パンチの独り言

(2025年12月8日〜12月14日)
(独り善がり、役割分担、高いの低いの、筈が無い、基礎とは、何を補う、無駄なのか)



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12月14日(日)−無駄なのか

 何度も書いたのに、何故、と思われるかもだが、昨日の話に関して、大学関係者からは、懐疑的な書き込みが、囀りの中に、多く寄せられる。だから、どう、という訳でもないが、結局、あんな所に書く輩に、まともな意見など、出す気概は無く、世の中同然、被害者然とすれば、良しなのだろう。
 特に、恵まれぬ環境、と書き連ねる連中は、もし、好転したとして、何かしらの利益を得ても、次は、との弁を続け、もっととばかり、叫び続ける。社会全体に、もしかしたら、世界中が、そんな状況に、あるのかもだが、立場の違いを、考えるべきでは、と思えてしまう。仮令、高等教育機関と雖も、誰かを、教育する為の組織で、その役割を、果たすことが、その中に居る人間には、課せられている。の筈が、その他大勢、時に学生に混じって、同じ調子で、不平不満を並べ、被害ばかりを、口にし続ける。だが、それで、何が起きるのか、また、何が教えられるのか、あの連中は、考えたことが無い、のではないか。一方で、囀りの場で、盛んに批判される、元大学教員が、居ることも、知られているが、この人物は、今回の補正に関して、どちらかと言えば、正当な評価を、下しており、その上で、今、現場に立つ人々が、気付かぬふりを続け、論点をずらそう、とするばかりの態度を、厳しく批判する。でも、これまでの行状からか、同じ論調で、批判を繰り返し、本質を、見ようともしない、人間が巣食うのが、囀りの世界の、特徴であり、最大の問題となる。どうすれば、いいのかについて、誰も、答えを導けず、多くの常識的で、見識のある人々は、それらの、不埒な書き込みに対し、一時は、問題を指摘し、反論を出すが、悪意に満ちた、人間に対して、殆ど効果を示せず、そのうち、相手にしなくなる。その時、凱歌を上げるのは、悪意の塊であり、それを、正当と見誤るのが、その他大勢なのだろう。徐々に、制限が厳しくなり、その内、一部の独裁国のように、彼らが、社会から排除されるかもだが、どうだろうか。こんな場の活かし方について、改めて、論じてはどうか、と思ったりもするが、無駄なのだろう。

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12月13日(土)−何を補う

 以前の政府なら、基礎研究が大事、と叫んだとしても、それは、選択と集中が肝心で、その線に沿った支援で、十分というやり方だった。これは、財布の紐を握る、ある官庁の方針を、そのまま鵜呑みにしたもので、今や、大失着の一つ、と揶揄されるものだ。気づく気配も無く。
 それに比べ、今回の補正は、全く違うもの、と受け取る向きがある。運営費として、各国立大学に、配られるもので、そこには、選択も集中も無く、満遍なくと謳われる。ただ、それでも、上の方に位置付けられる、大学に対して、地方の弱小には、大した額が、行き渡らないのでは、との懸念もある。それはそれ、いつものこと、と見るべきだろうし、これまで、毎年1%ずつ減額してきたことと、比べれば、その一部に過ぎないと雖も、ここが始まり、と見たくもなる。ただ、補正は、所詮、一時凌ぎに過ぎず、これまでの減額分は、年度予算であり、そこに方針変更が、採り入れられなければ、所詮、焼け石に水、と終わってしまう。その意味では、補正額は、末端でどう使われるのか、通常の予算のように、各組織から、計上されたものと違い、何かしらを補正する、との目的だけに、どこにどう配られるか、気になる所ではある。大学の本務は、教育であり、その辺りが、危機的状況に、陥ったことが、今回の措置に、繋がったとしても、不思議は無い。その上で、教育の何に、向けられるべきものか、見守るべきだろうか。とは言え、物価高騰が続く中、光熱水料だけでも、かなりの額に、及ぶと言われる。そこへの支払いに、向けられた額が、本来の業務へと、向かうとしても、一体全体、何のことだろうか。例えば、人件費は、恒常的に必要となり、補正には、馴染まぬものだ。人手不足が、こんな組織でさえ、取り沙汰される中、それではなく、どこに必要なのか、思い当たるだろうか。いずれにしても、これをきっかけに、大学の任務を、本気で考え、予算編成に、採り入れたら、何かが変わるかも、との期待は、本当に膨らむか。次年度の予算編成は、もうそこまで来ているのだ。

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12月12日(金)−基礎とは

 この時期になると、毎年のように、話題になることがある。ある著名な賞の、受賞者が決まり、そこから、皆が研究について語り、授賞式が終わると、一区切りとなる。特に、今回は、複数の、自国の研究者が、受賞したから、その声が伝えられ、何が重要かを、考えようとする。
 だが、彼らの声ではなく、それを伝える報道には、何の実感もなく、何が重要かは、全く理解できていない、と映る。学問の本質は、そう簡単に、理解できないものだから、などと言っている訳ではない。研究の中身を、分かり易く伝えよう、と努力することは、決して無駄ではない。但し、受け取り側の、庶民達は、知らないことは分からぬ、とばかりに、無視を決め込んだり、自分と無関係だから、意味の無いこと、とまで言い出す始末だ。研究の営みは、人間の生活において、非常に重要な役割を、果たしているのだが、それは、見える形ではなく、何処か奥の方の、所謂、黒箱の中、といった程のもので、理解不能の典型、とも言える。仮令、易しく解説しても、理解できないのは、当然のこと、と思うべきだろう。そちらではなく、基礎研究の重要性、という話の方だ。こちらは、政治でも教育でも、様々に関わりがあり、誰もが、関心を持つべきもの、と言われるのだが、さて、基礎研究とは何か、という点に、説明が施される気配が無い。と言うのも、自分達の都合で、話を作り上げ、政策の重要性や、税金の行方など、身近な話題のように、扱うことが、肝心となるからだ。で、改めて、基礎研究とは、と考えてみたら、何を思うだろうか。その先にあるのは、応用研究であり、その先に、技術革新があれば、庶民の生活にも、影響を及ぼすものが、出てくるだろう、と思う人が居るだろう。だが、そうとは限らず、応用など、遠い先どころか、そんな範疇にないものも、所謂、基礎研究に含まれる、ということに、気付かぬのは、庶民どころか、報道関係者、政治家にも、通じる話だろう。基礎とは、始まりであり、それがあれば、終わりがある、とは限らず、始めてみたが、その先の発展もなく、朽ちるものが、その殆どとなる。だからこそ、選択と集中ではなく、闇雲に、盲滅法に、取り組む必要が、あるのではないか。そこには、基礎的な配分として、全てを支援する、必要があるものだ。そこに、目を向けずに、将来役立つもの、と見ることこそ、差別的な考えで、間違いの始まりとなる。

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12月11日(木)−筈が無い

 自分の命を、守る為に、何をすべきか、考えたことが、あるだろうか。それは、時と場合により、様々なもので、これといった、決まったものは無い、と思う人が、多いのではないか。しかし、担当者達は、なるべく、被害を減らそうと、発出する警告文に、工夫を凝らす。
 でも、これまでの災害を、思い返すと、その試みは、殆ど成就せず、毎回、空振りに終わった、という印象が強い。だからだろうか、言葉の強さは、徐々に増しており、まるで、恐喝かと思える程に、脅しの表現が、並んでいる、とさえ思えてくる。確かに、危なさの大きさを、表現する言葉は、時に、説得というより、脅しに近いもの、となる場合があり、度がすぎると、却って、逆効果なのでは、とさえ思えてくる。そこで、最も客観的な表現として、数値が示される場合が、出てきた。確かに、数字の大きい小さいは、誰が見ても、同程度に受け取られ、形容詞での表現とは、明らかな違いがある。ただ、そこで多用される、確率となると、話が違ってくる。その事象が起きる、割合を示すのだが、元々、災害は、僅かな確率でしか、起きないからこそ、多くの人々は、高を括って、大丈夫だろう、との見込みを立てる。しかし、危険が迫る中では、その割合は、急激に増すから、油断大敵、となることがある。それを、何とか伝えたい、のだろうが、いい表現が、思い浮かばず、一方で、数値で示すと、あまりに小さいから、また逆効果、となりかねない。悩む所だが、かと言って、過激な表現を、軽々しく使えば、何事も起きずに、被害が広がらねば、厳しい批判の対象となる。要するに、この繰り返しなのだが、役所である以上、こういうことに対し、責任を持って、対応する必要がある。一方で、受け手の問題も、簡単には、片付きそうにない。まさに、高を括り、見過ごした結果として、大きな被害に、見舞われた時、どんな反応を、示すのかが、肝心だろう。逆恨みも含み、冷静に見れば、誰の責任か、明らかにも拘らず、食い下がる心情は、わからぬもないが、それにしても、と思う。

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12月10日(水)−高いの低いの

 1%、と聞いて、どう思ったろう。百回に一回、と思ったとすれば、逆に言えば、九十九回は、何事も起きない、となる。たったそれだけ、と思った人がいる一方、では、今回の地震が、起きる前と比べて、どうなったのか、と冷静に分析する人は、思ったのではないか。
 こんな数値を、担当庁の役人が、示したのには、理由がありそうだ。注意情報は、住民への注意喚起を、目的としたものだが、前回、もう一つの巨大地震が、予想される地域で、比較的小さな、地震が起きた直後に、発出された情報では、その地域だけでなく、周辺地域にまで、警戒が広がり、数日間の活動停止、を招いたと批判された。起こる、という情報は、それが、どの位の確率で、起きるかにより、受け止め方は、大きく異なるし、当然ながら、備えへの意欲も、全く異なってくる。夜中の、寝入り端を襲った、大きな地震は、直後の、津波警報の発出により、沿岸部に住む人々は、安全地帯への避難を、余儀なくされた。街灯以外は、真っ暗な中、高台に向けて、多くが、徒歩での避難を、行ったと思うが、その後の発表で、注意情報が発出され、1%という数字が、報道で飛び交った。だが、この僅かな確率に、どう対処すればいいのか、直後の報道は、何も伝えなかった。その原因は、記者会見場に居た、多くの記者達が、問い質さなかったからだ。初めの報道で、そう受け止めたが、ここで紹介する新聞記事は、直後にも、それを伝えていた、こととなる。地震発生以前は、千回に一回、だったものが、十倍になった、という話なのだ。成る程、と思いつつ、記事を読むと、そこには、0.01%と表記され、簡単なことでさえ、間違える記事に、更に、信頼は低下した。まあ、そんな過ちは、こちらで、修正するとしても、大元の取材の姿勢は、大いに批判されるべきで、特に、数値が示された場合の、その扱いには、送り手の立場から、どう処理すべきかを、平時から、検討しておく必要がある。担当庁も、ある意味では、慎重さに欠け、説明不十分となることが、多々あることから、ただの脅しではなく、説得力のある、表現の検討を、繰り返す必要がある。人間の心理を、読み取ることに、腐心するだけでは、誤解を招くだけとなるからだ。

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12月9日(火)−役割分担

 女性差別と聞いて、何を浮かべるか。抑圧されてきた人には、そんなことは、大昔からある、と言われるが、世間的に、大きな問題として、取り上げられたのは、海の向こうの、ウーマンリブ(women's liberation)だろう。1960年代に始まり、70年代には、世界に飛び火した。
 でも、それで、変わったことは、殆ど無い、と言われる。その後、こちらでは、40年前に、男女雇用機会均等法なる法律が、制定され、女性の社会進出を、促したと言われる。が、これも、差別解消には、至らなかった。実は、雇用だけでなく、他の生活全般に、問題がある、と指摘され、四半世紀前に、男女共同参画社会なる言葉が、高々と掲げられ、法律も制定された。その後、国だけでなく、地域も挙って、この言葉を用いて、社会の構成員に、老若男女を問わずに、意識改革を促したが、さて、どんな具合だろうか。生物学的には、男女、雌雄の区別は、明確になっており、その役割分担も、はっきりしている。だが、生殖に関する以外には、時代、社会など、様々な要素で、それらは、大きく異なり、労働でさえ、女性が大半を担う、という所さえある。そこでは、戦いのみが、男の役割で、平時には、ただ、食って寝るだけ、とのことだ。何事にも、男女の区別なく、という考え方が、市民権を得てきたが、実情は、かなり難しい状況で、はっきりとはしない。一方で、推進の為と称して、雇用機会を均等にするのではなく、優先的に採用するなどの、措置が取られるようになり、逆差別などの言葉も、飛び交い始め、混乱の最中といった感がある。一方で、多様性の時代なる話が、徐々に大きくなり、男女以外の区別を含め、種々雑多な分類法が、採り入れられると、ただでさえ、落ち着かぬ状況が、更なる混乱を、招いているように映る。そこには、当然ながら、少数派や弱者といった、擁護される存在が、加えられることで、差別感は、却って強まった、ようにも映る。以前、強面俳優が、妊娠・出産を経験する、という喜劇映画があったが、性の区別を、排除して、神の思し召しは、正確ではないが、生物としての役割を、打ち砕くような考えには、賛同しかねる。自分さえ、という考えでは、社会は、成立しないからだ。

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12月8日(月)−独り善がり

 情報交換の場、だった筈だが、現実には、独り善がりの意見を、書き散らすばかりで、数としては、圧倒的に、そんなものが多いようだ。その上、反論が書き込まれると、途端に、火がついたように、その主張は、極論へと発展し、敵対視するだけでなく、反論を曲解する。
 情報交換や議論には、基本的に、冷静な対応が、必要となるのだが、上に書いた人々は、そんなことが、不可能であるばかりか、相手の人間性を、全否定してみたり、反論を曲解することで、貶めたりする。所詮、そんな人間性は、こういう場には、馴染まないもので、排除できれば、するのだろうが、そういう精神性の人間は、自らの立場を、守る為と思い込み、攻撃性を維持し、立ち去ることは、選択肢に出てこない。そうなると、独壇場となり、皆が、見て見ぬ振りをするか、或いは、拒否することで、目に入らぬように、するしかなくなる。自由な、情報交換の場、と目された筈が、当てが外れて、時に、心に傷を負い、退散した経験を、持つ人も多いだろう。勝手なことを書く、という意味では、独り言は、まさに、その典型であり、批判されても、と思ってきたが、これほど、耳目を集めぬと、そんなことさえ、起こらない。そんな見方もあるが、実は、はじめに紹介した、情報交換の場、とは大きく異なる仕組みが、ある。独り言は、自ら、接続しないと読めないが、囀りでは、おすすめと称して、矢鱈と、悪質なものが、送りつけられるのだ。それは、接続数や、「いいね」の数など、何かしらの数値を、基として算出された、ものなのだろうが、悪質であればある程、嘘や出鱈目が、極端である程、表示される可能性が、増すのだから、困ったものと思う。その上、悪質性を、感じない人だからか、そんな発言ばかりに、首を突っ込み、同意を表したり、煽ったりする輩が、居るのも困ったものだ。方法には、触らぬ神に、とばかりに、接続しないことや、そんな発言に、心を乱されぬ、ある意味の強さを、獲得するしかない。反論は、重要なことだが、面倒は、背負い込まぬ方がいいようだ。

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