不安とか心配とか、何故、そんなことばかり、口にしたり、文字にしたり、するのだろうか。だって、備えることが、大切だと、習ったから、というのなら、肝心の備えは、どうなのか。不安、心配は、分からぬもないが、肝心の備えが、何も無いままに、叫ぶだけなら。
一生懸命、そんな言葉を、叫び続け、皆の助けを、乞うている人に、備えは、と尋ねたら、その途端に、怒り出す人が、多いようだ。だから、肝心なことは、指摘せずに、ある意味の、無視を続ける。その方が、気楽だし、無理に、面倒を、背負い込むのは、御免蒙る、という人が多い。だから、いつまでも、不安も心配も、無くなることが、ないのでは、と思う。でも、理詰めで、この辺りのことを、追求したら、皆、何処かへ、行ってしまうのでは、と「心配」する人も居る。論理とか吟味とか、感情的になる人に、幾ら言っても、始まらないと言われる。確かに、不安や心配は、極々、感情的なものだけに、その弱点を、指摘されては、堪らない。その位は、気を遣ってやれ、とも言われるが、これ程までに、そのやり方が、横行してくると、どうにかならぬか、と思い始める人が、居るのではないか。そこにも、被害者意識が、働いており、自らを、弱者と決めつけ、被害を受けたから、救われるべき、などと言われたら、手を差し伸べる人も、居るだろう。だが、その実、何の被害も、受けておらず、却って、他の人に、害を及ぼすだけ、となっていたら、さて、どうすべきか。こちらの感覚では、理詰めで、問題点を、指摘することが、手始めと思い、それを、実行に移すのだが、その途端に、激昂されるから、溜まったものではない。間違いを、間違いとすることに、怒り狂うというのは、今の時代の、流行なのかも、などと思ったりも、するのだが、それが、害を産むのなら、やはり、過ちを指摘し、改めるように、と促すのが、当然と思う。この論理が、通用しなくなり、虐めの一種と、断じられたり、差別と、断定されると、はてさて、どうしたものか、と思う。権力を、握る人間が、まともなことを、話すことに対し、感情的になり、差別や虐めと、断じられるのは、間違いでしか無い、と思うのだが、どうか。もう面倒だ、となるのも、止む無し、とすべきか、それとも。
米騒動は、その典型だったと思うが、今も続く、詐欺話に便乗した、報道の無責任な、垂れ流しの連続には、呆れるしかない。その一方で、庶民は、社会媒体だけでなく、大衆媒体に対しても、吟味を繰り返し、大事な資産を、失わぬよう、注意を払う必要がある。
先日も、暴君の世迷い事に、便乗としか、思えない値上げが、行われた時、報道は、専ら、それを擁護し、先の見通しの悪さを、盛んに強調した。将来が、見通せないのは、当然のことで、その心配を、繰り返しつつ、その場その場の対応で、生き延びるのが、これまでの常だった。なのに、傾向と対策に、毒された現代社会は、盛んに、警句を飛ばすことで、責任放棄を、繰り返している。これに、庶民が、惑わされるのは、愚かなことだが、その圧力を、政に向けて、吐き出すのは、最悪の衆愚の現れ、としか思えない。その後も、見込みの欠如が、長引く戦いとなり、そこに、交渉術という、自慢の道具を、繰り出したものの、現実には、単なる騙し合いで、その応酬に、振り回される、世界の相場は、一部の人間の、ぼろ儲けに、繋がっただけだ。結局、解決には程遠く、どうなるか、見通せないばかりか、それに加えて、更に、煽りを加え、通行料なるものが、取り沙汰され始めた。確かに、一隻当たりの、金額を示せば、こちらの貨幣で、3億円になると言う。だが、巨大な船舶は、膨大な量の化石燃料を、運搬できる。原油に、当てられる単位では、200万バレル、だそうだが、バレルを、日常単位に直せば、160リットルだそうで、そこから、算出された、リットル当たりの、通行料は、1円となるそうだ。一つの新聞は、それを明記したが、この騒動に、便乗する動きでは、おそらく、末端価格に、その10倍か数十倍を、上乗せするのだろう。市場心理の、表れでしかない、この騒動も、得意とする、悲観論の、格好の材料となる。この馬鹿騒動は、所詮、一部地域の、覇権争いに、端を発したものに過ぎず、こちらにとっての、安定とは、直接的な関係にはない。その中で、暴君の迷走が、不安を煽り、世界規模への転換さえ、危ぶまれつつある。先の二度の大戦を、思い起こせば、対岸の火事と、見做すことは、過ちに思えるが。
気にもしない人間には、どうでもいいことに、違いないのだが、気になる人間は、手にした端末から、目を離せなくなり、その動向に、寝る間も惜しんで、集中する、と言われる。情報弱者が、損をするとの通説が、溢れ始めた頃から、ネットへの関心が、高まったのは事実だが。
今の状況は、病的としか、言いようがない。それほどの、魅力があるのか、と疑う人には、そこでの論争は、余りに下らなくて、取るに足りないことを、さも重要かの如く、書き連ねる輩の、知性どころか、品性さえ、疑いたくなるが、大真面目な人々は、そこに、情報の、宝の山がある、とでも信じているのか、必死で、情報収集に、励んでいるようだ。だが、所詮、そこに散らばるのは、嘘や出鱈目ばかりで、さも重要の如くに、言説を連ねる人々は、自らの無知に、気付くことなく、誤った情報に、基づく説明を、続ける。少し、知識があれば、その嘘は、即座に見分けが付くが、傾向と対策ばかりに、目が奪われる人々は、その違いに、気付く気配もなく、深みに嵌まっていく。何故、そんな嘘に、気付けないのか、少し考える力があり、吟味力を備えた人間には、不思議にしか、映らないのだが、正常な人間には、その理由が、全く見えてこない。だが、騙され続ける人は、何度やられても、同じ轍を踏み続け、二進も三進も、行かぬ状況にまで、落とされていく。そんな人々には、こんな便利さは、単に、害悪でしかなく、何の役にも、立たないばかりか、自分の時間や金までも、毟り取られる。無知であることは、普通は、恥でしかないが、この世界では、無知であるが故に、非論理的なことや、非常識さえも、当然のこととして、断定できる。となれば、怖いものなど、ある筈もなく、何度失敗して、何度非難されても、懲りることなく、知らない話に、首を突っ込み、非常識を、晒すこととなる。通常の感覚なら、面と向かって、馬鹿にされたり、罵倒されれば、二度と、同じことを、繰り返さぬものだが、匿名性の確保と、相手の顔が見えぬ状況に、平気の平左を、続けることができる。だから、幸せなのかも知れぬ。
若気の至りは、大成してから、懐かしがって、吐く言葉だが、反発は、若者の特権、と言われた時代もあった。特に、混乱が高まり、海を挟んだ、何方側でも、学園紛争と呼ばれる、社会への、反発運動が、高まった時代には、通らざるを得ない、道筋とも言われた。
だからこそ、大目に見て貰え、出世払いも含め、将来への期待が、重しとなったことも、あったと思う。昨日、新たな環境に、不慣れな人々が、混乱に戸惑う姿を、取り上げたが、今の状況は、上の話が出た時代とは、大きく異なるようだ。反発ならば、受け止めれば、それで済む。後々、そのつけが、回ってきた時に、借金を返せば、いいだけのことだった。だが、今の状況では、反発ではなく、依存ばかりが、目立っている。無能なのは、今も昔も、変わらぬことだが、反発は、それを承知の上で、無謀な試みを、断行する気持ちがあったが、今は、できないことを、棚に上げて、誰も手を貸さず、困り果てた姿を、曝け出した上で、何もかも、投げ出してしまう。その上で、手助けを受けるのは、当然の権利として、待ち続けてみたり、他人任せを、し続ける訳だ。いつから、要求だけが、拡大したのか、ある意味、不思議でしかないが、当事者達は、大真面目に、当然の権利を、主張し続ける。この借金は、仮令、何かの間違いで、成功を手に入れたとしても、返すつもりは、毛頭無く、成功は、自分の手柄、失敗は、他人の責任、という図式を、書き換えることは、一生出てこない。こんな馬鹿者が、いい大人になり、子供を育てると、どんなことが、起き始めるか。考えたくもないが、現実は、まさに、その延長線上に、あるのではないか。その中で、手にした端末から、不平不満を、当然の権利として、発信し続け、同じ愚かさの持ち主から、共感を得るのが、今時の若者の、常套手段となっている。悲鳴を上げれば、誰かが助けてくれる、との考えは、甘え以外の何物でもなく、その一方で、間違った情報を、そういう連中に、分け与えて、満足を得るのは、無知の典型となる。また、そんなことが、例年の如く、始まっているが、さて、どうなることか。
新年度が始まり、一週間が経過した。新たな環境で、戸惑うばかりの人や、既に、脱落した人が居る、と言われる。特に、職場では、期待外れ、と見る向きは、働く側にも、雇う側にも、見られる傾向だ。初日から、他人任せの、脱落が始まった、とまで報道されたが。
自己主張が、大切だと、教わりながら、育ったせいか、要求ばかりが、強まってきた。その結果として、現場での軋轢が、様々に、取り沙汰されるが、どうにもならぬ、としか思えぬ。渦中の人々が、主張を諦め、何処かに、収まることしか、期待のしようがないが、社会全体で見れば、瑣末なことに過ぎぬ。一方、学校が変わった人々は、まだ、本格始動とは、なっておらず、今は、何が起こるか、戦々恐々とするか、或いは、期待が、更に膨らむか、といった状況だろう。ただ、ここでも、既に、自己主張ばかりが、囀り界隈には、聞こえてくる。この仕組みが抱える、大きな問題であり、実情を、全く反映していない、と何度も指摘されるが、その通りと思う。自らの不明を、恥じることなく、非常識な見解を、表明するばかりか、それに伴い、異様な要求を、押し通そうとする。社会常識が、通用しないのは、若者の特権かもだが、それにしても、非常識加減は、強まるばかり、と映る。何故、こんなことが、起きるのか、については、まずは、周囲の大人の対応が、第一に考えられ、その上に、社会媒体などの、狭隘な環境が、その傾向を、増長するという、状況がある。社会全体から見て、非常識と思われても、仲間内では、絶対常識とまで、思い込める人間性は、井の中の蛙の、典型例としか思えず、このままでは、適応の機会は、得られぬまま、となることは、明白だろう。その中、節目において、自身を、変える手立ては、自分の心の中に、ある筈のもので、他人任せには、できないものだ。折角の、変わる機会を、逸することは、反省しても、仕切れぬものだが、当人のみならず、周囲までもが、同じ穴の狢、となるようでは、これにて終了、となっても仕方ない。ま、本人達の問題で、社会がどうするものでもないが。
無駄とは思わぬが、さて、どんな議論が、できたのだろう。突然の選挙で、野党は大敗を喫し、二院制の、優位な方で、著しい偏りが、生じてしまった。そこで、政府は、与党の優勢を、利用する形で、さっさと審議を済ませ、もう一方に、送ったのだが、そこで、齟齬が生じた。
といっても、予想できた話で、おそらく、簡単には進まず、例の如くの、邪魔が入るとの、見込みはできていた。だから、年度内成立が、できなくとも、一時的な手当てで、急場を凌げば、なんとかなる、と見込んだに違いない。それ自体には、疑いの余地は、無いものと見えるが、一方で、野党側が、盛んに主張した、十分な審議時間を、確保すべき、との話は、結局、どうなったのか。前にも触れたが、これまでも、予算委員会での審議で、予算そのものでなく、政治に関わる、全般に渡る議論が、行われてきたのは、野党側が、それを、質問項目として、政府に対して、提出したからだ。それにより、紛糾すれば、報道は、ここぞとばかりに、それを取り上げ、政治の混乱が、と結びつける。だが、予算そのものを、審議するのではなく、政治腐敗や、政治家の行動規範について、議論する場は、そこなのだろうか。特に、今回は、元々、時間が少なくなり、一昨年度までのような、悠長なやり方が、通用しない、と目される中で、いつも通りの調子で、大臣の不倫や、その他の問題について、論じようとする姿勢には、呆れる場面も、多かったように思う。本当に、予算項目そのものに、問題があるのであれば、ずっと以前から、それについての、議論を重ねる時間は、十分にあるのに、一体全体、この国の政治は、何をしているのか、とさえ、国民は思ってきただろう。そこに、今回のような、茶番にも似た、やり方については、もっと批判が、集まってもいい、とさえ思う。まあ、所詮、政とは、その程度のもので、選ばれし者達が、集まって、話し合って、という本来の姿ではなく、ただ、言いたい放題を、相手にぶつけて、相手も、それに対して、まともな返答もせず、の繰り返しとなる。世界全体に、その風潮が広まり、一方で、分断が強まる、と言われては、何が何やら、としか思えぬ。で、そろそろ成立らしい。
悲観一色の人達にとり、何と好都合な、世界情勢だろうか。暴君の囀りが、日々、猫の目のように、様々に変わるにつれ、皆の心は落ち着かず、紛争地域から、世界へと送り込まれる、原油の輸送は、滞っている。将来を、悲観するには、これ程強い、材料は無い、となる。
だが、政に関わる、人々にとり、同じ論調で、臨んでいたのでは、まさに、将来が無くなる。少しでも、良い材料を並べ、それを元に、将来が、好転することを、約束するしかない。だが、その側で、雑音を出すのも、悲観派の常なのだ。攻撃が、起きた途端に、末端価格を、上げる動きが、始まったのには、呆れるばかりだが、報道は、悲観一色となり、悪い材料を、重箱の隅から、拾い上げ続ける。何と、情けない人々か、と思うが、それこそが、耳目を集め、信頼を勝ち得る、唯一の手法とでも、思っているようだ。原油が、枯渇するまでには、暫く時間が、かかることは、明白だが、悲観には、そんな時間は、無いに等しい。まずは、いつ、無くなるか、という話を始め、その為の備えとして、節約を始めよう、という掛け声を上げる。いやはや、どうなることか、と思うこと頻りだが、彼らの耳に、届くのは、悪い話しかないらしい。宰相が、ある原材料の確保に、奔走する中、様々な方策により、4ヶ月から半年の、期間を提案したが、それに対して、悲観派は、何も聞こえず、何も好転しない、と断じるばかりだ。明日の、末端価格は、上がって当然だが、半年先の保証は、何もできない、とは、何事かと思うが、そんな論理は、通用しそうにない。今を、大切にすることが、まずは、肝要と思うが、どうだろう。また、今後の要素を、次々に、上げることは、将来への備え、と見做されるようだが、ありそうにない、可能性まで、論じるのは、愚かとしか思えぬ。災害への備えも含め、悲観論のみで、議論することには、危うさしか、感じられない。