パンチの独り言

(2026年2月16日〜2月22日)
(悪の巣窟、教育とは、邪魔者、誘い水、無い知恵、非論理的、論理的)



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2月22日(日)−論理的

 論説文を、書いてみては、と言ってみたが、どう感じたろうか。普段から、囀りの中で、書き殴るだけの人には、違いなぞ、どうでもいいことだろう。一般的には、特定のテーマに対し、自分の意見や主張を、論理的に展開することで、読み手の納得を、促すものとある。
 そう考えると、果たして、書き殴ったものは、相手の納得を、得ただろうか。身勝手な主張を、ただ繰り返し、理解が得られなければ、無視したり、罵倒したりする、そんな行動は、この解釈からは、大きく逸脱したものだ。文章の構成についても、論じられる場合が、あるのだけれど、それについては、定型がある訳でなく、自由が許される。しかし、論理的に、という部分については、それが欠ければ、万人の納得が、得られる筈も無く、結果として、言い放っただけ、放言となるだけ、のこととなる。そういう意味で、自身の文章に、責任を負う為にも、論理性を重視し、通じるものを、書く習慣をつけて欲しい。その表れの一つとして、論説文がある、という訳だ。ただ、書きなさい、と言うだけでは、現時点で、その能力が、備わっていない人には、何処から、手をつけたらいいのか、何から、始めたらいいのか、判断がつかない。よく言われるのは、そういった文章を、読んでみることから、始めるべき、という点だろう。その意味では、囀りに、入り浸って、議論らしきものを、展開するだけでは、とても及ばぬこととなる。まずは、休みを入れて、書籍なり、そう言った文章が、掲げられた所に、接続する習慣を、身に付けるべきだろう。まだ、時間は、たっぷりある人が、多いと思うから、まずは、そのあたりから、手を付けてはどうか。そうして初めて、何かしら、感じる所が、出てくれば、しめたものだろう。ただ、その為には、日々の言い争いからは、暫く遠ざかり、ゆったりと、構える必要がある。気持ちの問題だが、将来を考えたら、重要な決断と思う。ただ、それを身に付けたら、何か、得になることが、ある訳ではない。上手くいけば、仕事に使えるかも、とは言えるのだが。

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2月21日(土)−非論理的

 母語で、高等教育を受けられることが、如何に重要か、ここでも、何度か取り上げてきた。だが、本質的な理解は、浸透していない。先日も、囀りで、少し書いてみたが、「いいね」を、届ける人の多くは、何がどう重要か、本当の所は、理解しておらず、単に、便利だ、位に思っている。
 何が重要なのか。一つ、挙げるとすれば、論理構築において、母語で行えば、かなり深い所まで、思考した上で、築き上げることが、できるという点だ。学問を、行う上では、勿論のことだが、普段の生活でも、何が大切で、何を優先するか、について、考え抜くことができる。ただ漫然と、日々過ごすのであれば、何の必要も、感じないことだが、大事な決断や、進むべき方向の決定には、本来ならば、こういう思考回路が、必要となる。ただ、多くの人々は、そんな習慣は無く、他人の意見にも、ただ文句を並べるだけ、となっている。その典型が、囀りであり、社会媒体なのだ。だから、ああいう場での議論は、薄っぺらなもので、本質的な理解を、促すものとはならず、不平不満を、書き連ねるだけで、建設的な話など、できる筈も無い。その結果、罵り合いが続き、疲弊した人々は、他人を拒絶することで、ひと息つくことになる。論理のぶつかり合い、であれば、そこには、感情的なものが、入り込む余地は無く、当然ながら、精神的な抑圧が、生じることもない。ただ単に、正しいと思える結論を、導く為の道筋を、辿っているだけで、そこには、啀み合いなど、入り込む余地は無い。なのに、現実は、悲惨なもので、意見が合わねば、人格も含め、全面否定に走り、徹底的に、叩き潰そうとする。賑やかしの人間が、匿名を良いことに、それに乗っかるから、事態は、悪化するのみとなる。この所、時々付き合う、入試制度の問題も、論理性の欠片も無く、思い込みのみで、主張を続ける輩は、その典型だろう。同様に、定義することなく、言葉の誤用に基づき、罵倒を繰り返すのも、同じ狢である。母語を、操っていると、思い込む人々は、一度、論説文を書いてみればいい。通じるものが、書けなければ、定義や論理が、不十分ということだ。

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2月20日(金)−無い知恵

 突然の選挙で、当初は、国政の混乱が、懸念された。特に、毎年度末には、次年度国家予算の、審議が行われ、ぎりぎりまで、議論が続くから、年度内成立が、という話題で、持ちきりとなる。それを、この時期に、選挙では、と政治記者達が、騒ぎ立てたのだ。
 だが、選挙結果が、予想以上に、偏ったものとなり、情勢は、一気に、変化した。片方の議会が、与党が大勢を占める、状況となったことは、最終決定権を握る、という立場で考えれば、年度内成立も、可能では、との声が出始めるのも、当然かも知れぬ。ただ、根拠となるのは、数の論理のみであり、審議の過程や、議論の的などに、目が向くことが無い。相変わらずの、劣悪さを、露呈するものだが、報道に携わる人間も、世間同様、勝ち負けにしか、興味が無く、それにより、何がどう動くのか、見通そうともしないのは、知恵が足りないから、なのではないか。ここで、改めて考えるべきことは、従来の予算案審議において、何がどう議論されてきたか、なのではないか。毎年、せっせと行われる、予算委員会での審議は、予算そのものに、関わることは、実際には、少ないのでは、と思えたことを、思い出す。誰かの不祥事や、政治の問題、その他諸々に関して、毎日毎日、繰り返されるのを、苦々しく眺めた経験を、持つ人も多いだろう。何故、そんな議論が、重要なのか、理解に苦しむ。予算案審議では、予算の妥当性を、議論すべきなのに、何故、無関係な話に、終始しているのか。それに加えて、紛糾すれば、審議自体を、止めてまで、何かの調整に走る。国政への興味が、減退する理由の一つに、これがあるのだ、と言っても良さそうだが、当事者達は、大真面目で、こちらの方が、重要だと考え、無駄な時間を費やしている。こんな有様だから、議員の数を減らせとか、下らないことばかり、話しているとか、そんな批判が、噴出するのではないか。今回は、明らかに、時間が足らないのだが、逆に、無駄を排して、肝心なことだけ、審議すれば、足らない筈の時間を、有意義に使えて、年度内成立も、可能となる。その位の話を、してみたらと思うが、選挙や政局ばかり、取り上げる愚か者達に、その知恵は、ありそうに無いのか。

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2月19日(木)−誘い水

 社会媒体は、信用ならん。だから、近寄らずに、遠くから、批判するだけ、という態度も、一つなのだが、少し、違った使い方も、あるようだ。長く、独り言を書き続け、世の中の誤りを、指摘することで、何かしらの発信を、と思ってきたが、如何せん、読者数が増えぬ。
 大昔、は言い過ぎだが、ブログなるものが、始まった頃は、書く内容により、耳目を集める、とも言われたが、それは、それ用の仕組みに、設置されたものに、限る話だった。パンチの独り言のように、そんなものとは、無関係な、ごく一般の場所に、設置された場合は、そこに辿り着くことが、難しかったからだ。だが、ブログは、嘗ての栄光が、錆びついてしまい、見向きされなくなった。そうなったのには、ある意味、社会媒体の台頭が、大きく影響している。誰もが、手にした端末から、発信できる仕組みは、時間的なものや、手間に関することで、圧倒的な有利を、示しているだけでなく、参加者の数も、膨大なものとなり、皆が、多くの情報に、触れることが、可能となった。その上で、ある意味の、情報交換が、可能となると、それを利用し、発信と受信、双方において、便利なものとなった。唯一最大の難点は、情報の質であり、報酬などの仕組みが、取り入れられると、その悪化の速度は、急激に増した。それを、必要悪、と捉えるには、社会の脆弱性が、大きな問題となった。受け手が、どう感じるかが、肝心と言われるのは、虐めのことだが、それと同じで、ここでも、送り手の悪質さより、受け手の受け止め方、によるとされ、被害拡大が、著しくなった。この欠陥は、御し難いもので、解決法は、未だに、見つかっていない。そちらに関しては、暫く様子見、となるだろう。一方で、活用法の一つは、報酬とは無関係な、宣伝効果、とでもいうものか。昨年末くらいから、囀りでの発言を、増やしてきたが、最近、独り言の接続数が、増しているように、見える。毎日書くから、毎日見るもの、とはならず、おそらく、過去の発言を、点検しているのだろうが、それはそれで、いいことと思う。もう少し増えれば、それはまた、囀りでの活動同様に、この世界に、何らかの影響を、及ぼせるように、なるかも知れぬ。

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2月18日(水)−邪魔者

 またか、と思われるに、違いないのだが、何度でも、書かねばと思う程に、腐った心の持ち主が、好き勝手なことを、書き連ねている。囀りは、その典型だろうが、誰もが、発言できる、社会媒体は、人によっては、腐り切っている、とさえ、言いたくなる程に、間違いだらけだ。
 気になることは、多々あるのだが、特に、劣悪であり、悪質であると思えるのは、悲惨を、前面に押し出した、意見の数々だろう。閉塞感、という黒雲に、覆われた時代には、悲惨な筋書きが、好んで取り上げられた。それも、自身の、恵まれぬ環境を、それ以上に、悲惨な物語と、比べることにより、安心を得よう、とする意図に、満ち溢れたものが、垂れ流されていた。一見、悲劇の主人公に、なったかの如くの、筋書きなのだが、実際には、「勝ち組負け組」、という考えに基づき、自分が、負けていないとする、意見に流れ、その上、これも、最近の流行りの、「マウントを取る」、という優位を誇示する、馬鹿げた考えに、取り憑かれたもの、となっている。最近、とみに目立つのは、自らの職場環境を、卑下するが如くに、こき下ろす意見で、その道を、目指す人々に、警句を与える、とでも言いたげに、悦に入った雰囲気が、漂っている。が、その実、自分達が、その地位に、しがみつくだけで、警告により、他人が、近寄らぬように、する思惑に、満ち溢れている。その悪意が、露骨なだけに、読んでいても、不快感しか催さず、まさに、反吐が出る、とでも言いたくなる。何故、そんな心持ちに、なるのかは、通常の神経では、理解し難いが、多くの賛同が、得られる状況からは、そんな愚かな考えが、蔓延しているのでは、とさえ思いたくなる。こんな状況では、将来への不安が、払拭されることは、決して無い。それより、この手の下らない情報に、惑わされた人々は、行く手を遮られ、戸惑うばかりで、先へ進めなくなる。将来のことなど、誰にも、判る筈がないが、それを、したり顔で、当事者達が、事実かの如く、歪曲した情報を、流すことで、誤った方向に、進ませるなど、まともな人間が、やることではない。いい加減にしたら、どうだろうか。

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2月17日(火)−教育とは

 教育の重要性、を取り上げる意見の中に、だから、人材育成が、との話が飛び交う。教える側が、十分な能力を、備えていなければ、教育の本来の役目が、果たせない、ということだろう。でも、と思う人が、多いのではないか。多くの人は、確かに、大きな影響を受けた、良くも悪くも。
 反面教師、という話を、当て嵌めたいのではない。どんなに、万能な教師でも、全ての子供にとり、有意義な教育を、施せるとは限らない、と言いたいだけだ。それでは、誰でもいいのか、という意見が、出てくるに違いない。それはそれで、正しくない、と思う。じゃあ、どうしたら、となるかもだが、人材育成とは、そんな簡単なものではなく、ある程度の幅を、持った範囲に、収まりさえすれば、と思うのだ。だから、今、囀りで、盛んに叫ばれる、能力の高い先生が、学校で教えなければ、出来の悪い大学生を、減らすことはできない、という意見には、賛成できない。特に、初等中等教育においては、大昔と違い、教師になる人間は、その課程の教育を、受けてきたに違いなく、教わったことを、教えることには、抵抗が無い筈、と思うのだ。そんなことを書くと、いや、完璧を目指す為には、それでは、力不足ではないか、との反論が、押し寄せるだろう。だが、誰が、完璧を目指すのか、また、ここで言う完璧とは、何を指すのか。この課程では、検定教科書が、使われることが、常であり、その範囲を、説明するだけなら、そこに示されたことを、理解できさえすれば、可能ではないか。元々、その学年の児童・生徒が、それを読めば、理解できるように、作られているのが、教科書である。なのに、大学まで出た人間が、それができない、となっては、どういうことか、となるに違いない。しかし、この問題を、囀りで、大真面目に、論じる人々が居る。教える行為を、まるで、権威を笠に、押し付けるもの、とでも思っているが如く。そう考えると、文系理系も、公立私立も、何の関係も無い。教壇に立ち、真摯に、解説することと、子供達の反応を、正しく、受け止めさえすれば、教える行為は、成立するものだ。それが、成り立たないとすれば、知識ではなく、態度や姿勢そのものを、見直しさえすれば、済むことだろう。

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2月16日(月)−悪の巣窟

 独り言の頁には、「思いつきを書きつづったものです。」と書いてある。ある意味、自分が思いついた、勝手な意見を、並べているので、と断っている訳だ。ネット上の情報は、そんなものばかりで、何の確証も無く、誰かの検証も付かない。その程度のもの、と思わねば。
 だが、社会媒体に溢れる、情報の多くは、まるで、それが真実であり、事実であるかの如く、言い募る。他人の意見は、批判というより、文字通り、否定するだけで、罵倒さえしかねず、どうしたものか、と思うことも多い。何故、独り善がりの考えに、囚われてしまうのか、不思議に思うのだが、書いている当人に、その意識は、微塵も無い。ただただ、悦に入って、書き連ねるばかりで、主義主張が、いかに杜撰なものでも、怖いもの無しで、突っ走っている。だが、普段の生活では、状況は、大きく異なり、自分では、非常に大きな抑圧下で、虐げられ続け、悲惨な人生を、送っているとさえ、思っているようだ。でも、だからと言って、好き勝手な、嘘や出鱈目を、書いてもいい訳ではない。少なくとも、人の目に触れる所には、それなりの責任を持って、意見を並べるべきで、好き勝手が、通用する訳でもない。ただ、こういう輩は、手にした端末から、発信できる喜びに、浸っているようで、自らの暴言や暴走を、省みることさえ、無いのだろう。それに加えて、愉快犯なのかは、知る由も無いが、兎に角、そういう発言に、口を出す人々が、社会媒体には、多く巣食っており、極論を、全否定し、時に、書き手に対し、人格否定とも受け取れる、言動を繰り返す。最近は、法的手段に、訴える人が、増え始めたから、以前程の、気軽さ、手軽さは、無くなったのかもだが、それにしても、この媒体は、悪質な人間を、増産するだけでは、とさえ思えてくる。ただ、このままでは、存在意義は、失われるだけで、大いなる無駄、としかならないから、少しだけでも、真っ当な意見を掲げ、まともな議論が、行える場になれば、と願いつつ、発言を続ける。当然、独り言でも。

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