どんな遣り取りが、あろうとも、信じ切った人には、大真面目な議論、と読めるのだろう。今の、社会媒体の状況には、そんなことさえ、感じてしまう。でも、ある意味、冷静な見方からは、何ともはや、的外れで、非常識で、身勝手なもの、としか映らないのだが、どうだろう。
以前から、書き続けるように、今の社会は、弱者が、最強とも見える、状況にあるようだ。だから、媒体の中でも、如何にして、弱者であることを、主張した上で、保護を求める姿を、如何に晒すかが、肝心要の、戦略となる。そんなことを、踏まえた上で、意見の遣り取りを、読んでいると、呆れるばかりとなるが、表面的には、大真面目な様子で、弱者救済を、訴えているので、うっかり発言を、してしまうと、まさに、炎上となる。素人が、そんなことに、手を出せば、集団私刑のように、実名を晒されたり、ないことばかりを、さも真実の如く、殴り書きされる。精神を、病むことさえ、覚悟の上でないと、うっかり発言は、できないのだ。でも、明らかな過ちは、指摘すべき、との意見も、当然のことだ。にも拘らず、今では、大人の対応として、そういう下らないものには、一切手を出さず、傍観に徹する、というのが、最善の策とさえ、言われている。もし、そんな的外れで、非常識で、身勝手な社会なら、そんな媒体は、消し去るべきであり、皆が、無視を決め込めば、可能なのでは、との意見も、散見されるが、現状からは、信じられる筈もない。その上で、現実に、被害が広がっても、そういう暴言の数々は、消されることもなく、場合によっては、何度も、再掲されることで、永遠に続く連鎖が、築かれてしまう。この状況の、根源となるのは、何だろうか。ふと考えると、弱者保護は、確かに、その一つになるが、その前か後に、被害妄想が、あるのではないか、とさえ思える。苛めのことで、考えると、分かり易いが、これとて、不用意に発言すれば、炎上騒ぎへと、結び付くだろう。苛め同様、暴力に関しても、加害を、無くすことは、可能だったとしても、被害は、無くならない、と言われるのは、そんな話からだ。加害と被害を、区別して考えないと、物事は、綺麗には片付かない。では、どうすれば、という疑問への答えは、今の所、見つからないままだ。
愛玩動物が、増え続けており、多種多様なものも、あるらしい。だが、大半は、犬か猫であり、飼い主は、犬派と猫派に、分かれると言われる。何方なのかは、まあ、どうでもいいことだが、例えば、猫について、巷で話題になっていることに、少し触れてみたい。
猫を飼う人々は、その気紛れな態度が、魅力的と、盛んに言うけれど、犬好きの人には、理解されないようだ。絶対服従を、基本として、褒めることで、擦り寄る態度こそが、愛玩動物の典型、との思いからすれば、気紛れとは、馬鹿げたもの、と映るからだろう。まあ、それはそれとして、躾についても、考え方が、大きく異なる。何しろ、猫は、何か悪いことをしても、それを覚えておらず、後から叱っても、無駄と言われる。確かに、そうなのかもだが、少し違うのでは、と思うことがある。幼少の頃、古参の猫が、自宅におり、新参者の子供より、上の地位にある、と思っているようだった。その為、子供が手を出すと、その場では、仕方ないな、とでも言うような、態度で、知らぬふりをするが、暫くしてから、その時の反撃、とでもいう形で、手を出した子を、痛い目に遭わせていた。これは、思うに、自分がされたことに対し、恨みに思って、覚えていたのではないか。だから、手を出した子が、忘れた頃を狙って、反撃に出た訳だ。子供の方は、すっかり忘れて、何のことやら、と首を傾げるが、親達には、それが、上で書いたようなこと、のように映っていたらしい。そう考えると、猫の記憶力も、侮れないと思える。但し、ここでは、自分がされたことについて、当てはまる訳で、猫の悪戯のように、自分がしたことには、当てはまらぬのかも、だ。でも、この話、猫に限ったことではなく、人間にも、そんなことが、沢山あるように見える。今の社会媒体での、遣り取りの多くは、自分がしたことと、されたことの、区別によって、すっかり忘れたり、いつまでも根に持ったり、との違いが、はっきりと表れている。意外に、生き物は全般に、そんなものかも知れぬ。下らぬことだが、そう思えば、執拗な攻撃も、適当に流すことが、できるかも、だ。
誰もが、手にした端末から、発信できる仕組みとして、社会媒体は、今の地位を、築いたと言える。だから、その恩恵を、重視すべきであり、批判的な指摘は、当たらない、とする考え方も、あるだろう。だが、嘘は嘘、捏造は捏造であり、発言者自身の、利益のみを尊重すべきではない。
こう書くと、そんなことは、十分承知の上で、その書き込みの真偽については、読み手自身が、判断すれば良い、との意見があるのは、十分承知の上で、発言の真偽について、別の人が、指摘することは、非常に重要である、との意見を、掲げておきたい。それが、昨日書いたことなのだが、これ自体も、反応が様々で、今の世の中の、捻れた状況を、表しているもの、と思っている。例えば、報道の一種として、怪しげな情報を、広げようとする動きは、実際には、その運営者が、耳目を集めることで、広告費などを、稼ごうとする魂胆の現れで、その誤った情報で、読み手が、損害を被ることには、何の責任も無い、とするのは、余りにも、行き過ぎの感がある。それも、大元の情報が、間違っているかは、発信者自身の、責任の及ぶ所では無い、とまで言い始めると、もうお手上げである。現実には、そういう場の管理者が、どんな責任を負うのか、これから、定めていかねばならない、となるのだろう。次に挙げた例では、発言者自身からの、反応は全く無い。不都合なことには、相手をしない、というのが、この媒体の鉄則であり、持論を押し通す為にも、発言者本人の判断として、細かなことには、取り合わぬ、というのが、最善の策、と言われる所だ。一方で、反論に対する反論に、終始したが為に、精神を病むに至り、その損害の賠償を、匿名の反論者に求めたり、媒体の運営者に求めるような、訴訟騒ぎが、起きているから、触らぬ神に、といった姿勢が、自身の心身を、正常に保つ為の、手段の一つ、と見る向きもある。だが、それ以前の問題として、誤った発言を、しないのが、一番ではないか、と思うが、どうだろうか。その、誤った発言により、間違った情報を、押し付けられ、それを、鵜呑みにしたが為に、精神を病むに至ったとしたら、誰の責任か、ということだ。まあ、所詮、取るに足らぬこと、に違いないが、これほどに普及し、多くが、眺めずにはおられぬ、という状況は、誰が何を間違ったのか、という点で、論じるべきことかと思う。
社会媒体の、情報信用度に関して、これまでに、何度も書いてきたが、パンチの名前で、登録した囀りでも、時々、表示された書き込みの中で、気になったものに対して、意見を書き込んでいる。中には、乱暴で、不確かな内容に、多くの人々が、賛同を示す場合があり、注意喚起の目的だ。
最近は、登録した人だけが、閲覧できる仕組みになり、誰もが、読めるようには、なっていないので、ここでリンクを、貼り付けたとしても、読めない人も居るだろう。でも、まあ、登録するかは、人それぞれなので、念の為に、貼り付けておく。一つは、不確かさの典型であり、科学研究の論文を、引き合いに出して、最新の知見を、紹介するものだが、肝心の論文は、研究の世界で、常識となっている、査読という審査を、受けておらず、真偽の程は、不明なままだ。こんな怪しげな情報も、引用の仕方では、如何にも新発見の如く、扱えるので、当初の反応は、驚きに満ちており、情報操作の典型、と言えるものだ。これに続き、詐欺話が加われば、まさに、犯罪へと繋がりかねない。で、その点を、指摘しておいた。もう一つも、査読論文に関するものだが、何処かの大学の教授が、訳知り顔で、苦境の説明を、行ったものだが、内容は、杜撰でしかなく、常識を疑うものだから、その点を、指摘した。案の定、本人の反応は無く、不都合なものは、相手をしないという、信用ならぬ人物、と、わかる人には、分かったのではないか。次は、書き込みそのものではなく、その前の情報に、確認できぬことが、あることを指摘し、著名大学の募集においても、そんな不確実性が、含まれる程に、情報発出が、十分に検討できていない、という点に、問題があるように思えた。何が、どのように、表示されるのかは、籤引きか何かのように、偶々のこと、でしかない、と思えるようだが、果たしてどうか。そんな得体の知れぬ、情報を、鵜呑みにするか、疑ってかかるか、更には、確かめてみるかは、本人の問題なのだ。それなりの力を、つける必要がある、ということだろう。
教育は、学校の責任だけでなく、親の責任が、大きい。という話が、物価高騰の中、気になるという話だったが、子供の生育に関しては、親だけでなく、環境の問題も、大きい、という話の一つが、新聞に紹介されていた。能力の発達は、教育という観点だけでなく、生育にもある。
新聞の記事は、音の問題が、子供の生育に、強い影響を及ぼす、という内容だった。特に、大きな音に対し、子供が驚くから、という話は昔からあり、びくびくする子に、しないようにと、叱ったり怒ったりする時も、なるべく小さな声で、などと育児書に書く人も居る。まあ、時と場合により、始終、そんな環境におかれては、年齢に関係なく、誰しも、落ち着かないもので、精神を病む場合さえ、出てくるのだろう。で、この記事の核心は、音の大きさ、所謂、騒音に分類されるものではなく、反響音にも、気を配るべき、との指摘だった。建築学会が、そんな要望書を出すとして、他の先進国では、数値基準さえ、設けている所もある、と綴っていた。反響音と言えば、音楽会場での、残響の問題が、取り上げられるが、そういう、美しい音色の為ではなく、単純に、不快さを示すものとして、そんな基準があるのか、という疑問が湧いた。ただ、この手の話として、思い出すのは、ある地方の美術館で、そこは地元出身の、障害者を記念して、建てられたもので、彼の作品が、展示されていたが、ある年に、新築された。よくある話で、設計者の提案を競わせて、最優秀のものを、建築した訳だが、暫くして訪れると、各部屋で、強い違和感を抱いた。円筒を切った形に、各部屋は設計され、その周辺の壁に、展示物があったが、その中心に立つと、何とも言えない音に、包まれる感覚があった。数ヶ月後に、再び訪れると、各部屋の中心には、何故か、机が設置してあり、そこに立つことが、できなくなっていた。成る程、苦情があったのか、と納得したが、選考基準には、美しさはあっても、そういった問題は、無かったのだろうな、と思った。地声が大きいので、廊下での反響にも、屡々出会すが、これも幅と高さの比率、なのだろうと思う。こんなことから、学会も、口を出すようになったのかも、と思うが、世の中には、色んな障害が、あるものだ。
値上げが続き、生活が、一層苦しくなる、という話が、よく流れてくる。でも、本当だろうか。別に、裕福な家庭でもなく、ごく普通の平均的な、と思っているが、今回の値上げで、日々の生活が、厳しく圧迫された、とは感じたことはない。だが、一部では、そんな状況と聞く。
例えば、子育て中の家庭で、学校に通わせている場合、給食費が、払えなくなった、とか、修学旅行の積立金が、支払えない、とか、そんな窮状が、度々取り上げられる。が、本当だろうか。払いたくない、の一言で、片付けられたら、本当だろうな、と思うけれども、払えない、という状況は、俄には信じ難い、としか受け取れない。そんな家庭でも、移動の手段は、何とか講じられており、また、日々使う、通信手段も、ほぼ確実に、確保されているだろう。だが、それに比べて、子供達の教育に、かかる経費となると、話が違うらしい。穿った見方では、でも、塾に通わせたり、その他の活動に、かかる経費は、どうなるのか、とさえ思えてしまい、一体全体、彼らの優先順位は、如何に決められたのか、という疑問さえ、浮かんで来かねない。仮令、子供を儲けたとしても、それは、単に、自分らの楽しみの為で、彼らの将来に、必要なものの中には、不要なもの、と映るものも、あるのではないか。まあ、それぞれの勝手としても、上に書いた、給食や旅行に、必要となる経費が、賄えないとの窮状が、訴えられた途端に、手を差し伸べる人が、登場してくる時代には、自分で、自分のことを、出来ない人を、これ以上増やしては、社会自体が、崩壊するのではないか、とさえ思えてくる。と言って、障害者のことを、書いているのではない。彼らの権利を、保障する為の、仕組み自体は、社会において、不可欠なものだろうから、それを無くせば、などと暴論を、吐くつもりはない。だが、上に書いたような、身勝手な事情を、訴える人の中には、障害者が、受けている利益を、健常者である自分も、受ける権利がある筈、などと言い出す人まで居る。何をか言わんや、としか思えぬが、大真面目で主張し、それが、当然と思う。何を何処で、取り違えたのやら。
何人が読んでいるのか。ということを、書いた人は、気にするのか。大衆媒体の場合、テレビなら、視聴率があるし、新聞なら、購読者数がある。嘗て、世界一を誇った新聞も、あったと記憶するが、果たして、今はどうか。更に、各記事については、どうか。気になる人も居るだろう。
視聴率は、あくまでも率であり、総和とはならない。だから、日々の番組で、何人が視聴しているか、を知る手立ては、今の所、無いようだ。一方、新聞の購読者も、誰もが、自分のことを、思い出せば、すぐに分かるように、全紙面の記事を、全て隈無く読む、という人は居まい。だから、各記事について、何人が読んだか、調べた人は居ない、と思う。ただ、最近は、新聞も電子化が進み、各記事への訪問数を、数え上げれば、近い答えを、得ることができるかもだ。同じとは、言い難いが、社会媒体の方は、この仕組みが、遥かに進んでいる。特に、公開を基本とする、囀りについては、各書き込みに、閲覧の概数が、示されている。その数により、重要性の軽重を、評価するかの如く、番組で取り上げる、大衆媒体もあるが、客観的と称して、何の自主性、主張も出さないのは、如何なものか。一方で、概数に関しても、ちょっとした仕掛けが、あるようにしか、見えない。閲覧数が、増加し始めると、その勢いが、どんどん増す方に向かう。これは、囀りの特徴の一つ、提示の仕方に、原因があるように思える。「おすすめ」と称するメニューが、常に、上に示されており、それを押せば、確かに、そんな具合に思える、書き込みの数が、表示される。おそらく、見ている人間が、どんな記事に、目を向けたかに、依存する形で、表示するものを、選んでいるのだろうが、それにしても、こんな書き込みで、何故、そんな数の人間が、閲覧したのか、と思えるものが、大部分だ。詐欺の話の中でも、紹介したことだが、捏造や嘘などで、耳目を集めれば、達成できることで、時に、子供騙しが、続々と表示される。まあ、所詮、その程度のもの、と思いつつ、情報収集を、繰り返すのだが、さて、意味があるのか。多分、無意味には、違いない。ただ、あまりに酷い内容に、批判を加えるのを、止めてしまっては、いけないような、気もする。