統計に限らず、真偽を見抜く力が、必要とされる時代だ。嘘を吐いて、金儲けに走るのは、古今東西、何時でも何処でも、あった話であり、それに乗せられ、なけなしの金を、巻き上げられては、溜まったものではない。人生を、存分に楽しむ為にも、騙されぬよう、心掛けねば。
でも、昔と違い、情報社会と呼ばれる中、日々接する媒体には、頼りにせねばならぬ、重要な情報だけでなく、詐欺紛いの、怪しげな情報や、それをきっかけに、罠に誘い込むものも、転がっている。吟味力、というものは、何を指すのか、定かではないが、兎に角、そこにあるものが、真実なのか、嘘や捏造なのか、時によるけれど、確かめる必要がある。その意味で、重要となるのは、確認する手立て、検索などで、情報の確かさを、別の情報源を探して、点検する必要がある。だが、それとて、偽物ばかりが、市中に満ち溢れれば、何が確かかさえ、危ういものとなる。とは言え、自分の金や命までも、危険に晒さぬよう、備えが必要なのは、確かなことだ。一方で、嘘や出鱈目を、撒き散らす人の数は、便利な道具の普及と共に、急速に増している。更に、その状況を、悪化させているのは、もう一つの道具、生成人工知能の登場で、偽物の文面を、作り上げるだけでなく、画像や動画でさえ、誰もが、簡単に作り出せる、状況となり、結果として、そんな情報が、実しやかに、流されることとなった。こうなってしまうと、手の施しようがなく、偽物を見破る為の、人工知能の普及こそが、唯一の救いなどと、訳の分からぬ話が、流布されてしまう。先日も、この所、持ちきりの話題である、熊の目撃に関する、情報が届いたが、そこにある動画は、まさに、人工知能が捏造したもので、詳しく見ると、光景自体が、存在しない学校、だったようだ。その上、紹介する文面も、話題となる、地方議員を引き合いに出し、耳目を集めたから、という理由で、捏造されたものだった。以前なら、愉快犯に過ぎず、無視を決め込むのが、最善策と言われたが、最近は、こういうことで、耳目を集めることが、収益に繋がるから、見ること自体が、問題かもだ。面倒な時代であり、触らぬ神に、となるかもだが、情報社会では、無理難題となるだろう。
統計が大切、などと言われるが、大多数の人々にとり、難しい手順で、導き出されたものは、理解できないだけでなく、信用ならぬもの、とさえ映りかねない。だから、そんな怪しげなものより、直感を信じたい、となるのでは。でも、それでは、大切なものを、失うかも知れぬ。
例えとして、適切かは、定かではないが、数年前に、世界中を、恐怖に突き落とした、感染爆発は、その一つの典型、とも思える例を、示していた。流行や伝染の問題も、確かに、統計に関係するが、やはり、予防の手立てとして、先進各国で、講じられた予防接種が、その典型に思える。普段なら、医学に関わる統計は、すぐには理解できぬ、と断じられ、信頼ならぬもの、と決めつけられた。だが、明日の命に、関わるものとして、各国政府や医療機関が、挙って、推奨したことで、拒絶すること自体、困難なものとされた。それまでの、ワクチンの効果は、感染予防にある、と言われたのに、徐々に明らかとなる、効用についても、理解に苦しむ点があり、一部には、疑いが広がり、極端な場合には、陰謀論へと転化した。冷静に見れば、そんな悪事を、疑う必要が無いことは、明らかなのだが、社会媒体に毒された人々は、狂気の妄論でさえ、鵜呑みにしてしまった。今でも、その点への言及から、統計の重要性へと、論を進めることが、度々見られるが、その論法には、別の危うさが、感じられる。つまり、解析結果は、当初の感染予防ではなく、感染後の重症化を、防ぐことに、接種の目的が、変更されており、その意味では、何方の主張も、間違っている、と見るべきだろう。その上で、重症化の機構を、解き明かし、それに対する効果を、解明してこそ、統計の意味が、出てくると思える。この点について、何度も書いたが、総括の気配もなく、理解不足の専門家の、誤解を招く表現が、野放しになるのは、今の時代の、危うさの現れ、と思える。科学的も、論理的も、批判的も、どれにしても、的を外せば、無知と同類に、なってしまうのだ。
議論下手、と言われてきたが、いつの間にか、得意とする人が、増えたと言われる。ディベートと呼ばれる、競い合う議論では、少し事情が違うが、勝ち負けを、決するやり方が、行われる。それも、自分の主張ではなく、どちらの立場かを決め、賛否を決めて、言い負かそうとする。
元々、自分で考え、出した結論に、沿うような形で、主張を行い、それに対し、反論をするのが、議論だった筈だが、勝負事として、立ち位置を決め、その立場から、意見を述べ合う、というものだが、一見して、違和感が漂い、無意味にさえ、思えてくる。本来、議論は、より良い結論を、導く為のものであり、勝ち負けを、競うものでは、決して無い。にも拘わらず、何事も、勝ち負けに拘り、その上で、相手の主張の、欠点を突くような、論理を展開する。確かに、その遣り取りが、基礎となり、話し合いから、より良い結果を、求めることに、結び付く、と考えられなくも無い。だが、実際には、そういう展開より、単なる勝ち負けを、決めることに、終始するから、そこから、出てくるものは、勝負以外に、何も無い、となる。本来、話し合いを行い、そこから、自分達の意見として、何かしらの結論を、導くことが、議論の目的となるが、そういう基礎を、学ぶことなく、単純に、勝った負けた、と繰り返すだけでは、目的は何か、訝しむしかない。議論下手の状況から、言い負かしへの、転換そのものを、悪いことでは無い、と思ったこと自体、議論の何たるかを、理解せぬままの、浅い考えと思えるが、さて、ここから、どう進むべきか、理解できているだろうか。競い合いばかりに、目が向くことは、決して良いことではなく、無駄に思えるのだが、関係者は、大真面目で、競い合いの意義を、訴えてくる。やはり、十分な話し合いの、機会を設けることこそ、重要と見るべきで、その中で、技術を磨いてこそ、次に来る競い合いも、有意義なものとなる。簡単なことだが、見方を忘れては、どうにもならぬものだ。
何事も、見方次第、と言われたら、どう答えるか。そんなことは、決して無い、事実は、事実なのだ、とでも、答えるだろうか。それとも、その通り、何方に立つかで、同じことでも、正反対に見えるから、それぞれの主張も、正反対となる、とでも、答えるだろうか。
情報社会において、この立場の違いは、大きな違いを、産み出すように思える。にも拘わらず、何でもかんでも、言われた通りに、書かれた通りに、鵜呑みにする、としたら、何が起きるのか。そんなことが、今や、日常茶飯事となり、論争の元となっている。その上、その手の論争には、終わりが見えない。ああ言えばこう言う、とばかりに、延々と、戦いを続けており、勝敗を決しようと、互いに、躍起になっている。まあ、言い負かそうと、あれやこれやを、持ち出して、何とかするのは、物事を、考える上では、悪いことではない。だが、強いこだわりから、一つの見方に、固執するばかりで、議論が始まらないのは、どうかと思う。こんなのは、議論でも何でも無く、ただ、単なる喧嘩でしかない。そんな所から、議論を喧嘩と誤解する人が、絶えないのは、残念なことだ。折角の、社会媒体も、そんな場と化してしまい、無意味で、無駄な場所、となりつつある。時々、冷静な人が居て、議論の場を、守ろうとしてくれるが、そんな人は、ほんの一握りに過ぎず、仕組み自体は、悪い方向にしか、進んでいないように見える。人の性、と言ってしまえば、その通りかもだが、仮令、そうだとしても、議論そのものの目的を、蔑ろにしては、ならぬと思う。元々、こんな場が、できる前から、ずっと長いこと、そういう前提を、置くことで、議論や論争が、行われてきた。ところが、今の便利な仕組みが、導入されてから、悪い面ばかりが、目立つようになった。そこには、やはり、人の性、多くの人々が、潜在的に持つ、悪い面が、表面化している、としか思えぬ。解決の糸口は、まだ見つからぬが、このままだと、早晩、便利な道具を、捨てることに、なるだろう。それでよければ、それでよしなのだ。
言葉は、意思疎通の道具である。だから、多言語を操ることが、重要と見る向きもある。本当だろうか。この件には、様々な意見があり、一概には、言えない部分がある。でも、心を伝えるのに、相手の言語が、必要か否かについては、色々な経験から、見方が変わるようだ。
要人が、どの言語を、用いるべきか、これもまた、意見の分かれる所、だろうか。確かに、心からの言葉なら、拙い表現でも、伝わる筈、とも言えるが、それで、誤解を招いては、元も子もない。原稿読みとて、発音の違いで、大きな誤解を生む、という話もあるからだ。では、常に、母語を使って、相手の言語への変換は、通訳任せにすれば、いいのだろうか。でも、誤解という意味では、常に問題無し、とはいかぬ話らしい。だからこそ、翻訳や通訳にあたる人間には、大きな責任が、伴うと言われる。何れにしても、何をどう伝えるかが、意思疎通において、最重要な課題となる。だから、努力してでも、国際語を身に付け、どんな場面でも、問題無くこなせるよう、努めるべき、という人が居る。事は、それほど単純ではなく、立場によっても、変わってくるものだ。例とはならぬが、隣の大国の、外務大臣にあたる人物は、以前、こちらに、大使として赴任し、当時の主席が、訪問した時に、常に側に居て、通訳をする程に、此方の言語を、巧みに操っていた。しかし、帰国後に、更なる高みに、上った時、此方からの訪問者を、迎える時も、会談の際にも、一切、使うのを見せたことがない。この際の危険とは、何のことなのか、取り上げられたことがなく、確かではないが、二つの可能性がある。一つは、伝達の間違いを、犯さぬよう、という点であり、もう一つは、自国民に対し、誤解されぬよう、という点だろう。母語を使うことと、相手の言語を使うことで、様々な問題が、生じる。意思疎通のみを、重視する訳にも、いかぬものだ。真意を伝えるだけなら、安全な方法を、と思う。
国際化が、盛んに叫ばれ、その為に、まずは意思疎通が、重要との話となり、結果、外国語の習得が、目標となった。と言っても、所詮この程度か、と思えたのは、専ら、海の向こうで使われる、言語の習得だけで、多様性も何も、あったものではない。でも、無いよりましか。
と言ってしまうと、流石に、言い過ぎとなるが、それにしても、外国語を、流暢に話せれば、それでいい、との判断は、如何なものか。先日の、ある党の総裁選でも、どんな経緯かは、全く知る由もないが、ある司会者が、候補者達に、その外国語での発言を、求めたとある。その記事を、改めて見ると、政治家の態度が、見えてくるようだ。留学経験のある、候補者達の一部は、流暢に、主張を並べたようだが、していた筈の人物でも、母語を手放さず、批判する側からは、やはり、経歴は詐称か、との声が上がる一方で、応援する側は、無茶振りを、軽く躱した、との擁護を届けた。あの時の、候補者の大半が、今の内閣に、加わったことを、考えると、さて、どうしたものか、と思ったりもする。で、最終的に選ばれ、擦った揉んだの挙げ句に、宰相へと駆け上がった人物は、初外遊の席で、その外国語で、演説を始めた。上の席では、たったの一言で、終わらせたにも拘わらず、大事な席では、違った対応となった訳だ。大きな違いは、側近が用意した、原稿を読んだだけで、咄嗟の主張とは、全く異なる状況だったからだが、もっと言えば、同時通訳が、用意されていたから、母語での演説で、何の支障も無かっただろう。母語での会話も、何処か、くぐもった印象の、発音となるが、外国語も、よく似た調子で、聴き取り難いものだった。あんな印象を、与えずとも、と思うのは、穿った見方か。外交において、重要人物は、常に、通訳を介した、会話を行うべし、とはよく言われる。確かに、自分の声で、伝えられれば、何よりだが、間違いがあっては、いけないからだ。それは、仮令、原稿読みでも、同様のことだ。一方で、随分前の宰相で、海の向こうの大統領に、trust meと発して、顰蹙を買う、結果となったが、彼も留学経験者だ。言葉の問題より、中身の問題、資質の問題、と言われる所以である。
期待が膨らんだから、との理由が、取沙汰されるが、本当の所は、どうなのか。資産運用に、精を出す人々にとり、最近の株高と金価格上昇は、歓迎すべきこと、と映るのだが、その本質は、何処にあるのか。手持ちの資金を、増やすことだけなら、気にする必要はないが。
今朝の経済番組は、その意味で、興味深い見解を、示していた。このリンクを、今開けば、その部分が表示されるが、少し後になると、日付が変わり、表示も変わるだろうから、念の為、タイトルを注意して欲しい。そこで、出演者が、指摘したのは、この所の、株高と金価格上昇は、資産を増やすことではなく、単純に、貨幣価値が、下がったことを、示している、という点だ。確かに、そう考えれば、近年の物価上昇も、物を買う為の、貨幣の価値が下がったから、と見ることができる。となると、何に注意すべきか。単純には、資産の内で、ものの価値は、確かに上がっているが、預貯金に関しては、貨幣そのものであり、その価値が、相対的に下がっている、ということになる。まだまだ、微々たるものとはいえ、利率が付いてくる、預貯金は、ましな方で、箪笥貯金となれば、それさえ付かず、ただの目減りの連続、となる訳だ。ただ、この考え方には、注意を要する、ように思える。確かに、株価や金価格が、上昇する時には、その通りと言えるが、逆のことが起きれば、言えなくなる。特に、物価上昇が続きつつ、相場が下落する場面が、訪れたら、どう考えるべきか。事は、複雑になる。経済の動向は、確かに、見方次第で、何とでも解釈ができる。分析の殆どは、そんなものであり、後出しジャンケン、などと揶揄されるのも、そんな事情からだろう。とは言え、今の状況を、どう考えるべきかは、今回の指摘のように、枠をはめてみれば、興味深いものとなる。ただ、だからといって、資産運用が、巧く運ぶとは限らず、その上で、何をどう動かすか、あるいは、この上昇局面では、あえて動かぬ戦略も、選択の一つとなり得る。手持ちの資金も、保有する資産も、今後、どんな動きとなるかは、不確定には違いないからだ。此方は、暫くは、様子見と思っているが。