案の定、昨日は、鉄道事故の話題で、持ちきりだった。それに比べ、囀りでは、殆ど話題とならぬ。理由は、おそらく、二昔前の出来事では、囀りの記録が、殆ど無かったからだろう。その5年程後の、大震災では、情報網として、社会媒体が、活躍したのだから、今は昔か。
何にしても、事故の後には、必ずと言っていい程、安全の話題が、持ち上がる。確かに、この事故の原因は、運転手の過ちであり、その原因が、精神にあったのか、未熟にあったのか、はたまた、社員指導にあったのか、そんなことも、直後は、取り沙汰されたが、そんな人為災害を、防ぐ為の仕組みが、あの路線では、採り入れられておらず、企業責任が、厳しく問われた。それはそれとして、重要な事柄には、違いないのだが、安全安心が、今ほど、強く求められる時代は、無いと言われるが如く、高い要求が、壁となって、聳り立つような、そんな気がしてくるのは、こちらが、心配性だからか。確かに、機械的に、異常を感知して、正常に戻す仕組みが、導入されてさえいれば、防げた事故との指摘は、当然のことと思う。ただ、何処まで、その整備を、求めるかについては、様々な意見が、あるようにも感じる。ある程度の水準までは、費用対効果と呼ばれる、数値が、許容範囲内に、留まるのだが、ある点を超えると、途端に、難しさが増し、費用の高騰が、大きな問題となる。私企業ならば、事業継続の為に、不可欠な要素となるから、覚悟の上で、挑まねばならぬが、大震災後に、問題となった事故でも、同じことが、適用されるのでは、と思えてくる。絶対の安全を、手に入れる為に、という論理は、元から破綻しているが、それに、気付けぬ人の数が、どんどん増えているのでは、とさえ思えるのだ。特に、社会媒体が、日常的なものに、なった頃から、その要求の高まりが、急となっており、そちらの立場の人々は、一層の苦しみを、強いられている。歩留まりは、言い過ぎと思うが、何処迄の要求が、妥当で、何処からが、論外となるのか、目の前の問題を、眺めつつ、考える必要が、あるのではないか。
「忘れない!」、との掛け声が、盛んに繰り返される。事ある度に、と言って仕舞えば、その通りかもだが、それにしても、どれ程のことを、覚えていろ、と言うのか。この国は、自然災害に、襲われることが、度々あり、その上に、人為災害が、加わると、お手上げ状態に。
と書くと、大袈裟な、と言われるだろう。その通りだろう、と思う。度々、とは言っても、記録に残るものなら、数限りなく、とはいかず、それぞれに、起きた日を、覚えておくのは、不可能ではない。だが、こうも毎日、記念日の如く、訴えられると、いい加減に、と思い始める。でも、画面も紙面も、そういった話題で、埋め尽くされて、嫌になってしまう。PTSDも、屡々、話題となるが、心的外傷後ストレス障害は、確かに、治療が必要となる、病気の一つなのだろうが、それとこれと、どちらを、優先すべきか。思い出させることが、心の不安を、掻き立てる、とする一方で、忘れるな、との言葉が、飛び交っている。何方を選べば、などと言うつもりは、毛頭ないのだが、それにしても、ある意味、暴力的とも思える、やり方と思う。ただ、以前なら、大衆媒体の、専売特許、とまで言われた、この手の話が、今では、社会媒体でも、盛んに、飛び交っている。元々、迷惑千万、と言いたくなるような、ものなのだが、これが、個人の手に渡ると、一層、問題が深くなり、人々の心を、苛むような、ものへと変貌する。手口は、似ているものの、悪質さにかけては、一層、増している、とさえ思えてくる。昔の記事を、何処かに、しまっておき、それを、別に記念日でなくとも、思い出したとでも、言いながら、貼り付ければ、それだけで、ばら撒いてくれる。加担するかは、別として、閲覧数が増え、「いいね」が、悪意のないままに、増えていけば、目に触れる機会も、増し続ける。一度掲げれば、暫くは、そのまま、繰り返されるから、放置すればいい。そんなことに、思い当たる人が、多いのではないか。この話、何処かで見た、という程度から、もっと鮮明な記憶まで、様々だが、影響力は、十分にある。
三重苦は、言い過ぎだろうが、報道は、まさに、そんな雰囲気で、盛んに煽り立てる。彼らの常道であり、役目と自認する、そんな姿勢なのだが、その中身の軽薄さは、いつものことながら、呆れるばかりだ。大衆媒体の、為体は、そんな形で、取り上げられ、マスゴミと揶揄される。
この程度なら、社会媒体の方が、ずっとまし、と思う人が、いるかもだが、現実には、石ばかりの中に、正しい情報を、掘り出さねばならず、安易に、賛同しかねるものだ。地震から始まり、それが、後発と呼ばれる、措置へと移った後に、山火事が、起きたとされる。それに加えられるのは、自然災害とは、ちょっと異なる、とさえ思える、熊の出没だ。どれも、避け難いものとして、並べられたのだが、それぞれの事情が、あまりに異なり、一緒に語るのは、いかがなものか、と思えている。後発に関しては、先日も、少し触れてみたが、確率が上がり、注意を要する、という意味で、常に、心に留め置く必要が、あると言われるが、さて、今になって、強調すべきものか、と訝しむ。確率は、確かに、低いものの、以前から、忘れた頃に、やってくるものとして、常に、注意すべきものだった、筈ではなかったか。次の、山火事に関しては、一年余り前に、大規模なものが、発生したことは、記憶に新しく、当時も、勢いが、収まりかけた頃から、断定的なものも含め、様々な憶測が飛び交い、仮説が、積み上げられた。にも拘らず、今回も、同様の調子で、恐怖を煽る内容が、垂れ流される。拡大するか否かには、それぞれの場所での、対応の積み重ねが、重要となる筈で、そのための憶測や仮定だったのでは、と思うのは、こちらだけで、現場も報道も、騒ぎ立てるのみ、にさえ見える。もっと酷いのは、熊の出没だろう。駆除方法に関して、冬眠前に、取り決めねば、と急いだ筈が、またぞろ、同じ調子で、現場の混乱が、伝えられる。駆除せねば、との考えは、どうなったのか、とさえ思えるが、報道の煽り姿勢が、それに加担するからか。何れにしても、三重苦は、暫く続くだろう。懲りもせず、とは言い過ぎか。
義務教育の義務は、国家に対するものでも、子供達へのものでもない。親の義務だが、誤解する人は、多いようだ。で、国が、こんなことを、決めたのは、家庭の事情、と称して、子供達の権利を、奪うことで、無償の労働を、手に入れる、という考えを、否定する為だ。
ただ、その交換条件の一つとして、公教育の場合には、ほぼ無償とした。ほぼとは、教育に係る、という範疇であり、食事代や、その他の経費には、適用せずとの意味だ。この辺りから、今の社会に広がる、もう一つの誤解が、生まれている。つまり、給食費の支払いを、拒否する親や、修学旅行をはじめとする、学校行事への、参加の拒否である。食べずに、済ませるのなら、対価を、支払う必要は、出てこないが、他の児童が、食べているから、自分の子も、その権利がある、との主張の一方で、支払い拒否だから、矛盾に満ちている。理由の一つには、貧困があるが、それは、別の形での、支援を請求すべきで、それ無しに、権利としての主張は、誤りと思う。一方で、この貧困社会の問題は、次々に、標的を定めて、要求を増やしている。義務教育期間を超え、進学の自由が、明白な高校や大学にさえ、無償化を求め、それが、当然の権利と、訴えることには、異論を唱えたくなる。平等が、真っ先に、掲げられる権利だが、何をどうすることが、平等へと結び付くのか、理解不能に陥る。人材育成は、国にとっての、喫緊の課題だから、との主張も、実しやかに、論じられるが、誰が、人材となるのか、その資格はあるか、そんな指標で、この議論を、進めることが、起きないのは、何故だろうか。簡単には、今の教育現場の、荒廃ぶりを、眺めれば、明白になるが、その状況から、目を逸らした上に、平等でないから、意欲が上がらず、現状を招いた、とまで言い出す始末には、呆れるしかない。自らを、人材として、確かなものにする。そんな目的で、進学するのなら、その努力を、怠ることは、許されないし、その為の、支払いを、拒む理由など、見つかる筈も無い。だとしたら、無償化は、無意味と思えるが、どうだろう。ここでは、その原資として、税金が使われるが、その意味は、国民全体で、次代を担う人材の育成を、支援することだ。その同意が、得られるかは、対象となる人間の、心掛け次第と思うが、いかがだろう。
囀りにも、書くようにしている。ただ、反響の有る無しは、実は、誰の囀りに、反応するか、によるようだ。また、内容にも、よる部分が大きい。書く方は、大切なこと、と思っているのだが、その前の反応で、左右される、ということは、多分、読む人の気持ち次第か。
独り言でも、囀りで書いた意見を、転載したことがあった。こちらへの反応は、訪問者の数しか、知る術が無い。囀りなら、「いいね」の数で、反響の大きさが、分かるだろうし、また、閲覧数も、大きな要素となる。教育について、幾つか書いた時、僅かだが、反応はあったものの、芳しくはない。とは言え、気になることだから、何度も、重ねて書いてきた。今回は、最近、話題になっている、教科書代について、意見を書いてみたが、殆ど反応が無い。まあ、話題とは言え、身勝手な意見が、殆どであり、多くの人には、どうでもいい、のかも知れぬ。こちらが、書いたのは、次のとおりだ、引用してみる。”なんでも無償はどうかと思う。大学教科書は一つの解決法として授業料に含めてとの意見もあるが、もう一歩進めてタブレットで電子ファイルに接続としてはと思う。出版社も最近の書籍は印刷用に電子化しているので。その上で、卒業後に印刷媒体を希望したら、改めて購入を”、とした。以前、授業料についても、講義単位当たりに、してはどうか、と書いたが、それとは、少し違う話だ。ただ、重い印刷媒体を、持ち歩く不便と、最近の、何でも電子化、の流れに乗せて、端末に、教科書のデータを、搭載させて、在学中は、それを参照させ、卒業後に、接続権を喪失した際に、印刷媒体の、購入を検討しては、という意見だ。価格の問題が、懸念材料とされるなら、こういう方式で、時限的な利用で、価格を抑え、それを、授業料に、上乗せさせる。出版業界も、印刷用に、電子化しており、そのまま流用すれば、新たな作業は、不要となるから、皆にとって、有用となる、と思えるのだが。と思って書いたが、何の反響もなく、閲覧数も、増えていかない。無償化ばかりに、目が向く時代に、合理性は、魅力無し、と映るのか。
0.1%から1%に、変えられて、どう感じただろう。流石に、10倍になった、との報道は無いが、でも、確率的には、まさに、その通りだ。だが、千回に一回から、百回に一回、となった、と言われたら、どうか。どれもこれも、数字なのだが、表現方法で、印象が違ってくるか。
地震の話は、この手の話題で、事欠かない。正確に、伝えようとする一方、皆の心に、正しく伝わったかは、別の話になるらしく、時に、脅し文句が、並ぶことさえある。典型は、三十年以内に、70%の確率で、巨大地震が、という話だろう。でも、一部の学者は、ある期間に、「確実に」起きる、とまで言ったとある。何方にしても、結構な可能性であり、誰もが、恐れ慄くこととなる。だが、本当かどうかは、誰もが、保証できないこと、なのではないか。特に、「確実に」の一言を、付けた途端に、嘘となりかねない。だが、備えの為には、そうせざるを得ない、とまで、例の役所の人々は、断言しているらしい。だから、地震だけでなく、豪雨などの、自然災害に関しても、避難の必要性を、訴える目的で、過激としか、思えぬ表現が、並ぶばかりか、毎年、新しい表現が、登場する。確かに、災害は、地震にしろ、豪雨にしろ、起きてしまえば、犠牲者が、かなりの数に、上る場合が多い。だから、心配と不安を、募らさねば、安全や安心が、確保できない、と言うのだ。でも、一方で、普段から、心配や不安を、口にし続ける、庶民達の多くは、警報に従うことは、殆ど無いままに、何も起きないことで、安心を、手に入れたと感じる。この遣り取りには、何か、大切なことが、欠けているのか、と思うことはあるが、さて、何をどうしたら、「絶対的な」安全や安心が、手に入れられるか、見つけるのは、難しいようだ。それは、ある意味、当然であり、面倒の一言で、何事も、やり過ごす人々が、災害に遭う可能性が、増えるのだ。本当に、不安や心配に、心が苛まれるのなら、何か起きそう、と言われたら、すぐに対応する筈だが、そうはならない。この心理に対して、責任ある立場の人々が、盛んに、脅しつけるのは、間違いではないだろう。ただ、予想を外すと、罵声が飛び交い、時に、責任問題となる。ここを、解決しない限り、無理難題のままだろう。不可能だろうか。
いまだに、言われているのか。褒めて育てる、という掛け声が、嘗て、この国に、急速に広がった、ことがある。海の向こうから、押し寄せてきた、間違った考えが、流布されるのは、これに、限ったことでなく、あらゆることに、そんな事例が、溢れているが、それにしても。
と思うこと、頻りなのだが、これこそが、間違っているのか。褒めて育てる、という考えが、全て誤りだ、とは言わないが、何処まで、そんな戯言が、通用するのか、と思えてしまう。これと並ぶ、考え方の一つに、他人に優しく、というものがある。これもまた、褒めて、という考えと、並ぶものとして、推奨されるが、どうしたものか。他人が、間違いを犯しても、それを、別の人や環境に、責任転嫁する。目の前の人間を、傷つけぬよう、との配慮と言われるが、はてさて、何がしたいのか。子育てを、少ししてみれば、叱ることの大切さに、気付く筈だが、その気配は、全く見えず、ただただ、闇雲に、褒め称える。いや、そんなことしても、悪戯は、無くならない、と思うが、叱ることで、萎縮させるのが、いけないとの考えを、優先させるようだ。そんなこんなで、周囲の人達から、いい人と呼ばれ、安心するらしい。成る程、いい人という言葉を、欲しいだけか、と思えば、納得できる。だが、それが、別の問題を、生じると、今、画面から流れる、話は、伝えている。何故なら、そんなことをしても、自信を持つことが、できないから、困っている、という人が、居るからなのだ。えっ、と思うのは、いつもながらだが、他人には、優しくできるのに、何故か、自分には、厳しくなる、という心情が、あるのだそうだ。全く理解不能だが、大真面目に、そのことを、伝え続ける。その説明を、聞いていても、何も理解が進まぬ。これでは、駄目だとなる、のだろうか。いや、何事にも、冷静に、分析すれば、何も心配なく、自分なりに、できることが、見つけられ、それを、粛々と、こなしていけば、他人の評価は、それなりになり、評価も高まる。と思うのだが、そうではない、と断言している。不思議な世界だが、そちらの方が、当たり前らしい。