とはいえ、正論を書き綴られても、それは、単純に、耳が痛いだけで、迷惑千万、と思う人の方が、多いかも知れぬ。だからこそ、教育の場は、ただ煩いだけで、何の役にも立たぬ、と言われる訳で、別の見方からは、そんな場に居る人間も、同じ考えで、囀りに接するから、駄目なのだろう。
これは、その人間が駄目、という意味ではなく、こういった、囀りのような、議論の場が、成立する筈がない、という意味での、駄目ということだ。その結果として、誰かが、苦しんでいれば、そこから逃れる方法より、ただの慰めの方が、遥かに、有り難いもので、問題解決より、一時の救いの方が、遥かに大きく感じる、となる。そういう姿勢で、相互に慰め合い、同情や同意に、溢れる場こそが、今の時代に、必要とされるのだ、と言われたら、もう黙るしかない。だったら、勝手にしたら、ということなのだが、それが、社会が抱える問題の、解決には繋がらず、何の救いも、もたらさない、となるからこそ、面倒と思いつつも、しつこく、執拗に、書き続けるのだ。拒否されたり、拒絶された場合には、追い続けずに、そのまま放置となるが、遣り取りが続く限り、何らかの助言や指摘を、続けていくこととなる。それが、邪魔と思う人は、相手にせずとも良い。無理に追いかけて、説得するのは、教育の場の、本来の姿と思うが、それさえ、成立しない時代に、相手の顔も見えず、気持ちを表すことも、不可能となれば、致し方が無い。例の感染症騒動から、対面方式でなく、端末を通して、直接的な関わりを、排除することで、心の安定を得た人々が、多数派となってからは、こんな場こそが、役に立つと思われ、有用な情報が、交換される場として、評価が高まる。でも、と思うのは、こちらが、そんな世界から、排除された存在だから、当然のことだが、果たして、このまま進むことが、より良い世界を、築くことになるか、については、疑問を感じる。そんな気持ちで、この独り言も、最近の囀りでの投げかけも、行ってきたのだが、どうなのだろうか。
昨日のようなことを、書いてみても、所詮、社会媒体を賑やかす人々は、他人事に首を突っ込み、勝手な批判を繰り返し、実生活では、自分の周りのことしか、眼中にはなく、更には、自分の理解にしか、興味は無い。そんな輩を相手に、大真面目に、議論しても、無駄か。
となってしまうのが、関の山だろう。となれば、媒体の存在自体、無駄なものとなり、議論に至っては、身勝手な意見の、打つかり合いに過ぎず、時間の無駄、となってしまう。これが、仮想空間の話で、終わって仕舞えば、そんなものは、遊びの一種となり、時に、鬱憤晴らしで終わり、時に、罵り合いに終わる。相手を、言い負かせば、それで満足、という人々が、居座る空間が、果たして、どんな役に立つのか、取り上げるのさえ、無駄と思う人も、多いのではないか。特に、遣り取りの末に、痛手を負った心を、回復することが、叶わなくなった人には、忌み嫌うべき存在、となるだけであり、そんな人々への同情は、仕組み自体の破壊を、望む声に繋がる、ことさえある。だが、こんな状況は、人間社会を考える上で、百害あって一利なし、となりかねない。確かに、法律なりで、禁じて仕舞えば、それで済むことだが、本来の目的である、情報収集の場、という存在意義は、どうなるのか。種々雑多な人が居る世界で、こんな野放図な仕組みが、適切に自己管理される、可能性は皆無にも見え、皆が、その害悪に、晒されるとなれば、やはり、禁じるのが、唯一の手立て、となるのかもだが、果たして、それが、正しい答えと、言えるのだろうか。この所、せっせと、正論を書き記し、反応を眺めているが、都合のいい解釈で、罵倒し続ける、不埒な輩が、姿を現すかと思えば、ただ、漫然と、読み過ごすのみ、という人の数の、何と多いことか。所詮、その程度のもの、と解釈すれば、もっと気楽に、都合のいい情報を、手に入れられるのかも、なのだが。
実世界の課題は、解決されそうにない。と言うか、何が課題なのか、相変わらず、社会媒体では、議論する人がおり、混乱するばかり、とも見える。まあ、暇潰しの連中が、面白がって、横槍を入れる、だけのようだから、無駄な騒ぎ、と見るべきだろう。で、課題は、何か。
国際機関の長は、戦争を止めろ、と言ったらしいが、彼らの活動の原資は、何を元に、もたらされるのか。以前の、感染症騒動でも、機関の中の、保健に関わる部門の、長の発言が、他人事のように、響いていたことから、所詮、あの手の組織の、活動の意義は、分断の時代に、消え去りつつある。世界的な課題には、事欠かない時代、と見るべきだろうか。特に、分断が取り沙汰される中、一国の独裁者が、身勝手な解釈から、隣国への侵攻に、乗り出した所で、大国間の拮抗で、世界機関からは、何の提案も出されず、もうすぐ3年となる。この背景には、先の対戦後、新たな組織が、始められた時に、定められた大国の論理が、破綻を来しつつある、ことを表している。一方で、その馬鹿げた力比べ、とは全く異なる事情から、保健機関の為体も、顕在化している。世界的な、感染症騒動では、本来なら、専門家としての、助言が出される筈が、混乱の極みから、科学的にも、論理的にも、杜撰な結論しか、出されぬままに、各国の利己主義が、露呈することとなり、解決どころか、総括さえ、実施できぬ状況に、恥を晒すこととなった。戦後、80年を超え、平和な時代が、続いたように、見えていたが、現実には、その下での活動が、歪みを強めていた。力の均衡が、ある所で、保たれていたが、何処かで、崩れ始めた途端に、こんな事態に陥る。一方で、均衡だけに、期待する仕組みは、この状況では、機能しそうにない。一旦、御破算で願うのか、はたまた、小手先の誤魔化しで済ますのか、考える必要が、出てきそうな気配だ。この国は、その中で、どんな対応をするのか。
年が明けたが、何も変わっていない、ように見える。和平はすぐそこ、と豪語した大統領は、各紛争地域に対し、解決手段を、講じているように見えるが、得意とする、交渉事も、個別でさえ、解決できない状況に、関係国の落胆は、隠せない。その他にも、火種は、数多あるようだ。
とは言え、遠く離れた国では、日常の瑣末事に、煩い程、文句が並び、囀りなどの社会媒体は、賑やかさを見せている。ただ、質はどうか、と眺めれば、的外れな指摘や、歪曲した根拠、更には、飛躍ばかりの論理と、議論の場に、相応しくない、妄言の数々が、並べられる。少しは、ましな議論を、とばかりに、正論を投げてみるが、腐った考えに、群がる蠅どもには、何の影響も、及ぼしそうにない。愉快犯、と断じるのも、無駄としか思えず、まずは、正論を突きつけ、どんな反応が、返ってくるかと、静観するものの、僅かな反応が、出てくるだけで、炎上さえ、しそうにない。個人攻撃が、突き付けられれば、また違った反応が、起きるのだろうが、その手法は、相手に合わせた、愚かさの極みでしかなく、媒体自体の、腐敗を招くだけだろう。では、どうしたら、まともな情報交換、まともな議論が、この場でなされるのか。まだ、答えは、見えてこない。こういう場の典型は、嘗ての2チャンネル、と呼ばれた場だったが、そこでも、良識が感じられる、遣り取りが、見えたこともあった。と言っても、おそらく、大衆の目には、届かぬもので、荒れたとしても、展開次第で、耕されることもある、と見えたことも、全体としては、欠片にも、感じられぬ程の、ものだったに違いない。その傾向が、更に強まった、多くの社会媒体は、誰も、制動をかけぬまま、暴走が続けられる。にも拘らず、多くが、好んで参加するのは、何故なのか。その点に、目を向ける必要が、あるのかも知れぬ。自浄作用は、始まる気配もなく、外圧が、功を奏するとは、思えぬ状況で、さて、何が、効果を及ぼせるか。それとも、大衆文化とは、所詮、そんなものに過ぎぬ、と見るべきだろうか。年の初めから、何とも情けない話だが。
朝刊の見出しに目がいき、記事を読んでみた。内容は、確かに、見出し通りだが、さて、その財宝を、預けたのは誰か、その点が、全く書かれていない。最近の報道は、こういうのが多い、と文句を並べてみても、何の役にも立たず、それこそ、一部は、囀るのだろう。
仕方なく、検索してみたら、何と、情報源は、ひと月前の記事のようだ。それ自体も、驚きなのだが、それから、一ヶ月も経つというのに、記事の内容は、増えるどころか、減っている。そこに、書かれていたのは、恐らく、嘗て栄光を誇った、国を治めた名家の末裔が、先の大戦で、略奪を繰り返した、独裁国家の魔の手から、逃れようとした、結果のようだった。興味深いのは、その後、国の形も大きく変わり、名家は、既に没落したことで、誰が、その財宝の権利を、持つのか、ということさえ、議論されている、という話だ。そんなことは、決まっている、と思うのは、素人考えらしく、最近は、どの国も、その財宝が、見つかった場所とか、関わった人間が居るとか、その他様々な要因を、持ち出して、権利主張を繰り返す。まさに、大航海時代や、植民地支配の時代に、勝手に持ち出した財宝に、返還の要求が、出されているのだ。確かに、大元の権利は、その通りに、存在するのだろうが、その後の歴史を辿れば、場合によっては、失われたに違いない、と思えることの、何と多いことか。まさに、宗教の問題から、ごく最近でも、異教徒の仕業と称して、徹底破壊に、勤しんだ場所も、数え切れぬ程にある。そんな事情が、見え隠れする中、いざ、世紀の大発見となると、この騒動が、例の如く、起きる訳だ。下々の者にとり、どうでもいいことだが、さて、どんな解決が、図られるのか。というより、どんな落とし所を、見つけるのか、といった方が、適切かもだ。年の瀬に、そんなことを、わざわざ取り上げる程に、この国の報道も、暇を持て余している、のだろうな。これで、今年も最後です。お世話になりました。来年もよろしく。
皆が、どう思うかは、知る由も無いが、独り言は、毎日、せっせと、考えて書いている。当然ながら、機械の助けに、頼ることもなく、その時その時に、思いついたことを、ただ綴るのみだ。一部の人の如く、日々の業務や勉学に追われ、文章作成は、機械任せ、などとはならぬ。
でも、その人達を含め、一部には、機械に任せた方が、遥かに良い文章が、書けるのでは、との意見がある。確かに、その人達にとり、自分で書いたものより、遥かに読み易く、内容も豊かなものが、機械に問い掛ければ、一瞬の後に、出てくる。だったら、そちらの方が、遥かにましでは、と言いたくなるのだろう。だが、それは、その人の勝手に過ぎず、他人にまで、その便利さを、押し付けるものではない。更に、分かり易い文の方が、読み手にとっても、有り難いものでは、というお節介な意見さえ、突き付けられる。これこそが、迷惑千万であり、劣化の一途を、辿る人々の、戯言に過ぎない、と思っている。確かに、簡単に理解できる、ということは、効率を最優先にする、時代には、最重要と思えるのだろうが、これこそが、劣化を早める悪行の典型、としか思えぬ。一読では、理解できぬものを、そのまま、投げ出すのは、以ての外だが、その努力を、惜しむことで、自身の思考能力を、低下させるかも、という疑いさえ、挟めなくなる、そんな生き方にこそ、最大の問題がある。相互理解を含め、目の前にあることを、理解した上で、それへの対応を、考えることは、思考活動において、非常に重要なこと、と見るべきだろう。にも拘らず、ただ面倒と考え、分かり易さに、飛び付いた挙句、何か面倒なことは、すぐに投げ出すという、最近の風潮には、こんな人々の、安易な考えが、強く影響している。その手間を、面倒と考えず、様々な方向から、考えることにより、問題解決の手段を、多く思い付くことが、実は、重要なのだ。それを、安易に走り、無駄と投げ捨て、効率を追求する。その結果、誰も何も思い付かず、解決の糸口さえ、見出せなくなったら、どうするのか。文句を並べるのは、簡単だろうが、それは、解決には結び付かない。
騒動が、始まってから、2年程経過したか。人工知能の存在は、ずっと以前から、注目されていたが、その時、現れたのは、生成人工知能、と呼ばれるものだった。何も無い所から、何かを産み出す、という仕組みだが、あらゆるものの作成に、応用できるとの話だった。何故、騒動なのか。
幾つか理由があるが、まず、警戒が強まったのは、教育界だろう。それまで、児童生徒学生を、対象として、何をどう覚えたか、何をどう考えるか、を問うことが、教育の基本、とされてきたのが、この仕組みの登場で、本人に代わって、人工知能が、作り出したものが、提出される、と懸念されたのだ。当初は、人間の成長と同じく、見栄えのしない、一目でそれと分かる、程度のものだったのが、いつの間にか、人間が作成したものと、見分けが付かぬ、と言われる程まで、成長してきた。これでは、対象者の学力を、推し量ることが、できないと言われ、本人が作成したかを、識別する手立てを、求める動きが、高まった。ただ、この対応法は、明らかな間違いで、本来なら、提出文の内容から、誰が作成したかを、判断せねばならぬ。それが、できないことこそが、深刻な問題であり、教える側の資質が、問われると見做される。それは、以前から、様々な情報源から、単に書き写すのみで、提出されたものを、どう見分けるか、という点と同じで、剽窃などを、問題視する動きが、誤った方に、進められたのと、同じと思われる。質の向上が、著しく思われるに従い、他の場でも、問題視する動きが、高まっている。公や私に、無関係に、この仕組みを使って、作成した文書が、次々に、出現するに従い、果たして、この動きは、歓迎すべきか、それぞれの場で、議論が始められている。単純に、禁止すべき、と定めてみても、安易に、代行に頼む人々は、ばれなければ、と身勝手な行動に出る。それを妨げるには、どうすればいいのか、戸惑う所だろう。でも、ここでも、同じ水準で、判断するしか、手立ては無い。要するに、人間の見破る力が、測られているのだ。さて、どうする。