パンチの独り言

(2026年3月2日〜3月8日)
(混乱の極み、悲観一辺倒、べき論、自分は?、自己満足、強制力、見直し)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



3月8日(日)−見直し

 すぐに片付く、との触れ込みだったから、暫く様子見した。だが、以前のちょっかい同様に、泥沼化しそうな、気配が漂い始めた。こうなると、暴君ぶりも、ただの老害にしか、見えなくなる。それも、猫の目の如く、日々変わり続ける、見通しに、振り回されつつ。
 これまで同様、信じるに値するものは、一切提示されない。その中、新たな情報が、持ち込まれる度に、方針転換が、さも当然の如く、繰り返され、それさえも、見通していた、と豪語されるに至っては、やはり、老人の害というより、まさに、権力者の害、としか見えぬ。知恵の足りぬ人間に、力を与えると、どんなことが起きるのか、証明して見せている、とさえ思えてくるが、そんなことに、世界が付き合う必要は、全く無いのだ。にも拘らず、あれこれと、対応策を講じさせられ、打開策を模索する。政には、当然のことだが、ある国の新宰相が、繰り返し、言い続けているように、そろそろ、様子を伺うことも、機嫌を探ることも、一切止めた上で、自分達の利益を、最優先に考えるべき、時が来ている、のかも知れぬ。ただ、これまでの慣れから、だとしても、どう動くべきか、改めて考えるには、何か、大きなものが、足りぬように思える。何が、自分達の利益なのか、それが、見えていないのだ。これまで、あの国の暴君の、思い付きに、付き合わされた挙句に、この事態に、見舞われる中、肝心の、自分の利益が、何なのか、見えなくなっている。だったら、他の国でもいいし、世界全体でもいい。何が、より良くするのか、考えてみたら、と思う。平和が、最優先なら、それに向けて、互いに、啀み合う状況を、変える為の手立てを、どう講じるべきか、改めて、考えてみたら、と思うがどうか。そんなことより、今、目の前に、起きかけている、物価高の状況を、変えるべき、と思うのなら、その為に、何をすべきか、考えてみては。兎に角、海の向こうの暴君に、これ以上、付き合うことが、適切かは、もう一度、考えてみなければ、と思うのだがどうか。

* * * * * * * *

3月7日(土)−強制力

 昆虫食についての、囀りでの遣り取りを、全部眺めた訳では無い。でも、大体、想像がつく。互いの主張が、平行線を辿り、結局、何の結論も出ない。と言って、発言者の殆どは、言い負かそう、と思っていたとしても、それ以上の、何らかの結論を、導こうとは思っていない。
 だから、あの手の論争は、無駄でしかない、と思ってしまう。いや、それは、言い過ぎとしても、あの遣り取りでの、論理の有無は、何の意味も成さない、と思う。ただ、そこに至った道筋については、思う所はある。例えば、何故、昆虫食が、不可欠だとの話になったのか、という点には、温暖化と、よく似た論理が、使われていた。人口が、増すばかりとなる中、食糧生産は、限界が見えており、早晩、枯渇となるという話だ。確かに、タンパク源として、近年、摂取されているのは、動物性のものが、主体となっており、それらを手に入れるには、牛豚鶏などを、育てる必要がある。その為には、飼料が必要となり、その大部分は、植物性のもので、結果として、手間の割に、手に入る食肉量は、これ以上には、増やせない、となる。となれば、近年持て囃される、効率化の問題へと、話が向けられ、そこから、昆虫ならば、もっと安価に、もっと大量に、手に入れることが、できるという話、だったと思う。これが、引き合いに出され、盛んに、取り上げられる中、驚きだったのは、高校生達が、自分達の探究活動として、この話題を取り上げ、循環社会の為に、不可欠との幟を立て、昆虫の試食を、始めたという話だ。同級生と共に、試食を繰り返し、どうすれば、食べ易くなるか、などと論じ始める。皆の好みの問題、と思う話を、半強制的に、参加させられる、という光景に、呆れた覚えがある。これが、社会でも、同じような扱いで、一気に、盛り上がっていたが、それが、突如として、反対の狼煙が、上がったようだ。食の好みは、人それぞれで、多様性など、持ち出すまでもなく、尊重すべき、と思うのだが、この話の筋には、それを、無視した考えが、満ち溢れている。肉食を、嫌う運動も、同じことで、個人の自由が、保たれれば、何も問題とならないが、侵害された途端に、大ごとになる。食糧不足を、引き合いに出す時点で、強制力が、行使される訳で、その論理には、危うさしか感じない。だとしても、反対派が、昆虫食を、徹底批判するのも、大間違いであり、論理の欠如も、甚だしいと思う。

* * * * * * * *

3月6日(金)−自己満足

 論理性の有無こそが、重要である、と書いた。日常の発言にも、気を配っているが、そうならない人が、なんと多いことか、と思う。少し遣り取りが加熱すると、途端に、感情的になり、暴言を吐いたり、相手の人格否定にまで、及ぶことさえある。何かが、足りないのでは。
 当事者は、重要なことを、議論している、つもりなのだ。だから、自分の主張を、何が何でも、押し通そうとする。だが、押し通すとは、どういうことか、考えるべきと思う。論理性の維持は、押し通す為のものでは、決して無く、話の筋道が、正しく構築できているか、の点検でしかない。そこに、感情が、入り込む余地は、全く無く、仮令、気持ちが昂っても、冷静さを、保つ努力が、必要となる。普通に、構えていれば、別に、難しいことでは無い。だが、勝ち負けに、拘ったり、恥をかかされた、などと考えたり、そんな思考回路が、働き始めると、途端に、冷静さを保つことさえ、難しくなる。特に、以前から、問題視されてきたように、一人で、端末に向かい、不平不満を、吐き出すような、ことを繰り返すと、それに、心が奪われて、まともな思考が、維持できなくなる。ずっと昔、掲示板なるものが、ネット上で、盛んとなった時代があった。その頃、まるで、心が奪われたように、そこでの議論に、昼夜に関わらず、参加する人が、増えていたようだ。その中で、多くの議論は、平行線を辿り、結論に至ることなく、沙汰止みとなっていた。互いに譲らず、感情論に流れ、互いに、味方をつけて、議論が盛り上がる。でも、外から見れば、盛り上がったとは、見かけだけのことで、互いに、自己主張を、繰り返すのみで、その中で、妥協案が、出てくることも、結論が、導かれることも、決して起きない。これと似た状況が、やはり、囀りの中でも、みられている。最近の話題で、昆虫食を、取り上げる人が、増えていたが、その遣り取りも、なんだかなあ、としか思えない。相手の主張を、完全否定し、自分の主張を、押し通そうとする。確かに、一時の盛り上がりは、冷え切ってしまい、昆虫の養殖なども、どうなったのやら。ただ、その背後にあった、持続可能との結び付きには、無理筋の論理が、度々出され、それを掲げて、他を押し遣る手法が、過ぎたのも事実だ。何方も、論理性に、欠いた主張を、していることに、気付くべきだが、その気配は見えず、反対派の排除に、躍起となる。ネット世界の、難点と言えば、そうなのだろうが、それを、克服しないと、崩壊しそうな気がする。

* * * * * * * *

3月5日(木)−自分は?

 皆が、話している時に、割り込んだことが、あるだろうか。そんな時、中の一人から、あなたには、関係のないことだ、とか、あなたは、それを経験していない、とか、そんなことを、言われたことは。自分も、話に参加したいのに、させてくれない。そんな扱いだ。
 がっかりして、話の輪から離れた。という経験は、誰もが、したものかもだが、傷つく経験の一つだろう。でも、一方で、同じ扱いを、他人にしていないだろうか。こちらも、経験があるかも。疎外感、と言われる感覚で、仲間外れとも言われる。何故、こんなことをするのか、理解に苦しむ。話に、入ってきても、的外れな発言を、続けた場合には、少し、注意を促すことがあるが、上に書いた例では、単なる拒絶でしかない。これら二つには、大きな違いがあると思う。一方で、最近は、状況が異なる。社会媒体の多くでは、設定で、仲間内の会話、としていない限り、誰もが、参加できる。だから、見ず知らずの人達の、会話にも、気軽に参加できる。一見、良さそうに思えるが、その後の扱いにより、状況は激変する。会話の一人が、突然、罵倒し始め、時に、人格否定にまで、発展するのだ。この仕組みの、良い所と悪い所、といった感があるが、標的となった人は、傷つくに違いない。そこまで、極端な反応でなくとも、批判の対象となることもある。最近、目にした例では、専門家が、偉そうに、専門外のことに、口出しするのは、恥晒しだ、との意見だ。確かに、専門外のことに、詳しくない場合も、多々あるだろうから、恥をかくこともある。ただ、この意見は、上に書いた、未経験なものや、関係ないことに、口出しするな、というのと、似ているのでは。更に言えば、専門外でも、役に立つ意見が、できないとは限らず、岡目八目、となる場合も多いのでは。それを、恰も、恥晒しに違いない、とばかりに、囃し立てるのは、それこそ、愚かなことでは、と思う。ただ、それでも、注意すべきことが、ある。専門だろうが、専門外だろうが、論理的な話が、できるかどうか、という点だ。多くの人々が、批判した、専門外への口出しで、恥を晒したとの発言は、その多くが、論理の飛躍や、誤解に基づく、突飛な意見でしかなく、傾聴に値しないものだからだ。発言者の多くは、自身の専門でさえ、論理を欠いた、発言を繰り返し、権威を掲げて、それに頼るだけの、ものとなっている。本来は、そちらを、指摘すればいいのに、こういう野次馬達は、権威や専門に、屈するばかりで、論理で戦うことが、できない。ある意味、同じ穴の狢、目糞鼻糞を笑う、の典型に思う。

* * * * * * * *

3月4日(水)−べき論

 投票行動は、義務・権利の一つとして、必ず参加する。だが、結果が出て仕舞えば、後は任せるしかない。政自体に、口出しするつもりはない。民主主義とは、そんなものであり、政府の転覆や、心変わりを期待しての、圧力などという、考えは、明らかな間違いと思う。
 だが、端末から、日々、せっせと雑音を、送り続ける人が居る。確かに、有識者であれば、重要な会合での、発言の機会もあるし、大衆媒体からの、依頼による発言も、あり得る。だが、市井の庶民にとり、そんな機会が、得られる筈も無く、ただ、黙っておくしかなかった。それが、社会媒体の登場で、一変したと言われる。だが、それにより、より良い社会となった、かについては、疑問が残る。矢鱈に、耳目を集めようと、過激な意見ばかりを、送るのでは、誰も、見向きもしなくなり、却って、政の妨害にしかならない。選挙を、基本とするならば、その結果を、尊重すべきと思う。一方、任された人々も、責任を持って、政に参加し、特に、野党の人々は、政府や宰相の暴走を、防ぐ必要がある。だが、突然の選挙で、予算案成立までの、時間が短くなった、と言われる中、予想通りに、急ごうとする政府と、いつも通りに、時間を保とうとする野党の間で、論争が起き始めた。前にも、書いたと思うが、これら二つの考えには、大きな隔たりがある。前者は、予算執行を、第一と考え、年度当初からの、計画実行を、目指すのが、当たり前だが、後者は、そんな考えは、微塵も無い。ただ、肝心の委員会での議論が、予算案そのものに、対するものであれば、何方の主張も、通るものと思える。だが、野党の手法は、相変わらずであり、予算そのものから、逸脱した、今、議論すべき重要な話題を、持ち込もうとする。これは、議案から、逸脱したもので、短かろうが、長かろうが、貴重な議事の時間を、浪費することにしか、ならない。にも拘らず、今回も、一つ覚えの台詞を、吐き始めており、その前に、意識すべきことを、無視するのは、任された人間達が、すべきことではない。だから、議論の時間を、短縮して良い、とは言わぬ。肝心の議論を、粛々と行い、結論を出すべき、と言っているだけだ。

* * * * * * * *

3月3日(火)−悲観一辺倒

 何事も、悲観的に、考える。何度も、書いてきたが、相変わらず、この国の中は、そんな空気で、満たされている。いや、今に至っては、この国だけではない。他の国々も、それと良く似た状況に、あるのではないか。理由は、それぞれ、違うのだと思うが、どうだろう。
 この国の場合、悲観的に考えることで、安心を得る、という、誠に不可思議な、思考回路がある。最悪の事態を、想定しておけば、現実は、それよりましだから、安心なのだと。本当か、と思うのは、浅はかだろうか。それと、良く似た考え方に、自分より、下の境遇の人間を見て、安心を得る、という、馬鹿げた論理もある。これらが、絡み合うことで、身勝手な論理が、構築されて、自分を、卑下する一方で、それ以下の人間を、せせら笑う、という光景が、展開される訳だ。弥速何とも、と思っておけば、いいのだろうか。では、他の国々は、どうだろうか。混迷の時代を、迎えるまでは、自分を、如何に高く見せるか、自分の能力を、如何に主張するか、という心持ちが、前面に出ていた。だが、各国の状況が、悪化するに従い、置かれた状況も、随分と、変化してきた。それは、他の国からやってきた、異邦人達が、自分達の権利をも、奪い始めた、と感じられた頃から、始まったものだと思うが、それに加えて、他国への侵攻を、簡単に行なってしまう、暴君の登場が、拍車をかける。不安定な時代と、思い始めた時に、自らの国の存在が、危ぶまれ始め、それが、自らの存在さえも、脅かすとなれば、致し方無い、としか言いようが無くなる。どうだろうか。このまま、暴走が、続くのだろうか。それとも、何処かで、抑制が、働くのだろうか。独裁国家であれば、その存在が、全てを決めるのだろうが、民主主義の中で、生まれた暴君は、国民に選ばれし存在であり、それを、消し去ることも、可能な筈だ。自分の為か、自国の為か、更には、他国との関係の為か、どれを考えても、自明に思えるものだが、そうとは言い切れず、困り果てる人々が居る。海のこちらは、悲観が、当たり前だから、あちらを、眺めつつも、そんな思いを描くのか。それとも・・・。

* * * * * * * *

3月2日(月)−混乱の極み

 海の向こうの暴君が、攻撃を終えた後の発言で、殺害した暴君を、one of the most evil people、最も邪悪な人物の一人、と呼んだことは、皆が知る所だろう。でも、暴君が、暴君を、どう呼ぼうが、またどんな理由があろうが、他国への侵攻を、認めるのはどうか。
 そんなことを、書いたとしても、彼は既に、石油埋蔵量を誇る、あの国の暴君を、彼の国で拉致した上で、自分の国で、裁こうとしている。確かに、大統領や首相は、絶対的な権力を、有するのだが、だからと言って、横暴が、許される筈も無い。もし、そうなってしまったら、民主主義は、成立し得ず、国民の多くは、著しい害を、被るに違いない。にも拘らず、彼が、依然として、強権的なことを、やり続けるのは、熱狂的な支持者の、存在があるからだろう。以前から、解せないと思い、今でも、全く理解できないのは、彼ら、支持者の心情であり、ここ数ヶ月の、横暴ぶりを眺めても、支持を続ける理由が、見当たらないことだ。確かに、力を誇示し、無理難題を、相手国に対して、突きつけ、時に、世界全体をも、敵に回しかねない程の、横暴ぶりが、目立っていても、依然として、自分達の英雄であり、自分にとって、より良くしようと、懸命に、努力している、と信じる向きがある。それを、否定することは、かなり難しく、説得は、おそらく不可能だ。それが、人と人の間に、壁や溝を、築き上げており、それらを、破壊したり、埋めたりすることは、出来ない相談、とまで言われている。こういうことが、続くばかりだと、庶民の不満は、溜まる一方となり、解消の手段は、殆ど見出せなくなる。歴史上のことから、唯一の手段として、世界戦争が、取り沙汰されるが、誰も望まず、自分だけは、安全にありたい、と願うのでは、そちらへの突入も、できそうにない。危うい均衡を、保とうとすべきか、はたまた、一気に解決を、導く為の、過激な手段を、持ち込むべきか。そんな混乱の前夜にある、と見るのは、悲観に過ぎる、ように感じるのだが。

(since 2002/4/3)