のことばかりを考え、その利益を追求し続けた結果として、今の歪みがある、というのだ。どうだろうか。人間は、当然のこととして、自分中心に、考えるのでは。
 だから、私利私欲に走る、ということそのものに、害悪があるとは、言い切れぬように思う。私服を肥やすのは、これとは、全く別の行為であり、他人が、損失を被ったとしても、自分さえ、儲かればいい、という考え方こそが、今の歪みへと、繋がったとすべきではないか。そう考えると、あの宰相も、いかにも、国民の為になる、と称して、派手な振る舞いを、続けてきたが、その実、取り巻きどもだけが、その恩恵に与っただけで、その他大勢の国民は、損を被っただけだった。当然、その際に、政策を正当化する為に、様々な口上が使われ、そこで活躍した人物は、取り巻きと共に、利益を掠め取っていった。一方で、自身の政党を、破壊するとまで、言い切った話は、沙汰止みとなり、今に至ったことで、少数与党という、雁字搦めの事態へと、結びついたと言える。それはまた、もう一人の、人気を誇った宰相が、凶弾に倒れた時から、綻び始めた、派閥の問題と、そこから生じた、違法行為の連鎖が、大きく影響しており、一見、人気が高かった人間が、裏では、様々に、不正を働き、都合よく動いた結果が、今の姿を表している。そう考えると、次への世代交代、と称した行事が、まさかの結果へと、結び付いたら、没落の勢いが、増すように思えてくる。これは、一政党の問題ではなく、実は、国自体の問題でもある。この所、成長を誇った時と違い、様々な責任転嫁を繰り返し、保身に走るのが、多くの人々の常、となりつつあるが、それこそが、以前にも書いた、個人の活躍が、社会全体の繁栄へと、繋がるものと、大きく変わった点、との指摘がある。こんな筈では、と思う人が、増えているのも、その為かと思えるが、それを、一部には、個人主義の問題、と見做すようで、海の向こうから、押し寄せた考えが、諸悪の根源、となったと見做す。だが、それも、単なる模倣に過ぎず、その上、金の亡者と化した、権力者とそれに寄り添う人々の、問題だろう。本来の国民性は、一人が全体の為となる、個人主義であり、私利私欲に走ったとしても、それが、社会の繁栄に、繋がるものであれば、問題無しとなるのではないか。

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9月16日(火)−禿鷹達

 長い間、生活の厳しい状況が、続いてきた。と思う人が、多いのだろう。そこにきて、この物価高騰が起き、更に、厳しさが増す、と思う人も、やはり多い。ただ、責任転嫁しても、仕方ない所で、自分なりに、対応、対処を、考える必要が、出てきているのだ。好転を待って。
 泡が弾けてから、ほぼ30年の間、悪くなる一方の、様相が続いてきた。その理由に関して、様々な意見が、出されているが、やはり、政策の過ち、とするのが、適切かと思う。元々、外圧に曝され、自らが築くべき、権利を放棄することで、対応してきたことが、諸悪の根源なのだが、それを、更に加速した政権が、存在したことに、改めて、目を向けるべきと思う。そこでは、数々の国営企業が、次々に、民営化する中、その最後として、郵便事業の民営化が、ある宰相と、似非経済学者の手で、強く進められた。強い思い込みから、拘りに縛られ、一目散に、突っ走るのは、あの人物の特徴で、それが、人気の源となったが、その実、多くの取り巻きにより、思惑に満ちた、政策の数々を、断行したことで、弾けた後の混乱が、極まる方に、進められた。特に、似非学者は、如何にも学問的に、経済の法則を持ち出し、それに従った形で、誤った政策を、推し進めていた。その典型が、民営化であり、今起きている歪みも、元を辿れば、そこから始まったもの、と言えるに違いない。交通機関の民営化が、一部の企業のみとは言え、大成功に繋がり、他国の民営化とは、大きく異なる結果に、結びついたことと、対照的なもの、と言えるだろう。その上、彼の常套句だった、市場原理も、先日の騒動で、明らかになったように、一部業者の利益を、追求する結果を、正当化する為の、方便に過ぎなかった。当時、取り巻き達には、大企業だけでなく、一部の振興とも思える、企業の経営者が、蠢いていたが、結果として、彼らが私服を肥やすのを、大いに進めただけで、それによって生じた、数々の課題が、国民の上に、降り注いだだけだった。件の似非学者も、その後は、私服を肥やすばかりで、今尚、その悪影響が、残る一方で、自分は、活躍の場を見つけ、批判の矢面に、立つことは、決してない。あの宰相の問題は、まさかと思うが、次世代へと、引き継がれかねず、同じ穴の狢どもが、群がることに、なりかねない。いやはや、困ったものと思うが、どうなることか。

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9月15日(月)−生き延びる

 物価高が始まった頃、それまでの心配や不安なぞ、消し飛んでしまう程、落ち込んだ人が、居たのではないか。確かに、手取りが増えるあても無く、ただ、出費が増えるのだとしたら、早晩、破産宣告を、せねばならぬ、と思った人も、居ただろう。だが、その後の展開は。
 確かに、日々の出費は、増え続けている、ように見える。だが、破産は、と言えば、そんな気配は、見えてない、というのが、殆どの人の状況だろう。何故か。理由は簡単で、心配したよりも、余裕があった、ということだ。にしても、この先、海の向こうなどのように、こちらの数倍の外食費、となったとしたら、やはり、蓄えが無くなり、遂には、破産となりかねぬ、とも思えてくる。収入と支出の均衡は、どうあるべきか、という点に関して、改めて、考えるべき時が、来ているのだろう。何故、今まで、そのことに、思いを馳せることなく、のうのうと生きてきたのか、とさえ、思うべきかも知れぬ。ただ、微温湯だったのか、はたまた、騙されてきたのか、理由は、定かではないが、何れにしても、これまでの収支への考え方を、改める時が、来ているのだ。だとしたら、何を、どう改めるのか。簡単なことでは、ないだろう。何しろ、まだ働いている人は、自分の仕事場や仕事の内容に、目を向けるべきだし、経営に携わる人は、企業を、どう切り盛りするか、考えねばならない。特に、経営では、収益を上げつつ、働く人々に、その分け前を、どう分配するかが、肝心となる。でも、もう働かなくなり、年金なるものや、蓄えなどの運用で、暮らす人にとっては、全く別の事情が、存在する。何しろ、支給額は、国が決めるもので、これまでなら、物価上昇に対し、支給減額など、理解不能な措置が、取られてきたのだ。流石に、ここまで来ても猶、そんな惚けたことを、するとは思えぬが、でも、国のやることは、信用おけん、と思うかもだ。まあ、そんなこんなで、何が起きるのか、まだ定かではないが、それでも、この流れが続くだろう。倹約も含め、対処せねば、と思うこと頻りだ。

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