パンチの独り言

(2025年11月3日〜11月9日)
(たわ言、倫理観、五十歩百歩、お気楽に、広告責任、変わり目、社会奉仕)



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11月9日(日)−社会奉仕

 誰にも、嫌いな言葉、があると思う。以前、取り上げたもので言えば、「癒し」は、何とも偽善の匂いがして、嫌いな言葉の一つである。そんなものなら、数え切れぬ程ある、と言われそうだが、ここでは、一つ、社会奉仕、を挙げてみたい。所謂、ボランティア、のことだ。
 無償で、社会に対して、奉仕することを、全体として、ボランティア、というそうだが、その根底にあるものは、何だろうか。人それぞれ、違った考えを持ち、例えば、若者の中には、学校で、講義や授業の一環として、そういう行為を行い、認定を受ける必要がある、という、奉仕とは名ばかりの、利益追求そのもの、の場合もあるし、名誉の為と称して、その裏で、何かしらの利益を、受けようとする、企業活動の一環、という場合もある。そんなものは、論外であり、社会奉仕が、名ばかりとなり、却って、反感を買うだけ、となる場合も多い。そういう行為は、嫌われるのが、当たり前のことであり、こんな所で、取り上げるまでもなく、人間として、如何なものか、とされるだろう。だが、中には、純粋に、世の為人の為として、社会奉仕を、行っている人も居て、災害の後には、そんな人達が、災害地に溢れることとなる。被害を受けた人にとり、彼らの存在は、非常に大きく、一人では、出来ないことも、多くの手によって、あっという間に、片付けられる場合も、あると聞く。そんな事例には、成る程、と思うこともあるが、世の中、そんなものだけでは無い。多くの、傍迷惑なもの、押し付けだけのもの、唯我独尊を、地でいくものなど、有り体に書けば、迷惑千万なものも、数多くある。その一方で、大真面目で、まさに、世間の利益に、繋がるものもあるから、全否定をする訳にも、いくまい。でも、と改めて考えると、社会奉仕に、甘えるばかりで、自助努力を、怠るのは、やはり、いいことではないし、そんなものが、制度化されては、何のことやら、と思えてくる。で、結局、様々な要因から、嫌いと言ってしまうのだ。社会の一員として、奉仕か否かには無関係に、やるべきことを、すればいいだけ、と思えるからだ。

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11月8日(土)−変わり目

 この国の特徴は、と尋ねられれば、多くが、四季がある、と答えるだろう。中緯度地域にあり、地軸の傾きの影響を、直接的に受ける、そんな場所にあり、更には、海流や帯状風の影響で、気温や気象が、変化することによる。ここで育った人間には、何も特別なことは無いが。
 だが、地球規模での変化を、何としてでも、成立させたい人々にとり、そんな温暖な気候は、崩されるべきもの、と考えるのだろうか。極端なものへの変化を、断定したいようだ。そこで、猛暑は、当然のこととして、暖冬もあり、その上、豪雨や豪雪も、その大切な要素となる。結果、夏は暑く、冬は寒くなる。暖冬と書いたのに、寒いとは、とか、温暖化なのに、何故、気温が上がらずに、下がるのか、とか、言いたい人が、居るかも知れぬが、極端という意味で、寒暖が、変化する、という考え方なのだろう。で、そうなってくると、間に挟まる、春と秋が、過ごし易いのは、おかしいとなるらしく、それぞれの期間が、極端に短くなり、冬があっという間に夏に移り、猛暑が、いつの間にか、極寒へと移る。今年も、そんな声が、喧しくなっており、一部地域で、紅葉が始まったと思ったら、すぐに、初雪の季節が来た、とか、紅葉前線の南下が、極端に早まった、とか、そんな声が聞こえる。でも、季節の変わり目に、安定しないのは、四季の移り変わりでは、当たり前のことであり、それを、今更驚くのは、如何なものか。そんな変化を、楽しむことができず、猛暑と極寒に、不平不満を並べる人々は、本来なら、丁度良いくらいの、気温の変化でさえ、上下が激しく、対応し難い、と文句を並べる。薄い上着を、着脱するだけで、対応可能なことさえ、忘れたかのような、言動なのだが、一体全体、どんな気候を、望んでいるのだろう。自然の変化は、人間の思い通りには、ならないもので、それこそが、謙虚な考えの元、と言われたものだが、傲慢な考えが、こんなことを、言わせているのか。聞こえぬふりで、良いような気もする。

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11月7日(金)−広告責任

 こういう場だから、という訳でもないが、老後の資金が、気になる人が、多いだろう。特に、年金制度を、管理する役所が、平均的な話として、それだけでは足らず、必要な自己資金額を、提示するとなれば、尚更である。となれば、どう資産運用するかが、肝心となる訳だ。
 先日も、ある人の意見として、物価上昇が続く中では、物の価値は、それに従って、上がっていくように見えるが、それは、貨幣価値が、徐々に、下降するから、という話を紹介した。だから、預貯金は、相当な利率が、ない限り、物価上昇の中では、目減りする、と考えた方がいい、となる。だから、資産運用においては、何かしらの投資をして、そこから、更なる利益を、得る必要があるとなる。株式相場は、その一つであり、ここに訪れる人々は、そんなことに、関わっている、と考えられるが、では、それ以外に、どんなものがあるのか。この所の、金相場は、高値更新が続き、魅力的とも映るが、ここまで上げてしまうと、やはり、別のものに、と思う人が多いだろう。その一つに関して、つい最近、報道されていた。投資話として、魅力的と映ったのは、想定の利回りが、7%という高率であり、元本保証があるように、さえ見える訳で、確実と思えたのだろう。しかし、この所、分配金が支払われず、厳しい状況にある、と見たからこそ、提訴となったと言われる。この企業は、朝の経済番組でも、広告を出していたが、昨年位から、とんと見なくなった。その一方で、顔本には、広告が掲載され、それに対して、厳しい指摘が、書き込まれていた。曰く、この商品は、怪しくて、破綻しかかっている、と。それが、今回の訴訟となり、表面化した、という訳だ。確かに、ついこの間までは、デフレ状況が続き、この利率なら、と歓迎されていたし、不動産も、一部では、活況を呈していたから、安心感と期待感が、広がっていたのだが、やはり、と思った人も多い。どう転ぶかは、今後注視するとして、このような広告が、社会媒体でも、大衆媒体でも、多く見られており、一体全体、どのような検証が、行われているのか、という点に、興味が集まる。その意味で、大衆媒体から、姿を消したのは、何かあるかも、と思わせるが、その後に、社会媒体に、現れ始めたのは、問題あり、と見ることもできる。広告掲載に対する、責任に関しては、両媒体で、かなり違うように見えるが、さて、どんなものだろうか。

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11月6日(木)−お気楽に

 昨日の話は、実は、どうでもいいことなのかも、と思うことがある。昔は、議論の中で、都合のいい話を、引き合いに出すふりをして、自分の主張を、押し通した人が、一杯居たけれども、それで、実害があったかは、不確かなままだ。一方で、一つが通用したとして、全部が、とはならぬ。
 だから、こんな遣り取りを、いくら眺めていても、自分に得になる話は、早々あるものではない。一方、誰かの間違いを、指摘することが、正義かと言えば、それは、必ずしもそうではなく、そんな指摘をする人間も、自分に有利になる話へと、持っていきたいだけのことだ。じゃあ、情報社会を、どう生きればいいのか、などと、馬鹿げた質問をしたら、どんな答えが、返ってくるだろう。多分、好きにしたら、というのが、精々ではないか。囀りのような、馬鹿げた社会媒体の中で、勝ち負けを決めようと、躍起になるのは、愚の骨頂だろうし、それを、世の為人の為に、などと宣うものなら、偽善者、と罵られるだけだ。結局は、自分のところに、届いた情報の、真偽を確かめるのは、自分にとって、不利にならぬよう、という意図に違いなく、誰か他人の為に、などということは、あり得ないだろう。で、最近の情報は、いかなる状況か。改めて、書くまでもなく、真偽入り混じった状態で、鵜呑みにするのは、勿論のこと、誰かが、信用できる、などと言ったものに、飛び付くのは、馬鹿げたことだ。しかし、確認の為に、時間をかけるのに、一体全体、価値はあるのか。一層の事、暫く、放置しておき、その後の成り行きを、見守った方が、遥かに、効率的なのでは、と思える。何しろ、大多数のものは、誰にも何処にも、引っかかることなく、忘れ去られるだけなのだ。確かに、日々の取引で、日銭を稼ぐのなら、即座の反応の方が、安全なように、見えるかもだが、現実には、然程の違いも無く、放置しておいて、様子を見てからでも、大差無いように思う。鬼の首を、取ったが如くの、日々の遣り取りやその勝敗には、その場限りの、意味しかないのだろうから。もっと、気楽に過ごしては、どうかとさえ思う。

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11月5日(水)−五十歩百歩

 騙されないよう、という声は、高まるばかりだろうか。だから、日々流れてくる情報は、常に確認する必要があり、それを怠っていては、身を守ることは、できそうにない、となる訳だ。でも、だからと言って、何でもかんでも、疑ってばかりでは、気が休まることが無い。
 で、先日も、いつものように、囀りを覗いていたら、例の如く、極端な書き込みが、目に入った。曰く、新政権が、党の提案を棄てて、今の国立大学が、陥っている苦境を、招いたと言われる、元凶の人物に、勲章を与えた、と批判していた。まあ、坊主憎けりゃ、の典型のようで、新宰相が、気に入らないから、不平不満を、並べただけ、との見方もあるが、案の定、支援者から、猛烈な反論が、投げられていた。こちらは、曰く、根拠とした話の、情報源は、というものだ。何方も何方、の痴話喧嘩のような、代物だが、これが、囀りの特徴だろう。ただ、事実か否か、については、少し調べれば、すぐに出てくる。根拠は、党の提案の中に、国立大学の運営費を、10%増額する、とあったのに、それを破棄した、というもので、その両方の情報源を、求めるものだった。発言者も、少しは調べたら、と思えるが、検索するだけで、その提案の文書が、出てくる。問題は、破棄の方だが、こちらは、検索では、見当たらない。まあ、半分半分で、何方も何方は、変わらずとなるか。ただ、この遣り取りの中で、坊主憎けりゃ、の図式が、何処までも、と思えるのは、前の二つの政権では、無能な宰相ばかりだから、党の提案に、増額などというものが、出てくる筈が無い、という意見が、出てくることで、要するに、囀りに、顔を出すような人間は、狭量で視野が狭い、とみるべきとなる。ただ、この流れは、社会媒体が、登場してから、のものではなく、嘗ての論壇にも、よく見られたと思う。根拠薄弱は、当時もで、議論での勝敗だけに、拘る所は、相変わらずだろう。

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11月4日(火)−倫理観

 野球繋がりで、以前から、気になっていたことを一つ。確か、随分前に、取り上げた気がするが、定かではなく、改めて、確かめてはいない。が、その時と同じで、何故、こんなものを、と思った広告が、平日の朝、経済番組の中で、流されている。下らないこと、なのだが。
 以前、流れていたものは、野球の場面で、窮地に追い込まれた時、そこに救いの手が、差し伸べられる、という話の筋だった、と記憶している。だが、はじめのものは、初老の人物から、若手の人物に、投手交代をする、という筋で、おそらく、経営者の交代を、表したものだったが、その次は、会社の経営において、新たな人材を、投入するという話を、表したものとして、守備にあたる人数を、増やす光景が、映し出されていた。前者は、規則として、何の問題もないが、後者は、規則違反でしかなく、そんなことは、野球の世界でも、会社経営でも、許されるものではない。特に、社会的な規則に、反しないことが、強く求められる時代、錯誤としか思えぬ、と指摘したように思う。それに対して、最近のものは、投球の判定で、ストライク、となった光景が、映し出されるが、何度も繰り返され、いつまで経っても、打者が、アウトとならない。バーで、経営交代に関して、話し合っている、二人の人物が、それに気付いて、テレビを見ようと、振り返ったところで、社名を出して、仲介業の内容を、説明し始めるのだが、これもまた、規則違反であり、またもや、と思ってしまった。強い印象を、与えることが、広告の目的の一つには、違いないことだが、同じ企業が、何度も、規則違反を、引き合いに出しつつ、耳目を集めようとする。企業倫理が、重視される時代に、何ということか、と思ってしまう。企業そのものの、体質によるのか、あるいは、広告会社の、戦略によるのか。知る由もないが、非常識としか、思えぬものだ。これ程長い期間、同じ趣旨のものを、流し続けるのは、彼らの問題、だけでなく、株主も関わる、問題のように、思えるのだが、どうだろうか。

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11月3日(月)−たわ言

 海の向こうの、野球大会が、熱戦の末に、決着した。発祥の地だけに、世界一を自称する程に、熱狂するが、今回の大会は、こちらから、加わった選手達が、活躍することで、こちら側でも、熱狂した人々が、多かったのでは。その中で、ふと気付いたことを、囀りに書いた。
 それは、第5戦までの勝敗が、海のこちら側の、中継方式と、連動していたことだ。地上波か、衛星放送かで、何方が勝つかが、決まっており、そのままだと、第6戦で、決着すると、書いてみた。結果は、現時点で、300人程が、訪問しているが、誰も、「いいね」もしないし、返信もしてこない。まあ、野球の勝敗と、中継との繋がりは、ある筈も無い、と思うのが当然であり、この反応も、また、当たり前のものだろう。で、勝敗の行方は、と言えば、それまでの連動は、破れて、勝敗同一となり、最終戦へと、持ち込まれた戦いは、これもまた、熱戦の末、こちらからの戦力が、活躍することで、決着した。最終結果としては、一つの戦いを除き、中継方式と勝敗の結果が、一致した。確率で、論じるのであれば、7つのうち6つとなり、かなりの高率と、見ることができる。とは言え、統計の世界で使われる、相関や因果といった、関係があるとは、誰も信じないだろう。こちらが、試しに書いたのは、そこまでの意図は、無かったのだが、結果的には、興味深い展開、だったと思う。その一方で、こんな戯言に、誰も見向きもしなかったが、囀りをはじめとした、社会媒体の世界では、これまで何度も、同じような戯言が、実しやかに掲げられ、それに、賛否両論が、押し寄せていた。そこには、科学的も、論理的も、欠片も無い、妄言に過ぎない、発言が並んだが、多くの人々が、大真面目に、激論を戦わせ、熱気を帯びていた。所詮、何の根拠も無しに、好き勝手な発言を、繰り返したとしても、物事によっては、関係者だけでも、沸騰するし、時には、無関係な人々まで、首を突っ込んだのだ。罰が当たるとか、神の仕業とか、宗教染みた発言も、散見されたが、それらに、乗せられる人が、兎に角、山のように居る。これでは、平穏な社会は、成り立たない。冷静に、見極めることが、やはり、大切なのだと思う。

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