パンチの独り言

(2026年2月9日〜2月15日)
(選挙運動、前触れ、追い返す、第一主義、島国根性、備え、夢と散る)



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2月15日(日)−夢と散る

 老後の生活、についても、悲惨な話ばかりで、何の楽しみも無い、と思う人が、多いのではないか。だが、暫く前までは、積み立てた年金を、受給して、物価の安い海外で、悠々自適の生活を、などという話が、実しやかに語られた。それが、どこで、狂ってしまったのか。
 今や、あの当時に、物価が安い、と呼ばれた国々も、給与水準が、高まるにつれて、あっという間に、物の価格も、上昇していった。一番の決め手は、住居費だろう。老後に海外で、と思い描いた人の多くは、特に、不動産購入を、考えた訳でもなく、単純に、賃貸で十分、と言われていた。だが、今や、それも、怪しげな雰囲気が、漂っている。それに加え、食費なども、こちらとの差が、あっという間に、埋まってしまったから、悲惨な話が、そのまま当てはまり、結局は、悠々自適どころか、無理して移住しても、安定した生活も、誰もが望む、安全・安心さえ、手に入らない、となってしまった。何処で、歯車が狂ったのか。すぐには、見えてこない。敢えて言えば、例の如くの、泡が弾けた後の、30年を超える、停滞の時代、あるいは、閉塞感に満ちた時代が、結果的に、こんな事態に、陥る原因、となったとなる。だが、これ自体、問題なのだろうか。確かに、二ヶ月に一度届く、年金の額は、人によっては、少ないものとなる。だが、元々の仕組みからすれば、年金制度が、適用される範囲は、それぞれに異なり、その受給額の多寡は、各人が置かれた環境に、見合ったものとなる。まあ、今となっては、資産運用が、不可欠などと言われるが、自営業などであれば、それを次の世代に、引き継ぐことで、自分自身の生活も、安定させることが、できる筈との見込みだった。その点に関して、どうなっているのか、改めて、見渡してみる必要が、あるのではないか。海外などと、分不相応な話を、するよりも、そちらに目を向けては、と思う。当たり前と思えるが、今の狂った世間は、そうは思わぬらしい。やれやれ。

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2月14日(土)−備え

 囀りは、不平不満を、ぶちまける場、と思っている人が居る。特に、権力への文句は、所謂、左翼の得意とする所、などと言われ、根も葉も無いことを、書き並べるのには、辟易とする。人間性さえ、疑われるのでは、などと思ったりするが、当人達は、悦に入っているようだ。
 その一方で、誰もが、気になる所は、老後の生活だろう。年金のみの生活では、成り立たないとなり、資産運用を、真剣に考えねば、との話が、実しやかに語られると、税制の問題にも、注目が集まる。だが、肝心の年金制度は、文句は並ぶが、理解不足が否めぬ。今の受給者の大半は、納付が義務ではなく、就職後に、納め始めた人が大部分だ。義務化された時期は、重要事項と称するものに、見ることができる。何と、学生の加入が、強制となったのは、1991年からだ。その後、2007年に、機構法が成立すると、そこで混乱が起きた。国民、厚生、共済などに、分かれていたものを、一括管理しようとの動きが、記録の喪失を、招いたからで、その後、記録の点検、と称する知らせが、届くこととなった。転職を、繰り返した人にとり、この一括記録管理は、歓迎すべきものだったが、当初のドタバタが、逆の印象を与えてしまった。管理側からは、当初の目論見と、大きく異なる実情が、明らかとなり、資格を有しない人が、多数発見されたのだろう。実は、国際化以前から、海外で働く人は、多数おり、彼らの殆どは、現地の年金制度に、加入したが、一方で、義務化以前の、こちらの年金は、納付せずの状況が続いた。結果として、国内、海外双方共、資格を得られず、との事態が起きた訳で、解決を図る為に、二国間協定が結ばれた。現在は、相手国の数も、徐々に増しており、全体の仕組みも、整備されつつある。と言っても、結局、漏れが無くなっただけで、生活費を、全て賄えるとは、限らない状態だろう。お国頼みだけでなく、自身で、資産運用を、行うことが、今の時代には、不可欠となる。文句を並べ、批判するだけでは、何も起こせない。

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2月13日(金)−島国根性

 世の中には、自分の不幸を、さも大ごとの如く、時に、自慢げに、話す人々が居る。国を挙げて、不幸や悲惨を、殊更に取り上げるから、こういう人は、まるで、自分に、注目が集まる、と思い込むようだが、現実には、全く違う。単に、自分より不幸な人間を、見つけたいだけだ。
 それと共に、これらの人々の多くは、他人が、あれこれ、批判や文句を並べると、必ずと言っていい程、自分の体験であり、相手は、体験もないのに、そんなことを、言う資格は無い、と断じる。まあ、人の勝手、に過ぎないことだが、この風潮が、目に余る程、となると、どうしたものか、と思えてくる。なのに、排他主義、排斥主義の人々は、自分達が、外国人、になった経験は、殆どが無い。にも拘らず、今、自分達が、受けている、不幸な扱いを、投げ返そうと、躍起になっている。別に、これを、差別とは思わないが、差別的な扱いを、受けたことの無い人間が、何を偉そうに、と思ったりはする。一事が万事、この調子なのだが、視野の狭さと、不寛容は、やはり、島国根性から、来るのだろうか。以前なら、そんな片付け方が、手っ取り早かったのだが、最近は、そうもいかぬ。海の向こうの、移民で成り立っていた、先進国は、門戸を閉ざそうと、出鱈目を繰り返すし、彼らの多くの、先祖が旅立った、として、懐かしく思い描いてきた、あの国々も、大量に押し寄せる、難民と呼ばれる、身勝手な人々の扱いに、窮した挙句、排斥運動が、盛んとなってしまった。島国であるか、他国から離れているか、などの要因は、もう無関係であり、単に、人々の心の奥底に、巣食っている、他人を差別し、自分さえ良ければ、と願う、利己主義が、表面化しただけ、なのだろう。だとしたら、社会性の動物、と言われてきた、ヒトについても、利己主義が、当然のものであり、遺伝子が、そうさせているかは、知る術もないが、利他主義などという、戯言は、無意味なもの、となってしまうのか。自分を、第一に考えずして、他人のことは、出来る筈も無い、との考えからすれば、利己的なことは、否定できる訳も無いが、自分を良くして、次に他人を、という筋道は、やはり、残していかねば、と思う。

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2月12日(木)−第一主義

 改めて、外国人を排斥する、と書くと、それは違う、と思う人も、居るのではないか。排他主義ではなく、愛国主義であり、自分の国を、第一に考える、という意味だと。それなら、改めて、問うてみたら、どうだろう。国を愛する為に、外国人の扱いは、どうなるのか、と。
 こんな遣り取りを、敢えて行う必要が、あるのか。こんな形で、食い下がられると、途端に、面倒になる、人も居るだろう。その通り、この手の意見の殆どは、単に、自分の生活が、平穏無事であれば、と願うことから、始められている。国全体に、どんな人が、住んでいようが、自分が、豊かで安心できる生活を、送ることさえできれば、それで満足なのだ。他人のこと、国のことなど、ある意味、どうでもいいに違いない。それは、海の向こうも、同じ状況であり、自分が、働く場所が、無くなってしまい、収入が断たれた上に、将来への不安が、膨らむばかりとなり、それを、殊更に強調し、それが、移民や外国の責任だ、と断じることで、人気を得た、大統領が、返り咲いたのが、今の状況だろう。その過程で、彼が示した、約束の大部分は、依然として、果たされぬこととなり、別の不安が、膨らみ始めた。一方で、こちらはどうか。硝子の天井が、有ったか否かは、判らぬままに、宰相に就いた女性は、他国の例と同様に、人気を博した結果、大勝利を得た、と言われる。だが、不安の種火は、燻ったままで、煩い連中は、喧しくがなり立てる。どうなるかは、誰にも解らぬものだが、それにしても、相場は、上昇を続け、このまま、庶民の収入が、増え始めれば、ある安定状態を、迎えるかも知れぬ。で、排他主義だ。今の流れでは、外国人頼みを、盲目的に継続することは、起きそうに無いものの、だからと言って、排斥まで及ぶかは、見えていない。極端な物言いは、一種の流行病のように、広がっているものの、無根拠の主張は、早晩、自滅しそうで、どこかに、均衡を、見つけそうに思う。ただ、それが、どちらに傾いた結果となるかは、見えていないのが、現状なのだ。口は災いの元、気をつけねば。

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2月11日(水)−追い返す

 排他主義が、蔓延ってしまった、ように見える。選挙結果も、その延長線上か、と思える部分があり、首を傾げたくなる。だが、そんな考えは、少数派なのだろう。自分が、不幸だと考え、それを、他人のせいにし、その結果として、今は、外国人排斥が、先頭を切る。
 だが、そんな心持ちは、ずっと昔から、あった。島国根性、とも呼ばれる心情が、現れたものの一つに、村八分、という考えがある。今なら、仲間外れ、と呼ばれるものだが、何かしらの違いを、見つけた時に、それを、殊更に強調し、違いを元にして、排除に繋げる、という考え方だ。仲間だった人を、追い出す為に、あれこれと、理由を見つけ出し、それが、如何に重要なものかを、強調することで、目的を達成する。国を挙げて、そんなことを、やり始めた、と思えるのは、移民頼みで、発展を続けてきた、海の向こうの国で、だからこそ、移民排斥の政策に、驚いた人も多く、今も、その混乱が、国内各地で、発生している。それを、対岸の火事、と捉えるか、はたまた、同じ事情と、判断するかは、今後の、この国の行く末を、定めていくもの、と見ることもできるが、さて、どうなることか。これまでも、少し書いてきたが、外国人労働者頼みの、政策に関しては、疑義を感じる。海の向こうの発展は、実は、安価な労働力として、移民頼みを、続けてきたが、それが、肝心の働く場を、奪うことに繋がった、との解釈が、大統領自らが、下したことで、大きく、方針転換が図られた。だが、安価な労働力は、また、劣悪な労働環境とも、結び付いてきた訳で、それを、豊かな生活を、望み続けた自国民が、喜んで引き継ぐとも思えぬ。この状況は、こちらでも、同じと見做されるが、大きな違いは、まだ、多くの労働が、奪われたのではなく、単に、面倒で、劣悪なものを、回したいと願う、身勝手な人々の、考えを反映しただけだ。一方で、様々な事情から、働けないとされる、人々の扱いには、まだ、答えが出てなく、そこから手をつけたら、とも思う。そちらに、目を向けるより先に、排他主義へと、舵を切るのは、如何にも、愚かに思えるが、さて、どうなるか。暫く、様子見が、続くことになるのか。

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2月10日(火)−前触れ

 選挙結果を受けて、相場は、最高値更新を、続けている。株式市場は、将来を見込んだ、動きを示す、と盛んに言われるが、果たして、この動きは、何を期待したものか。一方で、悲観的な筋書きを、好む人々は、今、沈黙の場面に、入っているのか。はたまた、礫の準備か。
 一つだけ、言えることは、相場が上げても、庶民の生活は、楽にならない、となる話だ。朝三暮四を、思い起こせば、今この時に、手にできる金の、多寡によって、感想を言う人々に、将来を見込んで、上げ続ける相場は、何の意味も為さない。だが、景気が上向けば、それぞれの収入も、それに従って、上がることになり、今年の末には、全く異なる数字が、給与票に、記されているかも知れぬ。そんな先のことに、興味が無い、と言い続ける人々も、一方では、老後の不安を、抱き続け、それについても、文句を並べる。目の前と、ずっと先、ある意味で、全く異なる光景を、思い浮かべつつ、不平不満を、並べているが、その本心は、何処にあるのか。こんなことに、いちいち相手をしていては、政は、進められぬもの、と見るのは当然だ。だが、目の前の人参を、ぶら下げてやらねば、票を獲得できない、となれば、やはり、減税との一言が、決め手となったのだろう。それも、横並びとなれば、政権を握った人間が、有利となるのは、必然だろう。結果が出て、それに合わせたかの如く、相場は、上向きの調子を、維持したままとなる。それも、連日で、かなりの上げを示すから、どうなったのか、という心配と、どうなるのか、という不安が、過ぎるのも、致し方の無い所だ。とはいえ、まずは、閉塞感しか、抱けなかった時代と違い、好転しつつある中、自分達が、考えるべきことを、各人が、果たすことが、第一ではないか。確かに、まだ、不安が残るのは、当然なのだが、それを言い募っても、何にもならない。自分がすべきことを、するのが、第一であり、その結果を、眺めるのが、次に来ることだ。不平不満や文句は、何の足しにもならぬ。動いてみたら、どうか。

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2月9日(月)−選挙運動

 選挙の結果には、触れないでおこう。無駄とは言わぬが、何だか、この動きに関して、熟慮の末、とは思えぬ節がある。でも、その一方で、先日取り上げたような、有名な人々が、囀りで、盛んに訴えたことは、水泡と化したようだ。論理とか、理念とか、盛んに言われたが。
 今回、書いておきたいのは、選挙のやり方、に関してだ。以前は、選挙が始まると、街中に、騒音が溢れ、何をどう訴えているのかは、全く伝わらないのに、ただただ、当選させて、との訴えばかりが、耳に響いていた。それに比べれば、ずっとましなのかもだが、それにしても、あらゆる媒体を用いて、皆に伝えたいことは、何なのかについては、依然として、明確にならぬまま、のように見える。どんな媒体を、用いようとも、何を伝えたいかを、明確に書かねば、伝わる筈も無いし、その一方で、一度訴えたことでも、約束を反故にすれば、何のことか、となってしまう。問題は、その伝え方ではなく、媒体の使い方、とでも言おうか、その辺りに、まだ、強い違和感と、強い抵抗を、覚えているのだ。社会媒体が、登場するまでは、と言うより、それを、選挙に用いることが、認められる前は、街頭での、騒音としか思えぬ、車から発せられる、連呼と、何処かの会場で、開かれる、演説会しか、無かったように思う。それでも、新聞折込で、候補者全員が、書き連ねた、主張やら、テレビで流される、録画やらが、あるではないか、という意見も、出てくるだろう。でも、誰が、どれ程の興味を、抱いているのか、という点からは、取るに足らず、と言いたくなる。そこに、登場したのが、社会媒体なのではないか。それ自体は、些細なもの、と見る向きもあるが、今や、多くの人が、手にした端末で、情報の送受信を行う。その上、時と場合によるが、何度も表示され、決められた時しか、発信されないものとは、大きく異なる、優位性を示すように思える。でも、内容を含め、誰がどう、判断しているのかは、不明確なままだ。電子メールは、いけないが、社会媒体であれば、という点も、今一つ理解に苦しむ。皆さん、どう思いますか。

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