詐欺が、一向に減らない。何故だろうか。皆、思うことだろう。何故、あんなことに、騙されるのか、と。だが、一方で、騙される筈が無い、と思っていたのに、まんまと騙された、という話も流れてくる。となると、何故なのか、という疑問が、更に、強まるのだ。
たわいもない、ことに、騙される筈が無い、と思っていた人が、相手の話に、まんまと乗せられ、多額の財産を、失ったと言う。本人に、問いかけると、返ってくるのは、洗脳されてしまった、の一言。洗脳とは、と絶句する人が、多いに違いない。何故なら、そのことずばりが、起こる筈が無い、と言っていたのだから。では、どこに違いが、あるのだろうか。まず、その前に、最近の詐欺防止法を、考えてみると、兎に角、接しないこと、とある。相手にすると、つい乗せられて、騙されることになる、というのが理由だ。これこそ、洗脳の手口であり、宗教にしろ、詐欺にしろ、騙されることに、繋がるのは、相手の話を、聞くことにある、という訳だ。でも、時には、他人の話を、聞く必要があるのでは、と思う人が多いだろう。その通りで、人間社会では、自分に有利になることも、不利になることも、兎に角、飛び込んでくる話題に、触れぬ訳にもいかない。だから、かかってきた電話に、出てしまう訳だし、日頃から、接する人の話に、耳を傾けることも多い。もし、これが駄目なら、耳を塞いで、一生を送ることしか、方法が無くなる。それじゃあ、人間でなくなる、と思うだろう。だから、最善の方法、と言われる、話を聞くな、という手には、出られないのだ。だとしたら、どうすれば良いのか。耳を傾けつつ、他人の調子に、合わせないことが、肝心なのだろう。そう思って、社会媒体を眺めると、それが出来ずに、盛り上がる人が、如何に多いか、気付かされる。映像に騙される、というのは、手品に騙されるのと、似たものだが、これは、自分の目を、過信することから、始まっている。同じことが、自身の知識への過信で、無知と同じなのに、それを受け入れないのだ。今も、囀りで盛り上がるのは、無言の帰宅という話で、別の展開と誤解する。また、知らないことを、無いと断定するのも、同じ類だ。こんな無知も、仲間が居ると、正しいこととなる。あの媒体の状況は、詐欺に騙される理由を、教えてくれている。
活況を呈する、株式相場。この場所も、本来なら、関係者で賑わい、皆が、持ち株の上昇に、浮かれている筈だが、いつの間にか、そんな人々は去り、誰も訪れなくなった。まあ、本来の目的として、低迷する経済状況で、困難に立ち向かう、証券社員を、応援するのだから、これで良しか。
低迷した時代には、何事につけ、責任を負わされ続け、その中から、自己責任という言葉が、生まれた。では、今の状態では、どうだろうか。ある投資信託は、人気を博し、世界的な活況の中、収益を上げ続ける、と言われる。だからと言って、その関係者が、讃えられる訳、でもないだろう。活況が、どんな理由によるのか、投資家達は、知ったことではなく、ただ単に、収益が上がりさえすれば、それで良いのだ。逆に、損が嵩むと、罵声が飛び交い、責任を問われる。だが、所詮、自己責任の世界である。誰に、何を罵っても、何の変化も起きず、塩漬けになった、株の数々を、忘れたいと願う。今は、全く逆であり、活況が続き、連日の最高値更新の報道に、首を傾げつつ、喜びを隠せぬ。だが、報道は、兎に角、悲惨な話を喜び、悲劇の筋書きを、立てたいと願う。だから、街頭で聞いた話も、「実感がない」とか、「生活が苦しい」とか、そんなものばかりを、選び出す。ただ、街行く人の殆どは、投資には、関心がなく、元手が無いと、言うだけだ。そんな人々に、相場の動きを、尋ねてみても、無関心なままで、一部の投資家が、儲けているのは、不公平などと、言い出すだけだ。一方で、投資家に対しては、こんな時期に、話を聞く筈もなく、海の向こうの暴君の、不規則発言の結果として、下落が続く中で、どれ程の損失を、被ったのか、という話題の時だけ、訪問して、如何にも、ざまあみろといった雰囲気を、醸し出す。兎に角、不安や心配が、飯の種であり、不平や不満が、宝の山となる。そんな日々を、送りながら、与党の主の選挙を、眺めていても、結局は、身勝手な解釈と、視野狭窄の結果だけが、示され続ける。株式相場は、経済の先行きの、指標となる、と散々強調しながら、今はどうか、と大衆に問いかけるのは、愚かでしかない。それに、素直に応じる連中も、思慮不足が、目立つばかりで、苦境から逃れるなど、夢のまた夢だ。
敗戦後、長きに渡って、反省を繰り返してきた。軍部や国の、暴走を止められず、権力に加担して、誤った情報を、国民に流し続けた、それらの過ちに対して、反省すべき、との自戒の念から、と言われるが、どうだったのか。昨日の例を見ると、何も変わっていない、とさえ思える。
戦時中の暴挙の数々も、次々と暴かれて、厳しい批判がなされた。だが、その多くは、問題を起こした連中を、槍玉に上げるばかりで、そこへの加担が、どのような意図から、どんな形で、そして、最も重要なことは、誰が、起こしたのかについて、指摘することなく、まるで、他人事のように、糾弾し続けたことだ。確かに、犯罪的な行為を、犯した人間が、罰せられるのは、当然のことだろうが、その一方で、報道にとっては、それを、功績のように取り上げ、英雄の如く、扱うことが、課せられた責務であり、それを、果たしただけのこと、と言えるのかも知れぬ。だが、犯罪としては、何方の場合も、当てはまるわけで、自省の念を、強くしたいのなら、直接的な関わりで、ないことから、罰せられることは、無いにしても、何らかの糾弾を、受け止める必要が、あったのではないか。それらのことを、棚に上げたまま、得意とする、糾弾に終始したことで、本質的な理解は、及ばぬこととなり、結果として、見抜く力は、叶えられぬままに、今に至ったのだろう。これは、今に始まったことではなく、権力に与する人間には、屡々起きることで、それらは全て、看過されたまま、となってきた。その流れの中で、大衆媒体が、全てを牛耳ってきた時代から、社会媒体が、台頭することで、その地位さえも、奪われかねぬ状況に、近づいてきている。ただ、どちらの媒体も、それを構成する人間の、愚かさが、表面化しており、特に、愚かな人間の、愚かな発言ほど、耳目を集める傾向は、愚民政治をはじめとして、誤った方向に、進む中では、強まるばかりとなっている。誰もが、発言する権利を、得たからこそ、それを、有効に使うべき、と思うのだが、その通りには、なりそうにない。簡単には、受け手の問題だろうから、こうなることは、自明の理に、違いないことだろう。啓蒙の必要性は、今まさに、不可欠となりつつある。それを導くのは、誰で、どのように、なされるべきかを、考えねばならぬ。
論点を外している、と昨日書いた。今朝の経済紙の、一面の見出しには、「内向く」とあり、批判的な記事が、綴られていた。ここに、今の大衆媒体の欠陥が、露呈している。自分達の姿勢を、正すことから、始めようとする、候補者達を、批判するのではなく、全くの別事を、だからだ。
記事の内容は、国内情勢ばかりに、目を向ける姿勢を、批判したものであり、家計支援や、物価高対策など、国内政治を、前面に押し出し、外交への視点に、欠けている、との批判だった。確かに、国際情勢は、今の不安定な中では、非常に重要なもので、それを見極め、自分達の国が、何方に与するか、あるいは、双方に対して、均等に提案する、姿勢を取るのか、などの態度表明が、重要となる。退くことを、決めても尚、国際機関の会合で、発言を続ける、現宰相の態度に、苛立ちを示す一方で、それへの批判どころか、内向きの姿勢を、露わにする連中に、呆れ果てた、とでも言いたいのだろう。しかし、この一年の、あの政党の抱えた問題と、未だに解決できない態度に、選挙結果は、鉄槌を下ろした訳で、それを理由の、退陣であれば、まずは自らの姿勢を正し、膿を出す方策を、提案すべきではないか。選挙直後には、そんな報道が、矢鱈に流され、社会媒体だけでなく、大衆媒体さえも、不正を続けた政治家達を、全て始末すべき、という極端な論調が、目立っていた。にも拘わらず、いざ、党の主を決めようと、動き始めた途端に、内政だの、外交だのと、政治一色の論調へと、一転してしまう。これが、この国の政治も報道も、共に抱える、大問題なのだが、自画自賛ばかりで、肝心なことに、目が向きそうにない。それでも、ある程度の繁栄を、続けられるのは、政治でも報道でもなく、国の運営に携わる、官僚やその他大勢の役人が、ある方向性をもって、職務を遂行しているからで、海の向こうや、隣の大国との、大きな違いだろう。にしても、ここまで腐ってくると、はて、どうなるのか、と心配にさえ、なってくる。確かに、後進に道を譲るのは、大切なことだが、年の功の意義が、蔑ろにされるのは、どうかと思う。と言っても、肝心の年寄りが、欲の塊では、何ともはやだが。
違和感を、覚えることは、少なくない。だが、これ程までに、なのは何故か。的外れは、これまでに、何度もあり、それが、原因となり、嫌われる羽目に、陥ったとしたら、そこから、まずは考える必要がある、のではないか。さて、何のことか。政の世界は、魑魅魍魎が棲む、とも言うが。
連敗続きで、遂に、退陣を決めた時、従来の仕組みからすれば、主を決めることが、先に立つのだ。だから、改めて、その手続きが始まり、ほぼ同じ面々が、登場してきた。中には、前回の敗戦から、表舞台に立つことなく、殆ど、情報が漏れず、どう言う立場に、あったのかさえ、定かでない、という人も居り、今更、という感が拭えない。一方で、現政権に、地位を得て、活躍を続けることで、前評判が良い、と言われる人も居る。何方が、より良い候補か、という点を、論じてみても、何の役にも、立たないに違いない。だが、今の報道内容からは、それ以上のものが、全く見えてこない。何が、悪いのか。ここに、違和感がある、のではないか。仲間内の、主を決める流れの中で、何故、国民相手の、選挙公約の類が、連立するのか、そこに不思議がある、と思う。政党にとり、確かに、選挙での勝利が、第一である、と考えたくなるのも、無理ないことだが、さて、今、現宰相を退け、その後に、座ろうとする人間を、選ぶ段階で、国民への魅力が、第一と考えるのは、まさに大外れに思える。確かに、公約は、大切なことだが、嫌われた理由は、それだけか、候補の誰も、考えないことに、首を傾げるしかない。特に、金の使い方について、散々報道され、ほぼ違法行為である、と断じられたのに、その始末さえ、滞る始末に、強い批判が集まった。にも拘わらず、今ここで、必要なのは、国民の望むことで、魅力的な政策こそが、最重要と考えるのは、馬鹿げた話、としか思えない。まずは、一部に終わった、処分について、改めて、行う為に必要な、手続きについて、提案すべきであり、蓋をしたまま、他党との協力体制を、などと宣うのは、滑稽としか見えない。その上、公約紛いのものを、並べ立てて、魅力を訴えるのは、笑止千万でしかない。こんな奴らに、国の行く末を、任せられるか。
親心なのか、老婆心なのか、何れにしても、機会を与えることが、重要との考えなのだろう。だが、その一方で、失うものがあることに、目を向けることなく、利点のみを、追求するのは、どうだろうか。傾向と対策も、魅力的な提案も、そんなものに、溢れていると思う。
そうでなくとも、研究水準の低下が、著しくなり、このまま、世界から姿を消すのでは、との懸念さえ、大真面目に取り上げ、その為の方策として、国際化こそが、最重要課題と、主張する。その為には、留学生の確保や、言語能力の獲得が、必須とする訳だが、本当にそうか。10年程前に、読んだ本で、既に、何度も取り上げたが、科学の教育に、母語を用いるのは、一部の国に限られており、こちらも、その一つに数えられる。多くの国々では、先進国でさえ、母語での教育ではなく、共通語での教育こそが、高等教育において、不可欠と見做され、結果として、多国間の協力も、円滑に結ばれる、と言われる。その中で、母語への拘りに、縛られた結果、世界的な地位が、脅かされている、と見る訳だが、本質を、見ないままに、この主張が為されるのは、間違いでしかない。ここで、何度も強調したように、論理構築は、活動を支える、強力な武器になるが、それは、母語でのものであり、高等教育において、外国語で学ぶことは、円滑な構築を、妨げることもある。その点が、先程の本でも、取り上げられた所だが、今の風潮は、それを失ってでも、国際化を図れ、というものであり、本末転倒でしかない。著名な賞の受賞者は、そういう教育を受け、自らの論理を、築き上げた結果、評価を受けた、成果を手に入れた訳で、そこに、外国語での、意思疎通が、母語話者と同様かは、関連ないこととなる。拙い表現でも、本質を突く議論を、進める人間に対し、傾聴に値するか否かは、明白なものだ。それを、上部だけのもので、誤魔化しに走る人間を、養成しようとするのは、明らかな過ちであり、今の風潮の、人工知能頼みと、何ら変わらぬものだろう。だからこそ、軽率でしかない、と断じる訳だ。
何度も、取り上げてきたことだが、違う視点から、眺めてみようと思う。傾向と対策の話だ。平和で安定した時代、将来への心配は、権利を手に入れられるか、ということとなり、受験や就職でも、その為の準備として、過去の事例を検証し、対応策を講じる、とされてきた。
だが、数人の暴君の登場から、不確実性が、取り沙汰されると、様相は、一変した。過去の事例は、必ずしも、当てはまらず、準備は、空振りに終わることが、増えてきた。というより、逆効果となる場合さえ、目立ち始め、多くの勤勉な人々は、戸惑うこととなった。とは言え、こんな状況が、長く続く筈は無い、と考える人も多く、仮令、極端に走ったとして、一部地域の紛争が、激化したとしても、全体としては、従来通りの、安定と平和が、続くと信じている。一方で、不確実に関しても、所詮、あの連中が、君臨する間だけで、こちらの人生の長さからは、好転する筈、と見る向きが多い。楽観的に、過ぎるのでは、との意見もあるが、一方で、心配し過ぎもどうか、という意見も。ただ、今回の、傾向と対策は、少し違った見方からだ。傾向と言っても、過去の事例との比較、ではなく、自分の経験で、抜け落ちていた部分を、新しい世代で、埋め合わせよう、とするものだ。これは、例えば、大学進学率が、急激に上昇した当時の、親子の関係に、見られたものだが、対策を、と称して、子供達に圧力をかけ、知らぬことなのに、将来への備えとして、不可欠と断じることだ。だが、その埋め合わせは、以前なら、別の事柄に、向けられた時間を、費やすこととなり、同じ条件にある、とは言えない。にも拘わらず、当然のこととして、強制することは、結果的に、二兎追うものは、となったことも多い。似て非なるものだが、ある大学が、工学系で、英語での講義を、全面実施する、との決定を下した。その理由の一つに、ある教員が、海の向こうに渡った時に、語学で苦労したので、それを防ぐ為と、説明していたが、如何にも、親心に見える判断が、実は、上に書いたのと同様に、他の時間を、奪うこととなり、自分の今の地位を、築く為に必要だった、一部の能力の獲得の、機会を奪うことになる、と考えることもできる。こういう人々は、埋め合わせを、大切なもの、と見るようだが、その実、全体を見渡せず、一部に固執する結果でしかない、と気付かぬものだ。