パンチの独り言

(2025年10月6日〜10月12日)
(慌てずに、高値更新、変化、何をする、承知の助、足元から、知恵遅れ)



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10月12日(日)−知恵遅れ

 変化について、大きな影響を及ぼしたのは、どの国でも、移民の問題だろう。経済停滞が続き、生活が逼迫する中、労働の機会を奪う、人の流入や、皆が納めた税金を、元手として、施される難民支援など、どれも、悪い面ばかりが、目立つものとなっている。嘗てとは、違う姿だ。
 典型的なのは、海の向こうの国で、今の国の形を、取ることになったことも、その後の繁栄も、ほぼ全てが、外からの人の流入、つまり移民により、支えられてきた。奴隷制度は、全く異なる話で、依然として、暗い影を落とすが、その廃止後も、政情不安定の国や、貧しい国々から、多くの移民が訪れ、自らの努力で、成功物語を、達成してきた。その過程では、時に、経済停滞が起き、戦争が起きることで、外からの人に対し、厳しい政策が取られたことも、あったには違いないが、総じて、正の効果を、及ぼしてきた、と言えるだろう。だが、安定が長く続き、ある意味で、成長が望めなくなると、そこに住む人々の感覚に、大きな変化が起きた。植民地からの流入、に限られていた国だけでなく、海の向こうでさえ、排斥運動が、盛り上がるのは、自らの出自を、棚に上げた上で、現状維持を、貫こうとする動き、なのではないか。だが、これまでの成長が、如何に保たれていたかを、考えてみると、かなり危険な考えとも、思えてくる。こちらでは、かなりの昔に、大陸からの人々が、流入したことが、確認されているが、その後は、他民族の割合は、あまり増えずに、国の繁栄を築いてきた。ただ、少子高齢化は、労働力不足に、繋がるとの見方から、外国人の労働力を、取り込む必要性が、取り沙汰され、一方で、経済停滞が、一時の低迷を、脱したとは言え、依然として、厳しい状況に、あることから、世界と同様に、排斥への方向に、舵が切られ始めた。その中で、ある政府機関が、特定の国と特定の自治体を、結び付ける動きを、発表したことから、極端な意見ばかりが、社会媒体に、流れ始め、その勢いが、急激に増した。ただ、極論の多くは、まさに、極端そのもので、単純な誤解や、恣意的な曲解に、基づくものであり、良識を疑うものとなる。横並びが、普通だった時代なら、こんなものは、すぐに忘れられるが、今は、正反対とも見える時代、このままでは、暴走しかねぬ話だ。ただ、単純な嘘に、騙されたり、あり得ない展開を、信じ込むのは、やはり、判断力、吟味力の不足、としか思えぬ。高等教育に、過半が触れる時代に、なんたること、と思えるのは、やはり、その教育が、目的を果たしていない、証左なのではないか。

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10月11日(土)−足元から

 変化に関して、この所、書いてきたことに、違和感を抱かなかったか。変わる、変える、とは、自分事として、何をどう変えるのか、が肝心となる。だが、今の世界的状況は、自分達ではなく、政治家やその他の人々に、変化を強いており、彼らが変われば、自分に利がある、と信じている。
 これは、責任転嫁の典型であり、自分だけは、問題とならない、と思うからこその、考えなのだと思う。でも、誰もが、これまでの人生を、顧みてみれば、自身の問題の方が、遥かに多かった、と思うのではないか。だとしたら、まずは、自身に、変化を促すのが、先となりそうだ。だが、現実には、正反対のことが、起きている。ここでも、海の向こうの暴君の、言動が、深く関係しており、自分の所業について、何の反省もなく、ただただ、自画自賛、否、自画自慢を続けており、異論が出れば、その発信源を、徹底的に、糾弾することを、続けている。確かに、閉塞感が、広がる時代には、自信を保つことは、更に困難となり、皆で、落ちて行きかねない。だからこそ、過信でしかない、自信の塊こそが、人気を博す訳だ。でも、本当に、閉塞感が、世の中に満ちているのか。その点に、もっと目を向け、自身ができることを、見つけ出すことが、余程重要なのではないか。そんなことを、書き連ねるのは、他人のせい、国のせい、政治のせい、などの言葉を、並べ立てるばかりで、より良くする為に、自分にできることは、何か、という重要な課題に、真摯に取り組もう、としないからだ。一方で、悲劇の主人公に、なることばかりを、優先に考えるから、こんな問題でも、自分ではなく、他の人間に、解決策を考えさせよう、とする傾向がある。これは、今、先進国の多くで、問題化している、移民・難民の事柄にも、通用すると思う。発展途上国で、恵まれない生活を、強いられる人々が、何かしらの理由を、掲げることで、先進国へと向かい、そこで、申請することで、豊かな生活を、手に入れようとする。特に、恵まれぬからこそ、救われるのが、当然という態度で、本来の、移民特有の、努力に基づいた、成り上がり根性が、全く見られないのが、最大の問題となる。弱者保護が、安定した時代に、大きく捻じ曲げられ、こんな姿に、なってしまったことに、違和感を覚える人は、少なくないと思う。だったら、自分も、責任転嫁ではなく、自身を変えること、から始めるべきだろう。

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10月10日(金)−承知の助

 今の時代、変わること、変えることが、当然と思われている。だが、昨日書いたように、どう変えるかについては、殆ど議論されず、一部の人が、勝手気儘に、変えたことに対し、次々と、不平不満を並べる、という遣り取りが、行われる。結果として、何も変わらず、次を、と動く。
 だが、ほんの四半世紀前、世紀の変わり目の頃は、全く違う状況だった。経済停滞が始まり、天井知らずだった成長に、翳りが見えるどころか、坂を下り始める中、先行きへの不安が、広がりつつあったが、中枢に居る人々が、変化を起こそうと、動き回るのに対し、若者達は、現状維持を、強く求めていた。今から見れば、何と先見性の無いこと、と思えるだろうが、当時の若者は、全く別の考えに、取り憑かれていた。ここでも、何度か指摘したが、平和が長く続く時代には、傾向と対策が、最善の策であり、それを繰り返せば、先行きは明るく、自身の成長も、約束される、と思われていた。その中で、変化は、歓迎できぬものであり、何としてでも、阻止すべきもの、と受け取られたのだ。では、その後、どんな変化が起き、何が、今のような流れを、始めさせたのか。変化は、止むを得ないもの、として、新たに始める人に対し、適用されるようになり、一部の職場では、雇用自体が、定年までの終身制ではなく、ある期限をおいた、任期制となることで、望んできた、安定が手に入らず、常に、不安定な状況に置かれ、努力や成長を、続ける必要が出てきたのだ。ここでは、従来の傾向と対策は、通用しないものとされ、自ら変えていくことが、必要とされた。だったら、一層のこと、変化そのものを、想定した方がまし、とばかりに、全てを変えようとする、動きが始まったらしい。ただ、より良くする、という考えなしに、変えることから始めると、結果は、惨憺たるものとなる。それでも、変化そのものは、望み通りに、行えたのだから、満足すべき、とされてしまっては、元も子もない。だから、次の変化を、と繰り返せば、ただの不安定に、押し込まれるだけだ。解っている筈、と書いたのは、このことであり、何をどうするのが、より良くすることなのか、考えるべきだし、百も承知なのだと思う。

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10月9日(木)−何をする

 変えたい、と願ったのは、何故なのか。今になって、思い出せるだろうか。悲惨な状況が続き、閉塞感が増すばかりで、このままでは、落ちていくのみ、となりそうだ、と感じたからこそ、現状を打破するには、変化を求めるしかない、となったという訳だ。本当なのだろうか。
 まず、悲惨な状況、と盛んに訴えるが、どう悲惨なのか、何処に問題があるのか、十分に説明できず、本質を捉えぬままに、周囲が盛んに言うから、などと言い出す始末。自分から、問題に取り組み、その解決を、模索しようとする、そんな心の動きは、一向に感じられない。だから、こんな連中の相手は、御免蒙る、と言ってしまっては、やり過ぎとなる。それよりは、相手の問題を、聞き出した上で、その解決法を伝授する、となれば、良さそうに思える。ただ、この状況では、問題が不明、となるだけで、結局は、それが見えてくるまで、待つしかない、とならざるを得ない。その中で、社会媒体を通じて、不満分子が、盛んに発言するようになり、勢いを得て、変化を望む大合唱となり、今の世界的な、混乱状態へと進んできた。ただ、変えること自体は、然程難しくなくとも、変化の方向は、必ずしも、望んだものとはならず、変わった後で、慌てふためくこととなる。だからこそ、後になって、元のままの方が、遥かに良かった、と言い出したり、一方で、更に別の変化を、望む声を出して、混乱に、拍車をかけることとなる。変わってばかりでは、落ち着き処がなく、右往左往するばかりで、結局、何も手に入れられず、溜息のみが、残ることとなる。落胆のみとなれば、次の展開を、考えることにも、気が向かぬままに、意欲減退となるから、却って、悪化の一途を辿る。何の為の動きだったのか、さっぱり理解できぬが、さりとて、別のやり方を、思い付く筈もなく、結局、そのまま、時が流れる訳だ。今の世界的状況は、それに近いもの、と思えるがどうか。何を、どの方向に、動かすのか、を考えぬままに、ただ、変えようとすれば、精々、この程度に終わる。皆が動いたから、という理由だけで、一緒に動くことは、実は、危ういものだろう。では、何から始めれば。もう、解っているのではないか。

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10月8日(水)−変化

 想定の内か外かに関係なく、愈愈、変化が、と思った人が、多かったに違いない。だからこそ、週明けの相場は、急騰を始め、その勢いは、暫く続きそう、と思われる。ただ、変化と言っても、良いものも、悪いものもあり、期待通りに、進むとは限らず、多難の道かも知れぬ。
 そんな所から、改めて、世界の変化を、見直してみよう。何が始まりか、については、諸説あるだろうが、ここでも、海の向こうの動き、を指標としてみる。今の大統領の、前任期の前、あの大統領が、就任した時には、人種初となり、選挙中の掛け声で、盛んに使った、変化との言葉が、若者を魅了し、勝利を手にした。その後も、人気は続き、思いがけなく、あの賞までも、手にしたのだ。だが、変化は、全国民にとり、思い通りには運ばず、特に、異なる人種の、中高年は、不平不満を鬱積して、後任の選挙では、硝子の天井に、阻まれた候補を、前評判を裏切り、破ることで、前回の勝利を、手にした訳だ。ただ、極端な政治による、変化の効果は、すぐには現れず、そこに、世界的な、感染禍が襲ったことで、安定を求める票に、破れ去った。そこからの復活で、更に強化した、極端政策は、世界を巻き込み、今の混乱に至っている。ただ、あの賞を渇望する、お山の大将は、自慢の交渉術で、活躍しよう、と目論むのだが、まだ、掌中にできそうにない。あの人種が、支配続けた国に、別人種の大統領が、登場したことは、大きな変化だったが、皆が歓迎する、ものではなかったようだ。で、元に戻そうと、躍起になるものの、簡単には、事が運ばず、苛立ちが募っている。で、世界に目を向けると、やはり、大きな変化が、起き続けており、移民が増え続けたことで、あの島国は、多国間の協力から、離脱することを、選択した。確かに、豊かな生活が、続くのなら、寛容性を、維持できたろうが、窮乏するに従い、敵対視が強まり、他国に先駆けて、離脱の選択を下したが、他の国々も、他人事ではなく、今や、移民排斥へと、舵を切り始め、極右勢力が、台頭することとなった。ただ、俄勢力に、施政能力が、ある訳でなく、ただ、混乱が広がり続けている。今の世界状況は、そんな所に、あるのではないか。若者にとり、変化は、大歓迎なのだろうが、それが、望み通りのものに、なるか否かは、定まらぬまま、不安定を強いられている、という。

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10月7日(火)−高値更新

 驚いた人が、多かったのではないか。それ程の上げが、株式市場に広がり、最高値の更新となった。ただ、見方を変えれば、先週後半は、それまでの、上げ一辺倒が、姿を変えて、調整局面に、入っていたから、上げ幅に比べ、状況としては、単に、好感したというべきか。
 皆が驚いたのは、上げ幅に関してもだが、前評判とは異なる結果に、こんな反応が、起きるとは思わなかったから、ということからかもだ。ただ、元々、市場の反応は、期待へのものであり、実態が伴うかは、今後の成り行き次第、となるだろう。期待としては、名を捩られた、元宰相の派閥、という点からと、この所、世界を席巻する、自国第一主義への、回帰への期待、もあったのかも知れぬ。それにしても、勢いがついた相場は、この先、どう動くのか、見守る必要がある。ただ、投資家の視線では、少し異なる感覚が、漂っているように思える。特に、今回の上げの中心は、新総裁が、これまでに触れてきた、業種に限ったもので、個人的には、長い目でしか、見ていないから、蚊帳の外、とは言えぬまでも、上げ幅は、然程のものでなく、購入時の値に、戻していない銘柄については、まだ、先は長いぞ、という思いが過ぎる。その意味で、傍観を、続ける必要があり、ここ暫くの間の、動きに関しては、要注意なのかも、とさえ思えてくる。まずは、総裁の座を、手に入れたとはいえ、また、政治自体が、混乱の淵にあるからこそ、この先、どう転がるかは、不確定なままだ。その中で、次の段階が、どう展開するかが、まずは、注目の的だろうし、それが、ある意味で、予想通りの展開となったにしても、期待通りとは、なり難いもの、と見ておくべきだろう。その上で、更にその先は、内政のみならず、外交での動き、へと繋がっていくだろう。何れにしても、傍観とは、言い過ぎに思えるが、個人的には、慌てず騒がず、様子見の姿勢を、続けることとなる。老後の資金に、期待する人々には、心穏やかには、居られぬ話だろうか。

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10月6日(月)−慌てずに

 予想通りかは、人それぞれだろうが、自分の家の話は、これで決まったとなる。ただ、それが、今後、どうなるかについては、誰も予想できず、楽しみでさえない。元々、激昂し易い人間で、売られた喧嘩は、買うとの評判で、一部には、懸念が広がっている。さて、どうなるか。
 海の向こうは、まさに、同じ性癖の人間であり、交渉と言いつつ、恫喝やら、脅しやら、何だか、時代遅れの、任侠映画を、眺める気分だ。その意味では、こちらは、壺振りの、女任侠だろうか。流石に、そこまでのことは、無いと信じたいが、予想不能だとか、不確実とか、そんな言葉が、飛び始めたら、末期症状へと向かいそうだ。とは言え、お手並み拝見、という気分が広がるのは、当然のことだろう。但し、政治の話になった途端に、雄弁になる、媒体の人々は、喧しくなるに、違いない。有る事無い事、などとは、言っておられず、おそらく、思いつくままに、無責任な発言や、書き込みが、繰り返されるに違いない。それも、嘘や出鱈目どころか、捏造が横行しそうで、既に、懸念が広がりつつある。だからと言って、情報を遮断する訳にも、いかない事情も、多くの人々が、抱えているから、取捨選択が、唯一の手立て、となりそうだ。さて、そう考えた時、何をどう選べばいいのか。論理破綻が、起きている主張には、簡単に、対処できるのだが、今や、全てを、芝居の台本の如く、仕上げた上で、並べ立てることが、可能となるだけでなく、それに対する、反応までも、整えることも、可能となっている。社会媒体については、まさに、その状況となり、世論操作は、容易いこととなり、詐欺師同様に、騙しの手口も、多様化しているから、対処は、容易ではない。だったら、無視しか無い、と思うのも、無理もないことだが、情報収集を、放棄する訳にもいかず、さて、どうしたものか、と悩む人が多いだろう。信頼できる人間を、頼るしかない、との意見も多いが、そんなに単純な話、でもないようだ。では、どうしたものか。まあ、ゆっくりと構えて、落ち着いて、慌てずに、判断することが、第一なのだろう。

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