パンチの独り言

(2026年3月23日〜3月29日)
(思い付き、不満分子、妨げ、反発しては、原理か心理か、負の連鎖、肝心なこと)



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3月29日(日)−肝心なこと

 自分から始める、と言っても、何をどうしたら、と思うのが常だろう。立場による違いも、はっきりとしているが、邪魔の入り方も、同様に、それぞれで違う。現場に立つ人間の、責任は重いが、だからと言って、動かねば、何も起きない。これは、歴然としたことで、議論は無用だ。
 一方で、これから、高等教育を、受けたいと思う人は、何から始めたらいいのか。まずは、その道に進めるかが、肝心だろう。確かに、物価高が続いた国々では、教育費も高騰し、仮令、借金をしても、続かなくなることも、あると聞く。だが、こちらは、それに比べれば、遥かに安価で、高等教育を、受けられる。の筈が、何故か、無償化ばかりが、取り沙汰される。中流意識が、貧困へと変わったから、施しを、受けるのが当然、となったとも言われるが、実態は、大きく異なり、貧困とは名ばかりであり、それなりに、豊かな生活を、送る家庭が、大部分と思う。その中で、何故、教育に対して、対価を支払おうと、しないのかは、ある意味、明らかな理由がある。学んだことが、活かされないから、という思い込みからだ。何故、そういう考えに、陥るのかも、ある意味、明らかだろう。丸暗記を主として、その完璧さで、競うだけの受験戦争から、高等教育の場に、移っても尚、同じことを、繰り返し続ける。それでは、意味を見出せず、無駄と思うだけで、学歴という称号のみを、手に入れたくなる。だが、本来なら、覚えるより、理解するを、優先する中で、学ぶべきことは、格段に増える筈で、その為の期間を、確保することは、非常に重要な筈だ。にも拘らず、親も子も、それに気付かず、無駄を口にする。愚かでしかないが、それが、今の実情だろう。自分から、と書く理由は、それに、自身が気付き、それを親に伝え、親の役目を、果たさせることが、今、一番重要だということだ。妨げるばかりで、成就させないのは、邪魔なだけで、悪影響しかない。責任を持たせ、自由を謳歌することで、新たな学びを、得る機会を手に入れる。教育の場を、整えねばならぬのは、当然のことで、その当事者の責任も、当然、重いものだ。

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3月28日(土)−負の連鎖

 教育、特に、高等教育について、度々書いてきた。理由の一つは、今の教育の、荒廃ぶりが、気になったからだが、その原因が、何処にあるのか、については、当事者の責任が、重いように、感じている。そこには、数々の問題が、あるように思うが、最大のものは、自覚かもだ。
 問題の本質が、自分達にあることに、あの人々は、全く気付いておらず、ただただ、責任転嫁を、繰り返している。社会が悪いとか、世間が悪いとか、政府が悪いとか、学校が悪いとか、並べたら、きりがないのだが、その中に、自分に関わることは、一切含まれず、勝手なことを、並べるだけだ。だから、解決方法が、見つかる筈も無く、そのまま、放置し続けてきた。それは、単純に、今の現役世代だけでなく、すぐ上の世代も、関わってきたことで、それが、更に、問題を大きくした。今の人々にとり、自分には、責任が無く、上に居座った連中が、壊してしまったので、自分達が、被害を受けている、と訴え続ける。これは、今の時代に、当てはまる話で、誰もが、自分を、被害者の立場に、置くことで、ある意味の、安心を、手に入れているのだ。誰もが、被害者となれば、誰も、傷つけることなく、皆が、仲間意識を、持つことができる。好都合、極まりない考え方だが、それが、教育に携わる、人々の内から、出てくるとなると、百害あって一利なし、となる。教え育む、立場の人々が、一斉に、被害を訴え、周囲を、加害者と見做す。現状に、見合った話、とされるのだが、その実、彼らこそが、大いなる被害を、招いている、加害者でしかない。その上、次の世代に、それを引き継ぐことで、解決の道は、閉ざされてしまう。ただ単に、問題を、拾い上げて、それを、解決する手段を、授けさえすれば、そこで、断ち切ることが、できるものを、長々と、続けることに、なっているのは、こんな背景がある、のではないか。それも、初等中等教育だけでなく、高等教育でさえ、そんな為体に、陥ったことで、回復不能な事態を、招いたように思う。だったら、どうすれば良いのか。簡単なことだ。自分から、始めればいい。それだけだ。

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3月27日(金)−原理か心理か

 物価高騰が続く中、当初、引き合いに出された言葉は、市場原理だった。需要と供給の均衡が、それぞれの物品の価値を、決めることで、価格が導き出される、という話だったが、この所の変動からは、疑わしい、との声が、盛んに出され、経済学者の説明に、批判が集まった。
 では、何が、価格を決めるのか。そこで、出された言葉が、市場心理だろう。漢字一つしか、違いは無いが、内容には、大きな違いがある。原理とは、確固たるものであり、揺るがぬもの、と見ることができるが、心理とは、不安定なものであり、揺らぎ易い、変動の激しいもの、と断じられる。米騒動でも、同じことが起き、騒ぎが、広がるに連れて、米の値段が、徐々に上昇し始め、政府が、盛んに、火消しを図っても、一向に変化が起きないばかりか、供給量を増す措置さえ、市場は、無視した挙句に、依然として、高値が続いている。理由を、眺めてみれば、すぐに理解できるのは、価格を、決めているのは、業者であり、生産者でも、消費者でもなく、中間で、暴利を貪る、時に、悪徳とさえ、呼ばれる輩が、暗躍することで、値が、釣り上げられていた、という実態だ。その中で、経済学者が、何かしらの説明を、加えたとしても、ほぼ全てが、机上の空論に過ぎず、一笑にふすしか、反応できぬ、状況にある。次に起きた、物価の大変動は、石油価格のものだ。暴君が、甘い見通しの上で、紛争地域の宰相の、仇敵撲滅に、手を貸した結果、原油輸送に、滞りが起きた。それ自体は、当然の帰結だが、末端価格の上昇は、全く異なる、原因が見えている。それは、煽り報道の結果、という考え方だ。仮令、輸送に、問題が起きたとしても、需要と供給から言えば、末端において、問題となるのは、精製後の製品の、需要であるべきで、即座の値上げは、理解不能としか、映らない。その片棒を、担いだのは、大衆媒体であり、社会媒体なのだ。彼らが、盛んに、煽り続けることで、業者は、この時ばかりと、儲けに走り、消費者は、安値を求めて、走り回る。それに対して、政府は、補助金を出し、溜め込んだ原油を、市場に供給すると、約束したものの、価格は、元通りには、戻らない。ここに、心理の影響だけが、あることを、見るべきだろう。その上で、何をどうすべきか、各自が、考えるしかない。

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3月26日(木)−反発しては

 干渉された時の、反応についても、時代の違いが、現れているかもだ。嘗ては、反発して、自分勝手な行動に、移ったという人が、普通に居たのだが、最近は、とんと見かけない。何が違うのか、と思うのだが、これもまた、傾向と対策の、一つなのかも、と思えてくる。
 平和な時代が、長く続いたことで、傾向を調べ、それへの対策を、講じることで、賢く生きるのが、当然となっていた。無駄を省き、冒険を避け、安全安心な、人生を歩むことが、最善と言われる。だが、それが、自分の夢や期待を、否定するものだったら、どうだろうか。それでも、安心できるなら、と返すのだろうか。高度成長が、始まった頃には、職人などの伝統的な職が、嫌われるようになり、企業活動に、関わることで、より多くの収入を、得ることこそが、最善と見られていた。だが、泡が弾け、経済成長が、停滞から下降へと、移る中、安定した将来が、崩れ始めることで、親の職を、引き継ごうとする動きが、見直され始めた。本来、子供の頃から、眺めてきた仕事には、馴染みがある筈で、それこそが、適材適所の典型、と見るべきだったのに、それを、忌み嫌うことで、自分の人生を、自分で決めるという、自己満足が、優先されたのだが、それが、大きな過ちだと、され始めたことで、古くからの、辛い職人仕事に、戻る人が出てきた。大回りの末に、元の鞘に戻った訳だが、これもまた、一種の干渉、と見えなくもない。確かに、身近な存在は、良い点より、悪い点が、目立つもので、それへの反発も、大きくなる。また、親の跡を継ぐのは、圧力の一つだろうから、それへの反発も、あっただろう。だが、多くの場合は、強制された訳でもなく、ただ、運命に逆らいたい、との思いが、反映されただけなのだ。その結果、一度は逃げたが、戻った理由は、外から見て、気付いた点が、あったからだろう。では、今、傾向と対策で、最善を目指そう、とする動きは、どうだろう。一見、楽な道を、歩もうとするものだが、その実、好きでもないことを、最善の一言で、やろうとしている、のではないか。それに加えて、先人達は、余計な一言で、干渉してくる。無視すれば、と思うのだが、傾向と対策に、逆らえない人には、難しいのでは。

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3月25日(水)−妨げ

 昨日紹介した、考え方の変化を、どう思うだろうか。大したことない、所詮、一部の考えが、変化したとしても、全体には、大きな変化は、起きていない、と見るのか、はたまた、僅かな変化としても、人々の考えが、変わったことで、次の世代へと、拡大する、と見るか。
 何れにしても、変化をどう見るのか、については、注意を要する、と思う。その主体となるのは、今の現役世代であり、彼らの一部は、次の世代を、育む役目を、負わされている。にも拘らず、自分のことを、過大評価するばかりで、社会が、それを認めぬのは、大きな問題と見る、そんな人々が、大きな声を上げ、自分の跡を継ごう、と思う人々を、排除しよう、と躍起になる。何故、そんな愚行を、し続けるのか、全く理解できぬ。もし、今の仕事が、下らないものなら、さっさと辞めて、他のことを、すればいい、のに、何故、そこに居座り、他者の参入を、妨げるのか。下らない干渉を、正当化する為だけに、自らの功績を、過大に見せ付け、後進に対して、暗闇に似た将来しか、見せようとしない。そんな心持ちが、何の役に立つのか、不思議でしかない。元々、悲観的に、物事を考える国民性が、あったのについては、否定しないが、その一方で、そればかりを、強調することで、教える立場の人々が、他人の、若い世代の、門を閉ざそう、とするのか。穿った見方からは、保身でしかなく、競争者の登場さえ、妨げようとする、下衆な心の、表れなのでは、とさえ思えてくる。一方で、将来に、光が見えぬ世代にとり、先人からの助言は、仮令、自分の夢を、打ち砕くものとしても、有難いものに、映るのだろうか。これについても、今の世代の、考え方の変化、と見るべきかも知れぬ。仮令、厳しい道でも、無謀に突き進んだ、世代が、萎み続ける社会に、嫌気がさしたのは、夢も希望も、無くしたからか。だが、その無謀さが、道を拓いたには、違いないのだ。だったら、邪魔など、せずともいい、と言えないか。

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3月24日(火)−不満分子

 嘗て、中流意識が、大多数を占めた頃、上流社会は、憧れの対象だが、高嶺の花であり、雲の上の存在だった。だが、泡が、弾けた頃から、状況に変化が起き、貧困が、口の端に上り、平等意識が、崩れ始めた。それに連れ、憧れへの意識も、大きく変化し始めたのは、何故か。
 高度成長期に、皆が、中流意識を、持ち続けたのは、別の見方からは、共産主義の如き、状況にあった、とする向きもある。皆が、国の成長に向け、力を合わせて、発展に貢献する。何処かの、社会主義国のように、看板に掲げても、決して、実現することの、無かったものとは、大違いだが、その理由は、押し付けられた、制度ではなく、皆の意識に、それが根付いたから、なのだろうか。だが、弾けた途端に、成長が止まっただけでなく、衰退へと移ると、皆の意識に、変化が芽生えた。協力するより、他者を蹴落とし、その上に、自分が立とうとする、そんな優越感を、求めるようになった。それが、逆に働き、自らを、貧困へと導くとは、誰も、思わなかっただろう。ただ、この差別的な考えは、成長期の末に、風船が膨らむように、身の丈に合わぬ、状況が生まれた頃に、芽生えていた。そこから、急展開が始まると、そちらの考えが、大多数を占め、協力よりも、抜け駆けを、目指す動きが、高まったようだ。そこから、四半世紀以上を、経た所で、身の丈に合わぬ、上昇意識や、過大な、自己評価が、人々の心を、蝕み始めると、的外れな意見を、平気で吐く、人々の姿が、目立ち始めた。やればできる、はその典型で、自分への評価は、異常に高い反面、他人の評価は、低く保つ傾向は、徐々に、高まっていった。今まさに、そこにあるのでは、と思えるのだが、当人達は、そんなことは、微塵も考えず、不当な評価を、訴え続けている。何故、そんな簡単なことが、できないのか、と呆れるばかりだが、大真面目で、訴える人々の顔は、自信に溢れ、何の実績が無くとも、構わぬとばかり、叫び続ける。仕方なく、任せてみても、何も実現できず、責任転嫁を、続ける姿勢に、降格を決断すると、またぞろ、ハラスメントと、叫び出す。役立たず程、こんな調子では、少し、回復の兆しが見えても、軌道に乗るかは、心許ない。

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3月23日(月)−思い付き

 独り言は、思いつきを書く、と記してある。これ自体は、囀りなどの、社会媒体と、何も変わらない、と思う人が、居るのではないか。公開性は、同じ状況にあり、接続すれば、誰でも読める。だが、門の開け方には、大きな違いがある。大きな媒体と、ちっぽけなものとの。
 もう一つ、大きな違いがあるが、接続数の違いから、そちらは、あまり目立たない。その他多くの、独り言のような、嘗て、ブログと呼ばれた、媒体に関しては、それに付随した、意見箱などが、ある場合にしても、独り言も、意見箱も、ある意味、一方的な情報提供であり、最近の社会媒体の如き、双方向性のものではない。だから、炎上のような、危害を与えることも、起きないから、ある意味、安心なのではないか。だから、という訳でもないが、好き勝手な発言も、邪魔が入らず、綴ることができる。などと書くと、多分、多くの人々が、それは違う、と言うだろう。何しろ、社会媒体は、まさに、好き放題の発言を、繰り返すばかりで、時に、害悪としか、思えない程の、暴言、妄言を、連ねているからだ。匿名性としては、同じ状況にあるが、それに乗じて、次々と、名前を変えて、同じ害悪を、撒き散らす輩も、おそらく居るのだろう。仮想空間の、最大の問題点として、何度も指摘されるが、改められる、可能性は低いままだ。媒体の管理者責任が、何度、取り沙汰されても、何も変わらぬのは、何故かと、考えてみても、答えは、見つかりそうにない。それは、人間性の問題であり、そういうものに、基づく社会では、打ち消すことが、できそうにない。独り言は、嫌ならば、読まねば良い。だが、社会媒体は、時に、押し付けられ、何度も、表示される。だからこそ、拒絶という仕組みや、仲間内という括りが、導入されたのだろうが、それは、却って、問題を、拗らせている、のではないか。

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