パンチの独り言

(2025年11月17日〜11月23日)
(お手並み拝見、借り物か、課題満載、真相は、熱したら、再検討、未熟と無知)



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11月23日(日)−未熟と無知

 再稼働の遣り取りで、最も気になったのは、未熟さと無知の、誤解とでも、言うべきものだった。事故が起きた時、多くの人々は、これまでの事故から、学んだことから、あんなことが起きる筈は無い、と思った。だからこそ、こんな災害は、防ぐことができぬ、と信じたのだ。
 だが、これは、全く異なるものを、同等と見做すことから、始まった過ち、と思えて仕方がない。前者は、経験に基づき、あらゆる危険性を、回避する手立てが、講じられる筈、との思い込みと共に、科学の力に対して、過度な期待を抱く、傲慢さの現れ、と見ることができる。一方で、後者は、災害そのものへの、無理解と共に、その仕組み自体を、依然として、理解できぬままに、過剰に恐れる、そんな心理の現れ、と見ることができる。何を偉そうに、と言われても、どうということはない。客観的に、物事を眺めぬままに、愚かに、騒ぐだけなら、何の知識も判断力も、必要とはならない。そんな状況が、一部に現れ、それを歓迎する空気が、社会媒体を、満たしているのでは、とさえ思えるのだ。それほど、愚かなのか、と断じてしまえば、却って、楽になるかもだが、物事は、それでは、片付きそうにない。だからこそ、十分な議論をして、その場その場での、結論を導く必要がある。なのに、互いに、相手の無理解を、攻撃することに、終始するばかりで、何の結論も、出せないでいる。主義主張を、できる場が、全ての人々に、与えられた、と見るのも一つだが、一方で、何の確認もなく、ただ、言いたい放題を、続けるだけの場が、構築されてしまった、と見ることもできる。これでは、成長も何も、起こり得ないのでは、と思うのだが、どうだろうか。それでも、時に、冷静な声が届き、一瞬だけでも、我を取り戻す。そんなことの繰り返しが、地道に行われれば、もしかしたら、ずっとましな社会が、実現できるかも、だが、さて、どうだろうか。

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11月22日(土)−再検討

 再稼働、という話が、流れてきた途端に、囀りでは、両論が飛び交っている。不安を口にすれば、それで、なんでも叶う、と思う人が居る一方で、安全性には、懸念があるものの、経済活動を、保つ為には、不可欠との意見も。特に、諸手を挙げて、歓迎された新技術に、危うさが見えるだけに。
 確かに、世界的に見ても、あの大震災後の、大津波の襲来で、危険な状態に、陥った発電所が、以前の事故同様に、かなりの放射性物質を、拡散しただけでなく、発電所の反応炉自体が、暴走するとの懸念も、広がっていた。そうなれば、制御不能に陥り、周辺のみならず、国内どころか、世界さえも巻き込む、大惨事へと繋がる、とも言われた。それだけに、物理学者出身の宰相が、国内の発電所を、全て閉鎖する、との決断も、当然と受け取られた。だが、その後の展開は、どうか。確かに、軍事侵攻に踏み切った、狂気の暴君を有する国から、化石燃料ガスを、供給する手立ては、断ち切られ、再生可能、と呼ばれた資源にも、翳りが見え始める中、隣国から、その仕組みで発電された、電気を輸入せねばならず、再検討の声も、出始めている、と聞く。物理学者は、確かに、科学の原理について、深い理解がある、のかもだが、彼女だけでなく、世界中で、あの発電形式に、反対を唱える学者達は、理解の及ばぬ、生物自体の反応には、目を向けようとせず、持論を、押し通そうとする。嘗て、量子力学が、勃興する中、研究対象を、極微の世界から、移そうとした人々は、生物の営みに、目を向け始めた。そこに、別の法則が、横たわるのでは、との期待からだったが、今見ると、本家の学問分野は、広がるのを止め、狭い中での解釈に、走っているように見える。科学の学問分野は、ここ二世紀程、急速な発展を、遂げてきたが、その一方で、人智が、及ばぬ範囲が、広がったように、見えている。狭量で、傲慢な考えに、拘るのではなく、もっと、広がりを持って、見つめるべきだろう。その意味で、再稼働は、期待を抱かせる。とは言え、制御可能との慢心も、傲慢の現れであり、あらゆる危険性を、列挙することが、必要だろう。

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11月21日(金)−熱したら

 情報媒体が及ぼす、社会への悪影響は、今に始まったことでなく、遠い昔から、問題視されてきた。政に携わる人々には、治安を乱すものと映り、極刑を下した歴史は、古今東西、あらゆる場面で、起きていただろう。ただ一方で、媒体の多くは、正義感を振り翳し、大真面目だ。
 昨日の宗教団体にしても、大衆媒体は、権力への反発、という名の下に、彼らの暴走が、極みに達しても、擁護に走ったが、そのこと自体を、すっかり忘れ去り、罪人と断じて、社会的な抹殺さえ、厭わない。こんな極端が、良い影響を、及ぼす筈が無いが、彼らは、その時その時の、正義として、毅然とした態度で、過ちを繰り返す。それは、戦時も同じで、黒歴史として、残っていても、今度は違う、とばかりに、誤りを掲げ続ける。彼らは、明らかに、違う立場にあり、報道を、生業とするから、多くの場合は、慎重な検討を重ね、それこそが、過ちを繰り返さぬ為の、唯一の方法、と信じ込んでいる。だが、歴史は繰り返し、彼らの反省は、何度も重ねられる。一方、社会媒体の多くは、そんな仕組みも無しに、単なる思い付きを、書き殴る場であり、口喧嘩のようになるのは、止むを得ぬこと、と見做されたりする。普段、大人しく、慎重な人物が、何故、そんな極論を、展開するのか。と不思議に思う人も、居るだろうが、現実には、こういう仕組みが、始められてから、こんなことが、急速に、増え続けている。その原因の一つは、誰とも相談せず、自分だけで、反論を綴ることにあり、そこに、酷い思い込みや、誤解の数々が、あったとしても、当人は気付かず、当初の主張を、繰り返し続ける。根源にあるのは、自ら書いたものを、検証する能力の欠如で、議論が盛り上がると、それは更に悪化し、喧嘩の熱気は、増すばかりとなる。掲示板が、登場した頃も、そんな傾向が、目立ち始め、冷静に対応すると、馬鹿にしたとさえ、罵られる始末だ。日中は、冷静で、有能な人でさえ、夜中には、画面に向かって、不満を呟きつつ、こんな代物を、書いてしまう。人間の心理とは、脆弱で貧しいもので、その過ちを、犯さぬ術を、身に付ける必要が、あるに違いない。大昔は、手紙を認めて、情報交換を、行ったものだが、そこでは、構想を練り、下書きを作った上で、清書してから、投函した。そこには、時間がかかるだけでなく、心の移り変わりの中で、何度も読み直すことが、できたのだ。今、困っている人には、そんな形で、時間を置くことを、勧めたいものだ。

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11月20日(木)−真相は

 30年前の春、朝の会議中に、飛び込んできた話は、耳を疑うものだった。当初、都心で、事件が起きたらしい、とされ、その内に、毒ガスか何かが、漏れることで、多くの犠牲者が出た、と変わっていった。画面に、映し出される光景は、俄には、信じられぬものだった。
 その後も、何が起きたかについては、定まらぬままに、毒ガスの正体さえ、伝えられぬ中、不安が広がった。と言っても、都心から離れた場所では、何処か遠くの事件であり、その後の展開から、明らかになったことの方が、遥かに、不可思議なもの、となっていったのだから、何とも、訳の分からない話だ。ここでも、読んだ本で、紹介したように、その正体は、サリンと呼ばれる、戦時中に開発された、毒ガスであり、その致死性から考えるに、製造自体が、困難というより、危険過ぎて、誰も手を出さぬもの、との受け取りが、広がっていた。その後、宗教団体が関わった、テロ事件と紹介され、例の代弁者や支援者達が、盛んに、否定する中、多くの幹部や信者が、逮捕されていき、拠点の捜索から、製造が、ほぼ確定されたものの、現物が、差し押さえできぬ中、これもまた、不思議としか、表現できない遣り取りが、画面に映し出された。犯罪が確定し、死刑が執行されると、皆の記憶が、薄れ始めた、とも指摘されるが、まだ、疑問を指摘する人々が、沢山残っているようだ。今月読んだ本で、後程紹介する書籍は、当時、警察組織の中で、最重要な立場に、あったと言われる、人への直接取材で、多くの内幕が、明らかになった、と帯では謳っていた。だが、読んだ感想は、落胆一色であり、結局、何も明らかにならず、事件の核心は、依然として、霧の中にある、としか思えない。本人の弁で、防げなかったのは、自分の「覚悟」が足らなかった、としていたが、そのこと自体でさえ、何も明らかにせず、誰に対する、どんな「覚悟」なのか、明確にされなかった。取材は、弁護士と、当時、取材に当たった新聞記者が、中心となっていたが、こちらから見ると、当時の遣り取りで、最も重要な役割を、果たしたのが、報道であった筈で、その立場の人間が、何の関わりも、触れぬままとは、呆れるばかりだ。世間とか、世情とか、そんな言葉で、誤魔化す人々は、自分が、何をどのように歪曲したかに、触れぬままに、他人事のように、扱う態度を、何と思うのやら。

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11月19日(水)−課題満載

 手にした端末で、情報の受信が、できるだけでなく、発信さえ、可能となった。多くの人々が、挙って参加し、社会媒体の恩恵に、浴することが、できると思った。だが、その後の展開は、皆が感じるように、情報交換や議論の場ではなく、ただの喧嘩の場所、罵り合いが続く。
 何故、と思う人が多いのは、当然のことだ。情報を交換するだけなら、そこで、主義主張が、問題となる訳が無く、皆が思う所を、書いたとしても、情報の取捨選択は、受け手に任される。その態度を、表明したとしても、個人的なことに過ぎず、そこから、対立や断絶、分断などが、起きる筈が無い、と思っていたとして、何の不思議も無いのだ。だが、現実は、正反対の状況に、なっている。何故だろうか。極端過ぎて、賛同は、得られぬかもだが、子供の喧嘩を、想起すれば、理解し易い、と思う。いい大人が、と思うのは、良識あり、見識のある人々で、多くの人は、仲間とそれ以外、という区別で、人生を歩んできた。そうなれば、賛同するのは、いい仲間であり、反論を掲げるのは、仲間以外の人間、極端な見方からは、敵と見做される。となれば、啀み合いも、当然のこととなる。小さな頃、学校で、仲間かそれ以外かで、二つかそれ以上の、勢力に分かれて、互いに、相手の問題を、指摘し合っていた、という経験を、持った人が多いのでは無いか。いつ頃からか、教室内の苛めが、表面化することで、一部の子供達が、窮地に追い込まれた。その後は、全く別の力が、働き始め、苛められた子供が、親を交えて、反撃に出ることで、苛めた、とされる子供達が、今度は、窮地に追われた。何の解決も、得られぬままに、成長した人間が、今まさに、手にした端末で、啀み合いを、続けている。真偽が、明確なものさえ、主義主張により、歪曲された論理で、反対する相手を、言い負かそうとする。こんな状況を、作り上げる為に、社会媒体が、整えられた訳では、決して無いのだが、どうも、人間の心理は、その程度の、幼いものらしい。こちらができることは、それらの問題点を、一々指摘し、正すことしかない。

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11月18日(火)−借り物か

 生成人工知能に関して、様々な意見が、飛び交っている。曰く、仕事が奪われる、とか、不正に使われる、とか、兎に角、悪い話ばかりが、取り沙汰される。一方で、良識ある考えでは、巧く使えば、仕事を軽減できる、とか、巧く誘導すれば、新たな学びを、誘い出せる、とか。
 新技術の多くは、これまでにも、歓迎の声と、警戒の声が、入り混じって、迎えられた。その後、定着したものは、その殆どが、使いようが、整えられることで、害より利が、優るようになり、その地位を築いていった。確かに、省力化が進めば、人力作業の多くは、不要となるから、当然、労働者の数は、減ることとなる。これが、製造業における、自働化や製造機器の導入で、従業員の数が、減らされたことを、想起させ、仕事が奪われる、という叫び声が、聞こえることへと、繋がるのだが、その歴史において、労働者は、別の活躍の場を、得ることで、仕事を続けており、一概に、警戒すべきもの、と見るべきではない。また、労働環境の改善は、危険性の回避へと、繋がるから、労働者自身にも、利益となる場合もある。では、不正の方は、どうだろうか。特に、教育現場では、警戒が高まりつつあり、既に、問題が生じている、との訴えも、数々寄せられる。だが、その内容を、詳しく眺めると、問題の本質が、教える側の怠慢、にあるとの見方もあり、一概に、禁ずることが、良いとは限らず、また、場合によっては、それらの不正を、暴くことの難しさが、新たな障害となる、こともありそうな気配だ。ただ、現場の困窮具合から見ると、まさに、喫緊の課題となりつつあり、どう処せばいいのか、答えを求める声が、多いのも事実だ。では、どうすべきか。一部の大学では、人工知能による不正が、発覚した場合には、厳しい処分を下す、と謳っているようだが、上に書いたように、利用の有無が、確認できない場合には、何ともならず、当事者が、困り果てるだけ、となる。各人に、任せるしかない状況だが、その中で、何をどう工夫すべきか。実は、大した問題ではない、との意見もある。他人のものでも、人工知能でも、借り物であれば、その理解を、確認するだけで、十分だろう、となる。多分、この辺りが、現時点での、落ち着き先だろう。どうなるのか。

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11月17日(月)−お手並み拝見

 硝子の天井を、打ち破った、としては、大騒ぎに過ぎるか、何れにしても、女性の社会進出で、下位に沈んだままだった、この国の宰相が、女性になると、想像しなかった人は、多いだろう。その一方で、なるはなったが、務まる筈が無い、と思った人も、多かったようだ。
 で、蓋を開けてみて、どうだったのか。依然として、極端な両論が、飛び交っている。毅然とした態度さえ、いきがっている、と見る向きがある。そこにきて、一見、論理的な説明も、その弱点を、突こうとして、躍起になる人々も。これらが入り混じり、社会媒体は、ある意味、盛り上がっているが、大衆媒体も、負けてはいない。どちらの意見に、与するかで、都合のいい情報を、挙って取り上げるのは、今に始まった、行状ではない。こんな状況では、世界情勢が、どう流れているかでさえ、主義主張により、正反対な論評が、目立っている。何が正しいのか、どう判断すべきか、自信の無い人程、戸惑うばかりとなり、画面から、目を離せなくなる。だけでなく、社会媒体では、好悪を顕にして、極端な意見を、書き込む人も、数え切れない。だが、その根拠は、薄弱なもので、誰かが、そう書いたから、とか、大衆媒体で、そう言っていたから、とか、そんなものばかりで、媒体の主同様に、一次情報に、触れようともせず、流れに、身を任せている。そんな極論を、眺めつつ、あたふたする人には、何とも、不安な日々が続く。それに加え、外交では、牽制を込めて、極端な物言いが、横行し始めており、断絶状態が、強まりそうにさえ、見えてくる。だが、所詮、人間社会は、それだけでは、事が運ばず、互いに、妥協し合いつつ、落とし所を、探しているのだろう。こんな騒ぎの中、極論に与して、過ちを繰り返せば、信頼を無くすだろうし、時に、地位や名誉までも、失いかねない。だからだろうか、多くの意見は、社会的に、尊敬される人や、高い地位にある人ではなく、老後の暇を、潰すだけの人や、不平不満ばかりで、何も成すことが、できない人ばかりが、書き込んだものに見える。まあ、そんな輩に、付き合わずとも、暫く、様子見しても、いいではないか。焦ることはない。

(since 2002/4/3)