世の中には、古今東西、何の区別も無く、絶対的な、安全・安心を、保証することは無い。ということは、皆承知している、と思い込んではいけない。何しろ、社会媒体が、これ程までに、浸透してくると、身勝手な発言を、端緒として、そこから、あり得ない話が、展開する。
何事にも、そんなことが、あるのが当然、と思っておけば、大抵の不規則発言にも、対応できる筈だが、それが、有識者、特に、ある学問を極めた、学者と呼ばれる人々から、発せられると、意見を出すことは勿論、反論するのは、憚られる、と言われている。その一方で、媒体の中には、全てを罵倒することに、悦びを感じる、人種が巣食っており、正論だろうが、誤謬だろうが、何もかも、全否定される。こんな世界では、深慮の上の意見も、浅慮の意見も、同等と見做され、看破される。いや、それは、明らかな誤りだろう、と思うことも、学問的に正しい意見も、同等に扱われる。そんなことは、無視したらいい、と思う人が、多いのだろうが、今の状況は、結構拗れている、と見えている。それはそれとして、例の発電方式について、一部の学識経験者から、猛反対が寄せられたのは、あれ程の事故で、命の危険を感じ、その上、事故後の処理に、要する経費が、莫大となったからだ。ただ、その論拠を眺めると、偏ったものでしかなく、彼らの専門分野にしか、目が向いていないことが、判明する。放射線の影響は、物理学、化学、生物学の各分野から、全体として、眺める必要があるが、それぞれの専門家は、他の分野に、目が向かぬまま、持論を展開する。結果、偏った結論が、導かれ、恐怖を感じている、庶民にとり、好都合と思える、意見が出てくる。特に、人間という、生き物を考えた時、事故直後の影響も、流布された説のように、展開することなく、大戦時の原爆の影響同様、理解不足からくる、妄言となってしまう。例えば、ここでも以前、書いたことがあるが、人間も、誰もが体内に、放射性物質を、保持しており、日々、被爆するし、隣に居る人間を、被曝させている。その中で、ある程度の健康を保ち、命を長らえている訳で、単純な仕組みではないことがわかる。そちらの危険性を、過大評価し、発電方式に反対するのは、全く別の要素からくる、利益を無視し、他の方式との比較も、できていないだけだ。何事も、できる限り、広範囲で見渡すことが、必要なのだと思う。
先日、再稼働、と書いていた頃には、既に、停止に向けての作業が、始まっていたようだ。企業体質、と書いたけれど、まさに、その懸念が、現実に、と見る向きも、あるだろう。その上で、だから、あの発電形式は、断念すべきだ、と結論づけようとする、動きは、高まりそうだ。
だが、問題は、そこには無い。安全な運転を、実現させる為に、制御や安全装置があり、それが、ある意味、作動したからこそ、暴走することなく、無事に元通りへと、作業が進められた。そこでも、またぞろ、水温上昇が、止まらなかったとか、大震災後の事故を、彷彿とさせる、文言が、囀りの中でも、踊っていたが、仮令、その数値が、正確な情報としても、その後に続く、悲観的な筋書きは、勝手な解釈によるもので、不正確極まりないものだった。何度も、こんなことが、繰り返されるのは、まさに、企業体質によるもので、異常を検知しても、その原因を、確認することなく、同じ過ちを、繰り返そうとする、何とも、理解不能なことが、行われたからだ。そんな組織に、こんなことを、任せるのは、如何なものか、との意見が、あるのも、ある意味当然だが、だからと言って、国を挙げて、あの発電形式を、放棄せよとするのは、愚かなことにしか、思えない。今度こそは、原因を、徹底究明し、それへの対策を、十分に検討した上で、実施することが、求められる。やったふり、は許される筈もなく、担当者の処分も含め、組織改革を、進める必要がある。その一方で、あの事故以来、初めての再起動で、運転に携わる社員にも、未経験者ばかりが、目立つという状況は、看過できない。まずは、退職者からでも、当時の経験を、有した人々を、呼び戻すなりして、未経験者の再教育も、再稼働の中で、行うべきと思う。老害と言われようとも、その類の継承が、抜け落ちたままでは、確かなことが、行えないだろう。何を、優先すべきか、考えるべき時と思う。
泡が弾けてからずっと、この国には、低い黒雲が、立ち込めている。そんな言いようが、したくなる程に、皆の意見は、悲観的であり、自分が、如何に、被害者の側に、居るのかを、主張し続ける。だが、日々の生活は、倹しくとも、過ごせている、のではないか。
そんなことを、書いていると、すぐに、今は何とかなるが、将来は、と返してくる。だが、それとて、どうかと思う。日々が、それなりに送れれば、自身の健康に、気を配れば、何とかなる、と思える。だが、収入を失った後の、老後の生活には、不安が付き纏う、となるのだ。先日も、あるお笑いタレントが、年金を受け取る年齢に、達することで、その額に驚いた、との報道が、スポーツ紙を中心に、あった。実名は挙げないが、皆が知る人物であり、ある劇団を、仲間と立ち上げた頃は、活動できる喜びだけで、生活は苦しかった、と言っていた。それが、ある頃から、売れ始めて、今の地位を築いた、と言われる。当初から、国民年金を納め、自身の事務所を、立ち上げてからは、厚生年金にも加入し、積み上げてきたのに、この額とは、と嘆いていた、と報じられた。確かに、国民年金は、最低限の納入額だから、貰えるように、なったとしても、少額となるのは、よく知られた所だ。でも、彼女の場合、劇団は、会社形態であり、40年以上前から、属していたのに、厚生年金には、加入していなかった。この辺りに、問題がありそうに、思う所だが、それとて、庶民的な振る舞いを、前面に出す中では、被害者的な、扱いとなるのだろう。結局、手取りは、大したことない、と断じるのだが、その実、今でも、多額の収入が、確保される中で、何をか言わんや、との反応が、当然と思える。黒雲は、依然として、青空を、見えぬものに、していると思うが、それは、この国の上ではなく、彼らの心の中に、あるものでは、と思う。皆で、悲劇を演じて、悲観に浸れば、確かに、仲間意識は、出来上がるのかもだが、そんな心持ちで、幸せな老後は、訪れる筈もない、のではないか。
再稼働の報道があった。ここを読んできた人は、もう気付いているだろうが、基本的には、あの発電方式には、反対していない。大震災後の津波で、起きた事故の深刻さに、多くの人々が、反対を唱えた時も、その論理に、全く賛同できなかった。絶対の安全は、無いのに、と。
それでも、廃炉に向けての準備は、遅々として進まず、嵩む経費は、膨らむばかりで、見合わぬもの、と見る向きは、依然として、多数派に思える。その中、政府は、再稼働を促進する方に、舵を切り、徐々にだが、稼働数も、増えてきた。だが、事故の当事者が、動かすとなると、様々な意見が、改めて出される。原因を、明らかにできず、補償も、不十分なままで、何故、暴挙に走るのか、とさえ言われるのだ。失敗の経験を、生かすなどという、ふざけた話は、通用しそうにない。だが、このまま、止めてしまえば、供給への不安は、膨らむばかりとなる。政府の後押しも、政局が不安化すれば、梯子を外され、孤立無援となりかねず、安心など、できる筈も無い。だが、その中、意を決して、再稼働したのは、様々な事情を、考慮した上で、今後の対策も含め、準備が整った、と判断したからだろう。反対派は、この方式そのものが、危険極まりない、とするばかりで、普段の運転での、安全性に関して、理解を示すつもりは、毛頭無い。科学とか論理とか、そんなものが、全く通用しない世界で、自分達の生活を、どう維持するのか、感情でしか考えないのでは、結論は出てこないのに。ただ、そうは言っても、好き勝手に、やればいいとは、決して思わない。企業の問題も、当然のことだが、あの発電所は、以前から、度々事故を起こし、原因不明とされたことが、多くあった。そこにきて、先日の点検で、警報が鳴らず、再稼働が、延期されたのは、またかと思わせる、ものだった。何しろ、稼働停止の前と、何も変わらなかったのだから、当時も、その仕組みが、動いておらず、事故が起きても、気付かぬまま、となりかねぬ状況だったのだ。これきりに、して欲しい、と願うばかりだが、体質だとしたら、次もある、かもだ。
囀りに書いた話題、第三弾。ここ数日の話題とも関連する。その書き出しは、前回も転載したが、次のようだった。気になる話題は、論文のピアレビュー、学会運営、学生指導、研究室運営、大学運営など、学問の世界も様変わりしつつあるが、その一方でSNS世界の歪みも。
三番目は学生指導。まずは講義だろうか。研究がやりたくて大学に残った人にとり、講義は難物なのだろう。あまり触れる人がいない。まず第一に講義の仕方を教えてくれる所が無い。だから文句の一つ二つを並べたくなるのかも。でも大学教育の中心をなすのは講義に違いない。では、何をどうしたら。答えは無いと思う。各担当者がその講義科目で何が大切で、どうすれば学生が習得できるか、工夫するしかない。当然だが、やる気のない学生を相手にする必要は無い。だが、今の時代、そんな連中にも何かしらを習得させ、単位を与える必要がある。理不尽そのものだが、何とかせねばならぬ。科目による違いもかなりある。数学系なら教科書通りに進めればいい。が、やり方は様々。解説中心か演習中心か。最近は演習、それも全員に取り組ませるのがいいのでは。他の理系科目も、教科書がある分野ならそれに沿って。ただ、これらは演習が殆ど無い。なので解説中心しかない。としても、評価を試験で行うか、レポートでやるかで、随分違う。試験は、中間期末の区別なく、課題を示し論述させるのが確実だ。採点は大変だが、暗記させるのは理解に繋がらぬ。論述なら教科書ノート持ち込み可か。判断し纏める力を測る。レポートは課題次第。最近は生成AI対策が必要か。でも、対策はどうだろうか。Xで書かれる様子は難しそうだ。だがそうとも限らぬ。課題の内容次第で、生成AIがそれらしい答えを示す場合もある。単純なものでは学生の実力は測れない。教員の実力が試される、のかもだ。でも、ものを書かせるという方式が大学以降の評価では基本となる。どんな科目でも基本は同じ、教える内容とともに評価方法に教員自身の工夫が反映される。講義、演習も、同じだろう。学生指導では学部なら卒業研究も含まれる。こちらは分野ごとの違いが大きく、一概には言えそうにない。理系であれば卒業研究で、実験を中心としたものとなる。ただ研究となれば研究室運営につながる。一方で講義で習うことについて、幾つか指摘しておく。教科書の内容は暗記するものでなく、理解するものが基本。その上で、何か知りたいことがあったらどの本に当たるのがいいのかを知っておくことが大切。適切な本を開けば適切な情報が手に入る。当然理解できねば役立たず。学習はその為のもの。
昨日取り上げた、催しに関して、どんな印象だろう。子供の数が、減り続ける中、行き先の空間が、そのままだとしたら、もう既に、全てが受け入れられる、と言われる時代に、わざわざ、面倒なことを、と思う人が居る一方で、いや、誰もが入れるにしても、厳選は必要、との意見も。
少なくとも、受け入れ側からは、選びたいとの声が、上がるに違いない。義務教育期間のように、選ばれること無く、全員が、同じ教育を受けられる、という制限があれば別だが、高等教育では、それぞれの素質を伸ばし、社会で活躍する為に、必要となる知識や知恵を、身に付けることが、要求されている。本来なら、義務教育でも、そういう目標を、設定する筈だが、現実には、全体を、一つの目標地点まで、到達させることが、役割のように、考えられており、それこそが、教育荒廃の元凶、と見る向きもある。多様性を、優先させるのなら、違うのは、当然のことであり、特に、最近問題視される、外国人児童の、教育についての、行き過ぎとしか、思えない対処には、異論が噴出している。どの児童、生徒にとっても、ある程度の、最低限の到達点を、設定することが、必要としても、全員が同じ水準に、とする、今の目標設定は、無理や無駄としか、思えないからだ。さて、高等教育の入り口で、全てではないにしろ、多くが、同じ試験により、優劣を判定し、合否を決定する仕組みは、妥当なのか。そんな疑問を、出す人も居るが、どうも、焦点が定まらず、主張も、二転三転する。少なくとも、資格試験の一種として、実施することは、構わぬと思うが、どうか。その上で、現行の試験が、受験生に対し、何を求め、何を基準に、優劣を決めているのか、妥当なのか、という問いには、答えるのが難しい。習ったことを、確かめている、とする向きには、まさに、その通りと思うが、優劣を決められる側には、不平不満が、あるようにも聞く。ただ、次の段階に入って、何をどう学ぶのか、という問題を、論じることなく、その場の判定のみに、目を向けるのは、明らかな過ちとなる。それだけは、注意すべきかも、だ。
この時期、毎年恒例の、と言ったら、何を思い浮かべるか。毎年、忘れないとされ、悲惨な光景が、次々と映し出される、大震災を、思い起こすか。これも既に、30年を経ているが、それより長い、恒例の出来事は、若者達に、圧迫感を、与えるものの代表として、知られる。
まもなく、半世紀を迎える、全国的な催しは、大学入学の為の、最低限の知識を、問うものと言われる。それまでは、国立大学が、二つの群に分けられ、異なる日程で、入試が実施されたが、この導入を機に、別の方式が、始められた。全ての大学が、複数回の入試を、実施するものとされ、機会均等や、機会を増やす、と言われたものだ。現実には、掛け声とは異なり、それぞれに、独自の方式が、導入された。推薦入試も、その一つであり、国立大学ならば、一発勝負の入試で、といった感覚とは、明らかに異なる方法で、青田買いを、始めた所もある。ただ、早めに確保しても、合格した人間が、期待に応える、とは限らず、合格から入学までの、怠惰の結果、回復不能な痛手を、負う人間も、出てくるものだ。教育には、絶対的な手法が、無いということが、実感される。さて、名称を変えた共通テストも、五回を超えて、実施されており、問題作成にも、新たな工夫が、導入されつつある、と聞く。毎年、新聞に掲載される、出題を、試しに解いてみる、という人も、居るに違いない。だが、今年は、明らかな違いが、起きた。翌朝に届いた、新聞には、解答が、示されるのみで、問題が、見当たらないのだ。現場でも、関係者に対し、不用意な公開発言を、避けるように、との注意が出された、との報道もあり、何か、それと関係することか、と思ったが、現実には、経済紙では、電子版での周知、となったようだ。印刷媒体は、かなりの経費が、かかるからだろう。こんな所にも、何かしらの圧力が、かかるものか、と思った。さて、そんな中、解いてみた人は、どの位居るのか。