教育に携わる人々が、教育の力を、評価するのは、当然のことだ。ただ、だからと言って、その力を、過大評価したり、誤った理解をしたり、するのは如何なものか。昨日の話は、まさにその点に関わる。教えられる、との言葉に対する、理解に対して、疑問が残ったからだ。
教えられるとは、担当した教科について、同じ試験を受けた時に、良い成績を収められる、とする考えは、知識の豊かさを、示すと思われるが、実は、的外れだと思う。この試験は、生徒向けのもので、特に、記憶を計るものの場合、その年齢特有の、状況を見極めるものとなる。明らかに、年齢が異なり、記憶力、それも丸暗記と呼ばれる、を試すものだと、年齢を重ねる度に、不利になる訳で、何を比べたいのか、とさえ思えてくる。また、教え込むとの考えも、この辺りでは、よく聞かれるが、間違ったもの、と思う。教育とは、教え育むこと、と言われるのに、何故、強制的に、理解させようとするのか、全く理解できない。こんな連中が、教育界に溢れており、間違った認識が、定着したことが、現状に結び付いたようだが、そろそろ、その間違いを、厳しく指摘すべき、と思うのだ。育むには、見守るとの意味が、込められており、ただ強いるものではなく、本人達が、自分から、興味を抱き、理解を深めることを、意味すると考える。そう考えれば、教えることは、そこに示された事柄を、説明することで、誘うようなもので、事細かに、教え込むこと、ではないと気付ける。ところが、教育の力を、誇示しようとする人の多くは、それを捻じ曲げて、どれだけ、成績を伸ばし、どんな成果を、上げられたかを、競うようになる。当然、優位性を保つには、同じ試験でも、好成績を上げる、必要がある、となる訳だ。まあ、そう考えるのも、人それぞれの、勝手なことと見れば、それだけのことだが、他人にまで、押し付ける態度では、困りものとなる。もっと、気楽に、相手次第と考え、案内人程度の役割、と考えれば、教えることも、難しくないと思う。
最近の囀りの話題を、一つ。教員免許の話は、いつ頃だったか、免許更新について、色々と物議を醸した。監督官庁の言い分は、教科書の内容が、更新される中、教える側の資質が、十分かを、確かめる為とか。それだけでは、ないのだろうが、兎に角、厳しい目が向く。
結局、その制度自体が、今は消滅し、現場での騒動だけでなく、更新の為の、講習会などを、負担した大学も、肩の荷を下ろした、と言われる。その関係ではないが、免許は、教える科目を、特定しており、それについて、話題となった。昔は、社会科と呼ばれた、数科目も、今も、理科と呼ばれる、数科目も、取得した教員は、それら全てを、教えられることが、必要となる。理科では、物理、化学、生物、地学の4科目が、それに当たるが、現役教師が、それら全てを、教えられるか、との問いを投げかけた。反応は鈍く、大した数ではないが、全てが、投げかけた本人も含め、教えられない、との回答だった。これでは、看板に偽りが、となってしまう。こちらは、規定通りに、教えられる筈、と返したのだが、当人は、自信が無いとの返答。それ以前に、できぬと答えた人間は、担当科目以外には、試験での点数が、取れないと書く。確かに、教える者、全てを正答せねば、教師失格とでも、言いたいのだろう。だが、この考えは、明らかな誤りだ。教える人間が、教える内容全てを、完全に理解し、記憶している、との考えは、彼らが、雁字搦めに、縛られている、思い込みに、基づくものだが、そんな必要は、全く無いし、そんなことに、意味がある筈も無い。高校生に、課された試験は、彼らを対象としたものであり、教える側が、同じ条件で、それに正しく答えられる、必要などある筈もない。この思い込みが、生徒を縛り付け、萎縮させることも、こういう発言者は、気付いていないだろう。教科書の内容を、正しく理解し、説明することこそが、教師に課された役割で、それに対して、どう学び取るかは、生徒に課された役割だ。その中で、試験は、その程度を測る手段で、それ以外の目的は無い。こんな誤解を、相手にしつつ、こちらの主張を、通すことは、容易ではない。兎に角、頭の固い連中では、説得さえも、困難となる。
海の向こうの暴君ぶりに、手が付けられぬ、との思いからか、別の暴君に、近寄る素振りには、政治家達の不見識を、見る思いがする。ただ、どれもこれも、無軌道には違いなく、このまま、不穏な時代に、突入するのでは、との思いが過ぎるのも、無理ないことと思う。
ただ、最初の暴君も、苦手なものが、あるようだ。経済状況に、不穏な動きが、見られた途端に、過激発言を控え、交渉に応じる姿勢を、突然見せ始める。ただ、喉元過ぎれば、という性癖が、克服できる筈も無く、付き合うのは、無駄と思う。経済への見識は、おそらく、自身の会社経営の、範囲内しかなく、ばれなければ、嘘も方便という、経営方針が、国の運営にさえ、通用すると信じる。これが、暴走を招くこともあり、そこから先は、迷走の連鎖が、起きるだけに、依然として、注意が必要だろう。その一方、財政に関しての副官は、過去の業績から、高く評価されており、暴君の逆鱗に、触れることは、今の所ない。ただ、だからといって、あの国の経済が、安定するかは、怪しいものに思える。今回の為替の動きは、その表れの一つ、と言われているが、その端緒が、何だったかについて、明らかになることは、なさそうだ。それは、直接の介入が、あった訳ではなく、所謂、口先だけの介入、だったと噂されるからだ。あれ程、政府が、直接的に介入するのは、禁忌事項だ、と主張してきたのに、レートがどうこう、などと噂され、介入の可能性が、取り沙汰される。そこに、当人から、レート操作の可能性さえ、否定する発言が、との話があったが、どうだろうか。所詮、経済の動きは、これに限らず、心理的なものでしかなく、分析がなされても、後付けの理由ばかりで、ほぼ役立たずに終わる。どんなに優秀でも、どんなに敏腕でも、想定外のことは、起きるものと、見ておく方が、無難というもの。となれば、人より先に、と考えるより、様子がはっきりした、その後で動くのが、一般の投資家の心得、となるのだろう。全体としては、堅調な株式相場、選挙後も、続くのだろうか。
ここ数ヶ月、囀りに口を出している。それも、自分だけで、書き綴るのではなく、他人が、書き込んだものに、口を出すのだ。発言者にとり、ただの迷惑、と思える場合も、多いに違いない。特に、勝手な意見を、叫ぶだけの人には、他人の口出しなぞ、迷惑千万なのだ。
と、思うこともあり、以前は、何かを感じても、知らぬふりを続けた。その代わりに、一般論として、囀りでの意見交換や、時に罵り合いとなる、不思議な光景に関して、評論を書くのが、独り言の場での、一つの活動だった。でも、とある日、ふと考えて、まずは、相手をしてみたら、どうなるだろう、となったのだ。その結果、色々と、意見を書くようになった。それも、最初の発言者が、何かしらの思いから、書き綴ったことへの、反応の一つとして、書いてみようと思ったのだ。結果、何が起きたか。ある意味、正論を綴れば、一部とはいえ、「いいね」をつける人が、登場してくる。懸念した程、反論は綴られず、反対するなら、無視するとの選択が、行われたようにも見える。そんなことを、毎朝、数回繰り返してくると、時に、面白い反応も、出てくるようになる。こちらは、全く客観的に、何方にも偏らぬ、意見を書くだけだが、その結果として、自分を応援している、と感じる人が、出てくるのだ。ある意味、不思議な感覚に、囚われる。実世界では、そんなことをしても、嫌な顔で、知らぬふりを、するだけなのに、何故か、仮想世界の方が、素直な反応が、出ているように、見えてくる。何がどう違うのか、すぐには、思いつかないが、ネットの掲示板の頃から、相手をしてきた経験からは、何かに変化が起きている、と思える。参加者が、以前と比べたら、比較にならぬ程まで、増えた結果として、この世界に、参加する人の、心持ちにも、変化が起きた、のかも知れぬ。何れにしても、何かしらの作用が、あるのであれば、幸いと思う。少なくとも、現時点までは、炎上は起きていない、幸いにも。
第四弾と行こう。気になる話題は、論文のピアレビュー、学会運営、学生指導、研究室運営、大学運営など、学問の世界も様変わりしつつあるが、その一方でSNS世界の歪みも。となり、次の話題は、研究室運営について、当然、学生との関わりも、出てくる中で。
理系学部では学生指導と直接結びつく部分がある。でも、業績のみを考えれば学生の関与の有無は必ずしも研究室運営とは無関係だろう。今、一番の問題は研究費の獲得だ。選択と集中の掛け声の下、特に大学では全体への予算を削減し、必要な者は自分自身で稼ぐこと、と言われてから40年以上経過した。現役の教員はそれが当然と思うだろうが、以前はある程度の予算が確保されていた。それがつい最近は物価高騰の中、予算減が続いた結果ほぼゼロとなった、と言われる。これでは科研費をはじめとした競争的資金獲得が絶対条件となる。苦しいに違いない。驚くべきは卒業研究の経費さえ無くなったことで、教育の観点からは明らかな間違いとなる。そうは言っても無い袖は振れず、最新機器や技術を要する実験研究は断念せざるを得ない。更に、状況を悪化させるのは共通機器もそれらの維持管理ができないことで、厳しい環境となる。だが、業績は研究主体とされ、特に任期制の教員は特別な支援なしには研究継続だけでなく、立場の確保さえ難しい。政策転換を望むのは、特に選択と集中という馬鹿げたものから少額でも満遍なく支援する体制を築くべき、という点だ。国立大学に限れば、おそらく年百万円の研究費を各教員に配付するとして、これまで20年間で減額した運営費交付金の一部を戻せば、可能となる程度の予算と思える。ここからまず始めるべきだ。この話は40年前にも触れたが、ここに至って限界を超えているから、即断の必要がある。任期制の導入で、停滞する教員が減っているだろうから、40年前の懸念は当たらない。こうしたとして、それらの額で収まる研究はそのままで、更なる予算が必要ならば科研費等で、と考えるべきだ。既に、多くの大学では自己評価制度が採り入れられ、組織の評価も実施されている。その中で、研究業績が上がらねば、教育への転換を図れば、いいのではないか。予算のことだけに見えるかもしれないが、その点を整備した上で人材活用の手段を考えればいい、と思う。確かに、高額の予算を必要とする研究も存在するが、底上げを狙う方法が、これまでの歴史でも取られてきただけに、もう一度そういった考えを当てはめては、と思う。
啓蒙を考えると、やはり、教育の重要性に、目が向くし、教育の意義にも、考えを巡らす必要が、出てくると思う。教育について、何度も書いてきたが、依然として、的外れな意見が多く、それも、関係者からのものが、目立つように思う。それこそが、危機状況を、表すものかもだが。
例えば、先生たるもの、教える科目の、専門家でなければ、ならないとの意見がある。それも、小中高の、学校に在学した当時、出来が良くなければ、教わる意味がない、との極論さえ聞かれる。出来のいい生徒だった人間が、果たして、上手く教えられるか、という点も気になるが、何故、生徒や親達が、そう望むのか、理解に苦しむ。確かに、その教師と、同じ点数が取れれば、いい大学に、進学できるかもだが、そうなる保証は、全く無い。それどころか、今、分からぬ点が、克服できぬ限り、先が見えないのに、何故、そんな高みを目指すのか。これもまた、不思議の一つである。一方、教える側の無理解は、相当なものとも見える。先日も、囀りで、学ぶことの意義が、世に溢れる嘘を、見抜けるように、との話が、流布されるのに対し、異論を唱える人が居たが、賛同を示すのも、同じ類の人間かと見えた。つまり、元々、何かを学ぼうとか、何かを知ろうとか、そんな姿勢を、強く示す人間で、向上心やら探究心が、旺盛であることを、自負する人々なのだ。だが、ここで、問題とされる、学ぼうとしない子供や大人の大部分は、そんな気は、毛頭無い上に、様々な嘘に、騙され続けて、被害を受けるだけでなく、周囲に、迷惑を及ぼしている。そこに、目を向けて、学ぶことの大切さを、伝えようとする掛け声に、正論をぶつけている、といった感がある。何方の場合も、自分しか見えず、他人に目を向け、全体を整える、という姿勢に、欠けているのでは、と思う。どうだろうか。
専門家とて、信用できぬ、という話をしたが、同様のことが、囀りで、取り上げられていた。度々、画面に登場したり、誌面を賑わす、大学教員や専門家が、専門外のことにまで、口を出して、間違いを繰り返し、無知無能ぶりを、発揮している、と盛んに、批判されている。
脳科学者だろうが、人権専門家だろうが、果ては、経済やら何やら、何でもござれ、といった感がする程、何事にも、一家言ある、とばかり喋りまくる。それに対して、俄評論家の如く、囀りまくるのも、同類かと思える。何れにしても、専門外のことに、首を突っ込むのは、大抵にした方が、無難というものだ。発電方式についても、その原理そのものには、理解があるものの、いざ、制御の方法や、放射線の生物への影響、となると、怪しげな言動を、繰り返すのは、止めて欲しい、と願う。それに比べれば、あの事故の直後に、出版された本で、物理学を専攻した人間が、盛んに的外れな指摘を、繰り返したのに対し、哲学を専門とする人間が、俄仕込みとはいえ、情報を掻き集めて、見解を出した姿勢の方が、遥かに高い評価となる。何方にしても、正解に到達した訳では、ないとはいえ、一方が、庶民の味方を、演じようとしたのに対し、もう一方は、批判の矢を、受けたに違いないからだ。専門家達が、政府の回し者やら、村の人間やら、罵声を浴びせられ、正確な情報を、説明しようとしても、誰も相手にしない中、非専門家だからこそ、耳を傾けた人も、居たのではないか。その意味で、あの態度は、非常事態の中で、自分ができることは、と苦慮する中で、出した答えだった、と思う。依然として、誤解ばかりが、世に蔓延するが、啓蒙活動という言葉も、その意味であり、道理が通じない、という意味の言葉に対し、それを啓くという、知識を与えて教え導く、という意味の言葉が、付いたことの意味を、考えるべきだろう。だが、道理が通じない大衆は、懲りることなく、過ちを繰り返し、それを、正当化する為に、社会媒体という集いで、叫んでいる、と見ることもできる。ただ、その中でも、啓蒙は、必要なことと見做し、続ける必要がある。