当時の混乱は、そんなものではない、と言われそうだ。だが、世界的にも、国内も、地域でも、それぞれに、現場の混乱は、高まるばかりで、特に、医療関係者は、勿論のこと、役所の混乱も、極まっていた。ただ、流行病は、一種の終息を、迎える。死者数も、陽性者数も、激減した。
この変化が、ワクチン開発による、と言いたい人は、言っておけばいい。総括が、為されぬ限り、詳細が、明らかになることは、決してなく、逆に言えば、何が功を奏したのか、誰にも分からない。確かに、重症化は、防げたのかも、だが、肝心の感染拡大は、なぜ終息したのか。生物体の免疫機能が、発揮された為、と見ることもできるが、相手は、次々に、姿を変える代物、理由は定かにならぬ。姿を変えるに従い、発症後の重症化に、影響されると言われる、毒性が、低下したのでは、との憶測もあるが、分からぬままだ。とは言え、結果良ければ、という具合で、いつの間にか、忘れ去られた。と言っても、残ったものがある。一つは、発症後の後遺症であり、深刻とも伝えられるが、感染爆発に比べ、被害が限定されるだけに、これも忘れられそうだ。もう一つは、ワクチンの副反応、と呼ばれる現象で、接種直後に、体調異変で、死亡する例だけでなく、発症による後遺症とは、全く別の形の、後遺症が残る場合がある。こちらは、人為的な要素が多く、人災へと結び付けられるが、因果関係として、確定できぬだけに、有耶無耶にされている。ただ、開発手法との関係から、今後、この方法が、一般的となれば、見過ごせぬこと、と思われるのも、無理はない。兎に角、一つの病気が、膨大な数の感染者を、出したことで、起きた事象は、数え切れぬ程だ。今後の展開として、やはり、重要と思えるのは、総括の実施だろう。流行時も含め、疫学的な調査が、的確に行われず、また、公衆衛生でも、同じような状況で、将来への備えが、不十分なまま、と思える状況だ。この病気に限らず、医療や科学の知見が、活かされていない、と思えることが、増えている。囀りのような、社会媒体が、賑やかになったのと、逆行するように、信頼性が、失われつつあるのは、何故だろうか。臨床研究そのものも含め、多方面からの解析が、必要に思う。
ワクチンができた、の報を受けて、多くの免疫学者が、周囲の為に、社会全体の為に、接種しよう、と訴えた。確かに、従来の知見からは、接種により、感染が防がれ、感染者が居なくなれば、拡大も爆発も、起きないと思える。だが、その後の知らせに対し、首を傾げた。
開発した製薬会社は、当然のことながら、その効果を、解析した結果を、発表した。その内容に、驚いた人も多い。何しろ、感染防止の為、と思われたのに、そこには、感染は防げなかったが、重症化を防ぐ効果が、確かめられた、と発表されたのだ。一般庶民の戸惑いより、免疫学者の混乱の方が、遥かに大きかった、のではないか。何しろ、他人に移さぬ為に、接種を推奨したのに、それはできぬが、本人の症状を、軽くするとなったのだ。これでは、利他的ではなく、利己的でしかなく、自分さえ良ければ、と言われそうだ。ここまで、読んできた人には、この原因に、思い当たるのではないか。つまり、感染の有無、という基準において、発症するか否かは、全く無関係に、病原体を保有するか否かが、肝心となり、それを指標とすれば、ワクチンの効果は、病原体が、感染者の体内に入り、ある程度、増殖したとしても、その後の発症へと、繋がる過程において、発揮され、発症や重症化を、抑制することとなる。接種した人の、免疫反応が、どのように起きるのかは、この報告により、かなり大きな変更を、余儀なくされた、と思える。それ以外にも、首を傾げざるを得なかったのは、通常なら、複数回と言っても、2、3回の接種で、免疫力が定着する、と言われたのに、何度も何度も、接種が勧められた。これも、不思議だったが、その理由は、明らかにならない。その後の、情報の錯綜では、最適の回数について、異論が噴出して、現場の混乱は、高まるばかりだ。当時は、分類の問題から、厳しい管理が、敷かれており、検査は、接種者に対しても、実施された。結果は、陽性者となり、未接種者の陽性と、どう区別すべきか、これも混乱要因となる。今は、分類変更から、騒ぎは収まり、重症者の話も、殆ど聞かれぬ。だが、検査は、依然として、実施され、無症状陽性者、あるいは、感染者は、相変わらず多数居るとされる。さて、どうなる。
救世主は、ワクチンと呼ばれた。ウイルスを病原体とする、流行病に対して、為す術無く、死に行く人や、重篤な後遺症に、苦しむ人を、見守るだけだったものが、ワクチンの登場で、感染を防ぐことが、できるようになった。免疫学の根幹を成す、治療法の一つ、と呼ばれた。
方法には、幾つかあり、病原体の一部や、感染力を失ったものを、接種したり、感染性が、僅かに残るものの、発症の可能性が、著しく低いものを、接種する。死亡率が高く、恐れられていた、天然痘では、牛の類似の病気から、効果のあるものを、選んで使ったと言われ、後遺症に苦しむ、小児麻痺では、生ワクチンの登場で、患者数が激減した。確かに、接種により発症する、危険性は皆無では無く、犠牲者も居るが、集団として、考えることで、適用範囲は、急速に広がった。細菌性の感染症でも、抗生物質で治療できるが、その過程で、悪影響を及ぼす場合には、ワクチン開発が成された。だが、正体を、次々に変える、ウイルスの一部には、ワクチンの開発が、追いつかず、問題が残っている。毎年恒例の、流行性感冒は、その典型の一つで、籤引きのよう、と揶揄されることもある。新型コロナについては、感染拡大当時も、その変化ぶりに、驚かされたが、従来の開発法では、とても間に合わぬ状況だった。そこに、登場したのが、従来のウイルスタンパク質を、抗原とするのではなく、それを作り出す、遺伝子産物を、直接接種することで、そこから産生される、タンパク質への抗体を、体内で作らせる、戦略が、実行された。未だに、研究段階にある、と思われたものが、緊急事態だからと、各製薬会社に、開発を依頼した。通常なら、費用を賄うのは、企業自体だが、世界的な緊急事態で、各国政府が、それを出し合う体制が、整えられた。目出度く、開発されたワクチンは、先進各国に、配布された後、開発途上国へも、広がることで、感染爆発は、一時の危険性を、脱したと言われた。これだけなら、目出度目出度、となる筈だったが、幾つか、問題点が出てきた。結果良ければ、それで良し、となったかならなかったかは、どうも、人によるらしい。それらについては、明日以降に書く。
当時、報道は勿論のこと、一部の専門家までもが、感染者と呼んだ人々は、正確には、検査陽性者であり、病原体の有無を、調べた結果として、保有が確認された、というものだった。学会が、感染の有無を、検査の結果で判断、としても、現実には、病気の有無は、発症したかどうか、で決まる。
ここに、混乱の原因があった。とは言え、世界機関をはじめとして、各国の研究機関が、学会の決定を、根拠として、検査に踏み切った以上、そのこと自体を、批判しても無駄だった。一方で、そんなことに、拘る遑は、現場にはなかった。発生源と、目された地域から、広がった結果として、ずっと西の方の地域に、感染が広がり、犠牲者が出始めた。都市封鎖により、感染拡大を防ぐ、との手立ては、掛かった労力と、経済停滞の被害の割には、全く効果を見せず、死亡者の数が、急増し始めた。特に、初期段階で、その傾向が顕著となったのは、それ以前に、国家予算の削減から、診療施設の撤廃を、進めていた国で、対症療法の極致、と呼ばれた、人工呼吸器の一種も、最先端施設にしか、準備されておらず、連合内の、他国への患者移送で、対応する程の混乱に、陥った。こちらでも、クルーズ船、と呼ばれる観光船で、船内感染が、急速に広がり、隔離する一方で、一部の重症患者を、最先端医療施設に、移送していた。あちらでは、連合から離脱した国で、様々な事情から、治療現場の崩壊が、起きたとさえ、伝えられたが、結局は、その中で、対症療法の一つとして、自己免疫疾患に、適用される、免疫グロブリン療法が、試されたことで、光明がさして来た、とも伝えられた。だが、結局は、流行性感冒のように、病原体ウイルスの、増殖や活動を、抑制する特効薬は、見つかっておらず、重症化した場合には、多くは、諦めるしかない、とさえ言われていた。細菌による感染症と違い、ウイルスには、抗生物質が効かず、特定のものに、効果を示す薬も、今回の新型には、当然効果を示さなかった。そこに、新たな救世主が、現れたのは、よく知られた所だ。感染そのものを、防ぐ為の手立てとして、免疫反応を利用する、従来からある手法だが、このウイルスに対するものは、開発できない、と言われていた。それが、できた、とされる。さて、次は。
では、何故、感染の基準が、変更されたのか。一般庶民にとり、流行性感冒にせよ、何かしらの、新しい感染症にせよ、その典型的な症状を、自分が示せば、感染したかな、と察して、診察を受け、診断を下される。自分のことなら、それで、何の問題もなく、対症にせよ、治療が受けられる。
だが、感染症の専門家には、そんな一人の人間の、問題なぞは、どうでもいいことだ。社会全体、地域全体、世界全体にとって、どんな変化が起きるか、こそが最重要であり、もし、感染爆発が起きれば、人類滅亡も、視野に入るだけに、未然に防ぐことが、最重要課題となる。その意味では、仮令、症状を呈してなくとも、感染病原体を、保有する人々の存在は、感染拡大の源と、なり得ると考えたのだろう。理論上の問題が、実現可能なもの、と変わったのは、検査手法の発達であり、病原体の遺伝物質を、何千、何万倍も、増幅する手立てが、確立されたことが、決定的となった。できるなら、やってみよう、となるのは、当然の流れであり、今回の騒動では、史上初めてだろうか、世界規模で、大量の検査が、実施された。結果は、皆が知る所で、無症状感染者、という新たな言葉が、認知されることとなった。検査が、可能となる前は、推測でしかなかったものが、実数として、公に発表されると、報道は、無知なまま、それらの情報を、垂れ流し始めた。一種の恐慌が、広がったのは、当然の成り行きだが、さて、それによって、何がどう変わったのか。社会的な反応は、急速に広がり、多くの人々が、恐れ慄くこと、となったのは、ある意味、当然のことだが、それに対して、国や自治体は、どんな備えを、進めていたのか。今、振り返れば、殆ど何の準備もなく、日々伝えられる情報に、右往左往するばかりで、肝心の数値を、どう扱えばいいのかさえ、判断がつかぬまま、社会的には、感染者という札を、付けられた人々が、制裁を受けるような、暴挙さえも、起き始めていた。さて、改めて、見返してみて、無症状感染者が、感染源となることは、確認されたのか。そんな疑問さえ、浮かんでくる。研究の最前線が、如何に曖昧なものか、そんな印象だけが、残ったのではないか。次は、何だろう。
流行性感冒と、当時、大騒動となった、新型と呼ばれた、感染症と、何が違うか、お分かりだろうか。ウイルスが違う、は当然として、医療現場での、対応の違いは、歴然としていた。前者は、症状を呈した、患者を検査するのに、後者は、患者と接触した人全てを、検査していた。
病気として見れば、症状を呈する、つまり、発症するか否かは、重要なこと、と思われる。だが、専門家による判断は、ある時期に、大きく変更された。感染の定義、とも言うべきものが、発症から、病原体保有に、変更されたのだ。以前なら、発熱、倦怠感、関節痛、咳や痰など、症状を示す指標があり、そのうち一つでも、当てはまれば、受診するように、と言われていた。ところが、何の症状も示してなくとも、喉などに、病原体が存在すれば、それを感染と見做す、となったのだ。その上で、分類の違いから、検査対象を、発症者とするか、接触者とするか、を決定していた。更に、検査自体も、大きく変更され、その感度が、格段に向上した、と言われる。学会では、兎に角、感染爆発を、防ぐ手立てとして、病原体保有者を、特定することで、健常者から、隔離してしまい、封じ込めを、達成することが、最優先とされた。特に、感染力の強い、病原体の場合、水際作戦が、最重要と見られた。その結果、巷には、無症状感染者が、溢れることとなり、社会活動が、立ち行かなくなり、先進国各地の、経済活動が、停滞してしまった。ここで、問題は、二つある。一つは、保有者全てが、感染拡大に、関わるか否かの、検証が不十分に思える点、もう一つは、学会が示した、感染状態から、その個人が、発症するか否かは、どう決まるのか、についての見解が、殆ど出ていない点、だろう。今回の騒動が、いつまでも、総括されないのも、これらの点について、疫学的、公衆衛生学的な、調査が、実施されたとは思えず、また、それらの研究の進展も、見えてこないことが、原因と思われる。確かに、騒ぐには騒いだが、その原因を、追及しようとする、科学的な検証が、行われていない、と見えていることが、最大の問題なのだ。この話は、もう少し続く。
その季節が、今年もやってきた。流行性感冒の患者数が、急増していることを、報道は、盛んに伝える。と共に、見慣れた人達が、画面に登場し、専門家と称して、解説を繰り返す。他の人は、どうか知らぬが、こちらは、信用ならぬ人物、としか見えない。当てにならぬのだ。
その中で、感染症騒動では、度々登場したのに、最近は、とんと見かけぬ、という人物が、三人居る。二人は、あの感染症への対策を、講じるための政府委員会に、属しており、当時の役目を終え、退いた訳だから、見かけぬのも、当然と思える。ただ、彼らの当時の弁も、当てにならぬものとして、強く記憶に刻まれた。最後の一人は、研究者であり、特に、感染拡大の数値予測の、専門家として、その分析結果が、屡々引用された。一方で、社会媒体では、8割おじさん、などと揶揄され、彼が出した結果が、如何に、信用ならぬものか、と受け取った人が、多かったことを、思い出す。蔓延当時、恐怖に駆られた人々には、まるで、彼の分析が、天の声のように、響いたのかもだが、実体は、単なる計算結果であり、数式の係数や、入力数値の、操作により、如何様にも、結果を導けることや、新たな調査結果が、届く度に、コロコロと変わる、結果の数々に、疑いを抱くのも、無理のないことだ。特に、賞金稼ぎならぬ、研究費稼ぎには、あの研究手法は、抜群の効果を表し、一部の研究者からは、羨望の目で、見られたものだ。ただ、単純に考えても、ライブ会場のような、密室での、感染状況と、必ずしも合致しない結果には、首を傾げるしか、ないと見えた。世界最速の、計算能力を誇る、超高速計算機を、使った解析結果も、所詮、同じ穴の狢であり、計算式と係数を、操りさえすれば、それなりの結果が、導けた。何故、このように、仮想計算は、的外れな結果を、導くのか、と不思議に思う人が、居るかもだが、現実には、感染源の広がりと、感染そのものとの間に、生体反応があり、そこでの、幾つかの段階が、計算式に、導入されぬままでは、当然の帰結と言えよう。その辺りは、明日のお楽しみに。