敵対視するからか、全てを嘘、と断じる姿勢に、対応する手立ては、無いに等しい。それは、海の向こうの、餓鬼大将が、最初に言い始めた、大衆媒体を、偽報道と断じる、あの極端な姿勢に、始まっている。ただ、情報社会では、全てが本物、と盲信する訳にもいかぬ。
ただ、あの媒体には、監視機関なるものが、存在している。嘘や捏造が、番組の中で、行われた場合に、厳しい措置が、下される。だが、それは、放送後のことで、世論操作が、行われた後だ。特に、急速な拡散が、可能となる中では、手遅れとなる場合もあり、仕組みがあるから、とは言ってられない。では、一方で、社会媒体は、と眺めてみると、最近は、嘘や捏造が、蔓延している、としか見えない。特に、生成人工知能の登場で、誰もが、簡単に、作り物を揃えられ、それを提示するから、殆ど全てが、偽物かとさえ、思えてくる。少なくとも、そういった気分で、眺めていかないと、すぐに、騙されることになる。何方かと言えば、大衆媒体より、遥かに多数の、嘘が横行している、と見るべきだろう。あちらの媒体は、手遅れかも、との懸念はあるものの、監視する仕組みがある。では、もう一つの媒体は、と考えてみると、それが、全く無いことに気付く。否、本当は、その仕組みは、あったと言うべきか。嘗ては、真偽を判断する仕組みを、媒体自身が、構築することで、情報操作を、防ごうとする動きがあり、実際に、運営されていた。しかし、今では、その仕組みは、殆ど無力化され、外部からの監視が、行われるのみとなる。利用者が、問い掛ければ、判断を下すようだが、それでは、不十分としか言えぬ。何故、この流れに至ったのかは、少し考えれば、思い当たる。あの大富豪が、囀りの買収をし、厳しい規制が、民主主義を脅かす、との主張から、規制を外したことに始まり、その上で、元大統領が、返り咲くに合わせて、利用停止を、解いたことへと至る。その後、他の媒体も、軍門に降り、規制を外すと共に、裁判の結果も、和解へと結び付いた。これらは、社会媒体が、備えるべき、自己点検機能を、権利に反するものとして、自身が、放棄することへと、繋がったようだ。で、今の混沌へと、入ったことは、何を意味するのか。何をすべきか、皆で考えるのか。
法律は、社会の秩序を、保つ為に、定められる。その意味では、合理的なものの筈だが、その適用の仕方で、不合理や不条理に繋がり、違和感を覚えることが、多くある。まあ、人間は、自己中心的なもので、社会の規則も、不都合と感じれば、おかしな法律、と思うだけだが。
とは言え、命に関わることとなると、笑い飛ばすことは、できなくなる。先日も、高齢者が、見知らぬ人に、殺される事件が、起きたのだが、現時点で、犯人の話では、人生を終わらせたく思い、人を殺せば、と結論付けたようだ。これに対して、同意する人は、殆どいないと思う。極端に言えば、終わらせたいのなら、自殺すればいい、となる訳だが、同じ人間が、全く違う理由でも、自殺した人の話を聞くと、残念に思うことと、一致できそうにない。ただ、他人を巻き込んで、自分の運命を、決めようとすることは、正しくない、と思う人が多い。同じことで、自殺しようと、往来の激しい街中の、高い建物から、飛び降りる人がいて、歩行者が、偶然、巻き込まれた、という事件も、ほんの偶にだが、起きることがある。法律上、殺人とは言えないが、それにしても、巻き込まれた人間に、何の罪もなく、時に、飛び降りた人間だけが、助かる話となり、理不尽と言われる。何れにしても、もし、自分で、人生を終わらせたい、と思ったら、静かに、他人を巻き込まずに、命を絶つことが、一番の道だろう。但し、残された人間が、何らかの被害を、受けるようなら、別の選択を、取ることが必要だ。追い込まれた人間に、そんな判断が、できる筈が無い、と思う人が、多いだろうが、現実には、冷静な部分は、残っていて、そんな考えが、過ぎることが多い、と聞く。一方で、そんな思いで、殺人を犯す人間なら、裁判も無しに、さっさと死刑に処し、思いを遂げてやれ、との意見もある。確かに、法治国家では、殺人自体の認定も、精神的な精査も、多くの検証が必要で、その上、裁判の結果では、通常は、懲役刑となり、命の保証が取られる。これでは、何方も思いが、遂げられないままだ。不合理とか不条理とか、そんな思いが過ぎるのも、そんなことの為なのだろう。
媒体間の、下らない啀み合いは、激しくなるばかりか。鹿騒動は、その典型であり、不見識な政治家まで、巻き込んで盛り上がっている。その中で、大衆媒体は、現地の人間に、扮した人間に、ある主張をさせた、と社会媒体で、指摘され、その真偽で、更なる激論となった。
ここでも、匿名性を使った人々が、好き勝手な発言や、証拠として、不確かな情報を、垂れ流す、社会媒体の人々は、大衆媒体が、画面に映し出した人々の、特定に躍起となった。他人の空似まで、持ち出す騒ぎに、その上司と称する人間が、社会媒体に意見を出したら、匿名性から、疑わしいという、まるで、天に唾するような、書き込みまで、飛び出す始末に、呆れるばかりとなる。ただ、テレビや新聞などの、大衆媒体は、個人情報の保護を、盾に取り、登場人物の、特定を妨げるから、こんな騒ぎが、急拡大する。何方も何方、としか表現できそうにない。愉快犯なる、暇な人々は、騒動だけで、喜び勇み、更に、それが収益へと、繋がれば、満足なのだろうが、情報社会の、無駄でしかない。一方で、以前ならば、それなりの矜持を、示していた、大衆媒体も、社会媒体の人気を、取り上げるなど、馬鹿騒動の片棒を、担ぐばかりで、品性の欠片も、見えなくなった。恥の上塗りかと、思えるのは、それに加えて、訳知り顔で、愚かな解説や紹介を、繰り返す姿であり、情報そのものへの、信頼を、失墜させているのは、何方の媒体にも、通じる話と思える。例えば、昨日も、ネットショッピングで、詐欺に遭うという話を、夕方のニュースで紹介していたが、その内容が、愚か過ぎて呆れてしまった。その番組そのものは、まだ、どこにも出てこないが、今後、出てくる可能性も、あると思う。ただ、その詐欺手口については、YouTubeに掲載されており、興味があれば、覗いて欲しい。「私はロボットではありません」との項目は、買い物する場で、詐欺を防止する為に、編み出されたものだが、それを悪用して、ウイルスソフトを、書き込ませるものだ。本来の仕組みとは、違う手順が、示されたことから、疑わしいのは、明白なのだが、そこに示された、命令文が意味するものは、少し知識があれば、理解できる。だが、テレビのニュースで、常に訳知り顔で、解説する人物が、3人揃って、その意味を解説もせずに、紹介しただけで、終わった。愚かな大衆に、説明しても無駄、とでも言いたいのか。こんな媒体は、無駄でしかない。
良識ある人には、当然のことであり、今更、書くまでもないが、それでも、書いておこうと思う。情報社会、と呼ばれる仕組みに、不可欠なものは、何だろうか。情報の流れを、円滑にする仕組みであり、今なら、ネットワークと呼ばれる、網目の如く、整備された通信網となる。
確かに、それによって、無数の情報に、接することが、可能となった。そればかりか、以前の、大衆媒体に、専有されていた時代と違い、一方的に、送り出された情報に、大衆が接するだけでなく、大衆自身が、自らの考えに従って、情報を発信することまで、可能となった。その結果、何が起きたのか。今、周囲を見渡せば、ある程度、理解できるに違いない。情報が、増えるにつれて、騙されることが、多くなったことだ。ただ、それだけではない。発信する側に、回ったということは、つまりは、騙すことも、増えたとなる。騙し、騙され、という連鎖に、善良な人々は、振り回され続けている、と見るべきか、あるいは、善良などという、人種は、もう消え去って、如何に、他人を騙すのか、に時間を割き、喜びを覚える、という人種ばかりに、なったのかも知れぬ。とは言え、詐欺を生業にする、一部の人間を除けば、精々、愉快犯としての所業で、大した被害には、なっていない、と思うのではないか。だが、現実には、騙し、騙されることが、日常となり、それが茶飯事となったことから、情報の授受に、注意を払う必要が、出てきている。それにより、折角整備された、情報社会も、別の歪みを生じ、却って、邪魔なものと化している。こうなると、被害を、どう防ぐのかが、肝心となる。今、盛んに進められるのは、悪意の情報に、接しないことだろう。詐欺電話に、出ないでおく。社会媒体に、触れずにおく。これしか、方法が無い、とまで言われるが、このままだと、次は、誰とも、話さないでおく、となりかねない。流石に、そこまでのことは、無いと思うが、今のような、受け身の姿勢で、被害を避ける為には、それしか、手立てが無い、ように見える。だが、それでは、社会を作ることは、できなくなる。では、何をすればいいのか。結局は、自分で、答えを導くしか、ないのだろうと思う。決めるのは自分、とすれば簡単なのかも。
今や、同世代の半数を超える、人々が進学する、大学という存在は、社会に出る前の、最後の教育の場として、重視されている。だからこそ、教育の効果の有無が、社会的関心を、呼んでいる訳だが、そこには、二つの問題が、あるように思える。送り手と受け手の、両方において。
受け手の問題は、言うまでもなく、やる気の有る無しだ。単なる、資格獲得の目的で、通い始めた学生の中には、高校までと違い、自由と責任が、大きくなった、学習の場で、自ら、どう動くのかが、大切になると言われる。が、本人達は、同じ調子で、配慮が行き届く中、好き勝手に振る舞い、希望通りに、事が運ぶ、と思い込んでいる。一部は、当初の戸惑いから、考えを改め、新たな取り組みを、試し始めることで、適応できるが、多くは、同じ調子で、驕った態度を続け、理解が進まぬままに、時が過ぎていき、気がついた時には、手遅れとなる。それでも、多くの大学は、監督官庁からの、圧力と言われるように、脱落者を出さぬよう、手立てを講じた結果、不完全な人材が、世に出されることとなる。社会にとり、看過できぬ状況、とも思えるが、当事者から、確かな説明が、届く可能性は無い。一方、送り手の問題は、教育者としての、資質の欠如が、取り上げられる。教え育むことを、第一と考えず、無駄な時間と、講義を見做し、何の工夫も為さない。その結果、受け手の問題ではなく、送り手の問題として、人材育成が、滞ることとなり、大学の存在意義、そのものが、危うくなる。今朝の新聞では、何方の問題、とも触れなかったが、根幹は、指導者不足にある、と結論づけていたので、結局は、送り手の問題、となっていた。今すぐに、必要となる知識の一つ、として、最近、導入が急がれたのが、データサイエンスであり、各大学が挙って、新たな科目の設置を行い、実施されてきた。その結果が、今回の報道で、論じられていたが、円グラフからは、身に付いたか否かが、共に半数となり、監督官庁の見立てでは、不十分となったようだ。確かに、道具として、数理や統計が、役に立つものであることは、明白なのだろうが、その前に、それを使う為の考え方が、身に付いていないことを、把握しているのか。本質的には、問題の根幹は、そこにあるように思う。だからこそ、社会媒体での嘘や出任せが、横行するのだ。吟味力無しに、道具だけ与えても、無駄に思える。
労働力不足が、喫緊の課題である、と政治家達が、大真面目に主張している。特に、単純労働において、その傾向が強い、と言われる。が、その一方で、外国人の流入が止まらず、他の先進国同様に、治安の問題が、表面化しており、二つを両立させるには、などと論じられる。
以前に書いたように、この問題提起自体が、疑わしいと思っている。労働力不足は、雇用者側にとり、確かに、深刻な問題だが、一体全体、何がどのように、問題となっているか、については、答えが示されておらず、答えの無いままに、右往左往するのは、いつもながらの、馬鹿げた騒ぎ、にさえ思えてくる。ここで、二つのことが、降ってきた。一つは、ある番組で、嘗ての電力不足に、唯一の手立てとして、講じられた、巨大ダムの建設に、従事した人の、話を聞く企画があった。今も、当然ながら、昔もだが、劣悪な労働環境に、何故、働き続けたのか、という若い女性の質問に、笑うだけで、真面目な答えが、返っていなかったが、おそらくは、収入と働く場の不足、が根本理由だったのだろう。金が欲しいが、楽な仕事は無く、また、学歴不十分では、働ける所も、少なかったに違いない。劣悪と言っても、皆が死ぬ訳でもなく、それだけ、実入りがいいとなれば、という理由で、高熱地獄と呼ばれた、隧道建築現場で、働き続けたのだ。もう一つは、今月読んだ本で、紹介するが、博覧強記として知られる、嘗て変人とか怪人とか呼ばれた人物が、初めて職に就いた時に、配属されたのが、本業とは無関係の、システム開発だったことに、本人も落胆して、すぐに辞めようと思ったが、始めてみたら、意外に長く続き、その間に、身に付いた能力が、今に役立っている、という話だった。こちらも、今時の考えからは、好きなことを、存分にするのが、仕事であり、嫌いなことは、すぐに辞めてしまう、という風潮から、大きく逸脱したものとなる。どちらの場合も、今の労働力不足で、盛んに強調されることに、強く関わるもので、分かりもしないのに、好き嫌いで、判断しないことや、嘗て、3Kと呼ばれた、労働環境でも、それなりに、働けることを、示しているように思う。そんな極端な例を、考える必要はなく、まずは、目の前の仕事に、挑んでみることが、重要との考えだろう。甘やかされた人間に、合わせるような世相では、とても実現しないが、生活が成り立つか否か、と結び付けさせれば、状況は、一変するように思う。極端は、なるべく避けつつ。
物価上昇が続き、生活が厳しくなるばかり、との声が広がる。確かに、日々の買い物でも、何となくではあるが、一つひとつの物品の価格が、上がっているようで、精算時の支払いは、高くなっているように、感じられる。支出が増えれば、生活は苦しくなる、と思えてくる。
確かに、このまま、収入が増えなければ、厳しさが増すばかりとなり、将来への不安は、増すに違いない。ただ、収入も、最低賃金が上がり始めた、との報道があり、何となく、期待が持てそうに、思えてくる。だが、疑い深い人間には、それだけでは、信用ならぬ、という状態のままだろう。自分の収入が、増えたら、安心できるかもだが、それでも、物価高騰が続けば、収入の上昇が、追いつかなくなる、かもしれないからだ。さて、この話には、終わりが見えそうにない。特に、物価が低く抑えられ、収入も、上がる気配が見えない、そんな時代が、長く続いた国では、突然、その均衡が崩れる、としても、すぐには信じられないのだ。また、どちらも、天井知らずに、上昇を続けることなど、理解できぬばかりか、破綻を来すのでは、との懸念さえ、感じられる。だからこそ、生活そのものが、楽になるように、と政治に訴えるのは、当然のことかもだ。ただ、今の流れで、どう動くのかは、まだ、見えてこない。その中で、先日も、不満の現れとして、農業関係者から、訴えが出ていた。確かに、給与としては、上昇し始めたのかも、知れないけれど、自分達の世界では、農産物が、その他の物価同様に、値上がりを続けるかは、天候次第であり、また、不作となれば、折角、価格が上昇したとしても、実入りは増えず、生活は苦しいまま、となるのでは、という主張だった。この辺り、単純な話とは、見えない。何故なら、給与所得者と、農業などの自営業を、同等に扱うことが、できないからだ。前者は、決まった税制の中で、ほぼ決まった税額を、納めることとなるが、後者は、決まった税率が、適用される収入が、単純な実入りではなく、そこから、必要経費を減じたものに、適用されるからだ。確かに、現金収入としては、給与所得者に対し、見劣りするだろうが、生活全体として考えると、どうなのか、という点が見えない。農業法人で、働く人々は、給与所得者に違いないが、自営業は違う。その点を考慮せずに、議論することは、間違いだらけとなる。慎重にすべき、と思う。