何故、人は皆、自分を、大きく見せたがるのか。などと書くと、そんなことはない!、との反論が、押し寄せるかもだが、囀りなどでは、自信無さげに、同意を求める意見の一方で、矢鱈に、自慢するが如くに、努力や苦労を、書き連ねる。その末に、今の自分がある、とでも。
確かに、その人の地位は、努力と苦労の末に、手に入れたもので、業績の数々も、同様なのだろうが、それが、他にも通ずるとは、限らない、と思う。独り言は、自分のことを、中心に書き綴るから、ここでも、自分の話となるが、特に、努力や苦労を重ねた、とは思っていない。他人から見て、どう見えるのか、については、上に書いた話同様に、触れてみても、仕方ないことだろう。自分が、どう思うか、という点に、絞って話をすれば、世間的には、成功した人間、の範疇に、当てはまると思うが、それが、他人に、自慢できる程の、努力や苦労の結果、などとは、思ってもいない。自分が、できることを、その場その場で、行ってきた結果は、努力や苦労ではなく、役目を果たそう、とするような、感覚に近いものだ。何故、こんなことを、書くのか、についても、自慢げに、書き連ねる人は、おそらく、他人に、認められたい、との欲求が、動機の一つに、なっているのだろうが、こちらには、そんな気持ちは、殆ど起きていない。確かに、認められた方が、仕事も、やりやすくなるし、協力も、得られるに、違いないのだろうが、それで、手に入るものに、大した変化は、起きないと思う。それより、反感を抱かれ、邪魔されることの方が、大きいのでは。と言っても、パンチの場合は、自慢もせず、努力も苦労も、特に、ひけらかすことも、していなかったが、邪魔は、山のように、押し寄せてきた。人徳、と言われれば、それまでだが、そんな他人の行状に、苦言を呈したり、反対に、邪魔者の邪魔を、したりするのは、馬鹿げたこと、と思うから、何もしてこなかった。で、今の結果だ。これもまた、できることを、やったから、と思えば、それでいいと思う。
国立大学への、運営費交付金、所謂予算が、増額されて、少し光が見えた、と思った。そういう感想を、囀りにも書き、ここにも書いたと思うが、問題は、その使い道だろう。予算削減が、四半世紀程も、続く中で、当然ながら、様々に、規模縮小を、繰り返してきた。
耐震対策として、補強工事が、行われたのは、法律上からも、当然のことで、その予算は、確保されたものの、全体としては、削減が続き、遂に、人員削減も、限界が見えていた。そこに、朗報が届いたが、果たして、本体自身が、何をどう、回復させるのか、あるいは、新たな戦略を、検討すべきなのか、改めて、考えるべきことが、山積みなのが、はっきりした。本来、法人化を機に、経営を主体として、取捨選択により、大学としての、責務を果たすべきか、考える時期だったが、それは、無い袖の一言で、対症療法の連続で、考えることさえ、放棄した所も、多かったと思う。特に、経営陣が、その責務を、果たそうとしないばかりか、組織の末端にまで、染み付いた、貧窮意識が、何事にも、意欲を失い、教え授けることさえ、放棄し始め、存在意義さえ、失いかけていた。遅きに失した、と言われる中、予算増額を決めた、国の財布を、預かる省庁は、それでも、やれとの命令を、下している。一方で、進学者の数は、世代人口減により、減り続けることが、明白なだけに、将来展望も、暗澹とせざるを得ず、遂に、学校数の減少の、見込みを発表した。弱肉強食の時代、と言われて久しいが、ここでも、競争社会であり、成果を上げねば、舞台を去るしかない。そんな中で、この発表を、当然と受け止める向きと、監督官庁でもないのに、何を、余計な口出しを、とする向きとが、見えてくるが、本質的な部分では、存在意義を、果たせぬのなら、消えるしかない、となるのだ。それも、実は、進学者との関わりで、成立する話であり、そこに、目を向けずして、身勝手な議論を、行う人々には、黙れの一言を、投げたくなる。人材育成が、第一であるなら、それに必要なことを、大学は、せねばならず、学生に、何かを強いるのも、当然となる。さて、どう考えるのか。
昨日の独り言を読んで、所詮、子供の話、と片付ける人も、居るだろう。でも、これまで、何度も聞かされたのは、大人の話に、騙され続けた、子供の話ばかりで、右も左も、判断つかないものだった。それに対し、この小説家の話は、十分な判断力を、有するものだ。
にも拘らず、勝つ筈との話を、信じ切っており、その線に沿った、論理展開も、十分なものが、練り上げられている。ある意味、大人と変わらず、子供なりの判断で、自らも、戦争への加担を、惜しまぬ姿勢を、作り上げている。そこには、無知な子供の話、ではなく、十分な判断力があり、自分の夢を、描く一方で、国が突き進んだ、戦争への道に、自分も、乗ろうとする、そんな姿勢が、現れていた。その意味で、貴重な話であり、戦争に加担した、当時の小説家や、反対して、弾圧された、小説家などが、戦後になって、語った話とは、また異なった、雰囲気が漂う。それも、後に、作家となり、物書きとなった人が、時間が経過する中で、様々な考えを、巡らせた上で、当時のことを、書き記そうとした、そんな背景から、何か、全く別の感覚に、溢れているように、見えてくる。それも、当時のことを、できる限りに、再現したものだろうから、更に、貴重に思えるのだ。こういう記録は、印刷物として、後世にも残るから、誰もが、読むことができ、自分で、確かめることが、できる。創作、として片付けるのは、少し違うような、そんな気がするが、どうだろうか。日記のような、形式をとっているが、最後の纏めで、当時と今の、違いに触れたことが、更に、価値を高めている、ようにさえ見える、と書くと、持ち上げ過ぎだろうか。何れにしても、物書きとして、残したい、と思ったからこそ、出版に漕ぎ着けたのだろう。それに対し、読者が、どんな感想を、抱くのかは、人それぞれだ。自分の経験と、照らし合わせる、老齢の人もいれば、戦争を知らぬ世代は、全く異なる印象を抱く。後者の立場から、興味深い内容だった。
もう一つ、今月読んだ本を、紹介したい。これも、有名な女性小説家が、著したものだが、彼女が、戦中に、学校に通った時代に、書いたものの紹介と、その頃の心持ちを、書き記した記録だ。正直な気持ち、が現れていて、とても印象的だったし、当時からの創作意欲に、感服する。
戦後、無謀な戦いに、突入したことへの、反省からか、反戦的な考え方が、主流となり、戦前は、国家挙げての、教育により、子供達の心に、戦争肯定の、考えを植え付けた、と言われ、そのように、教育されてきた。確かに、純粋な心を、弄んだ大人達が、居たことは事実で、それにより、利益を得た輩も、暗躍したのだろう。だが、その最中の、子供達の心の動きは、殆ど伝わらず、一方的な否定が、主流となっていた。その意味で、子供の心が、無視されたのは、今も昔も変わらず、大人の身勝手が、押し通されることに、何の違いも無い、と思えてきた。だが、この本を読み、その当時の、筆者の戦争への、考え方や、自分の心の動きとの、関係が、明らかにされると、ふと、違った考えが、芽吹いてくる。暴挙の全否定により、自らの存在を、肯定しようとする、心の動きを、蔑むつもりは無いが、否定された人の、心持ちにまで、思いを馳せずに、何も知ろうとせずに、否定し続けるのは、どうかと思う。これは、一つには、大衆媒体の、責任問題との、関係から出た、話なのだろうが、それにしても、こういう馬鹿げた、論調に乗せられる、大人達の浅慮に、もっと、思うべきことが、あるように思える。まあ、そうは言っても、今更、どうにもならぬ、との考えも、ある意味当然で、無力感を、抱くことで、責任逃れだろうが、責任転嫁だろうが、そんな言い訳を、せねばならない、事情をも、受け入れるべきかも。ただ、彼女が、戦後何年も経て、こういうものを、著した気持ちは、受け取る必要が、あるのではないか。一人で、できることは、小さいが、一人からでも、始めて欲しい、との思いを。
暴君の迷走は、止まるところを知らぬ。からか、市場は、右往左往を、止めたらしい。確かに、心理的な動揺は、収まってはいない。だが、日々、猫の目の如く、コロコロと変わる、情勢に対して、動き回れば、損失は、増えるばかりで、何の得にも、ならないからだ。
当然ながら、彼の言動の、先を読んで、立ち回れば、濡れ手に粟の如く、儲けられるに、違いない。だが、これ程までに、不安定な心理の、先を読むことは、非常に困難であり、火傷をすることも、起きてくる。その上、爆撃が、始まった当初は、早々に、かたがつくと、思われたのに、今では、泥沼化し始め、暴君の言動は、信じるに足らぬもの、となってしまった。毎週末に、不穏当な発言を、続けた結果、はじめのうちは、恐れるような反応が、世界中の市場で、起きていたのだが、いつの間にか、免疫ができたが如く、不感症を、発症したように、なっている。そうなると、先読みも、難しくなるばかりで、そこに、油を注ぐのは、発言自体が、揺れ動くように、なったことだろう。このままでは、儲けと損失が、確率的にしか、起きなくなるから、長く投資に関わった、人々は、手を引くように、なったのだろう。では、次は、何が起きるのか。問題は、解決しておらず、燃料の供給は、不安定なままだから、収束を、期待する訳にも、いかぬ話だろう。その中、次は何、という疑問は、世界中の、誰もが抱くもので、解決法は、見つからぬままだ。ただ、焦ってみても、始まらぬのは、明白だろう。先行き不安から、何でも値上げ、という動きが、起きたのは事実だが、その根拠の薄弱さは、明らかとなった。もし、そうなら、様子を見る中で、米騒動と、同じようなことが、起きるに違いない。ありもしない、市場原理に、縛られるより、市場心理で、慌てふためく、物価の動向は、心変わりの結果、落ち着き場所を、見つけるからだ。泡銭は、何処かに消え、確実な商売への、回帰を、余儀なくされる。もう暫くの、辛抱なのか。
今月読んだ本は、あと数日で、公開するのだが、中に、興味深いものが、あった。小説家の、小説の書き方は、綴り方教室などで、よく知られた所だが、この本は、少し趣が異なる。自分が、著してきた、作品の内容を、紹介しながら、その時々で、出てきた話題を、綴っていた。
長編小説では、連載が、基本となるから、締め切りを守るのは、当然のこと、と思われているが、それでも、日が迫り、追い詰められる中、光が見えた、などという話が、実しやかに、語られるものだ。でも、この小説家は、主に、短編、それもかなり短い作品で、名を成した人物で、一作一作が、別々なものだけに、締め切りも、少し違った感覚で、あるのだろう。だが、本人の矜持は、締め切りを守ること、だそうで、その心掛けにとり、重要なことを、説明していた。要するに、最高のものを、書こうと思わず、締め切り優先で、その場その場の、話題を拾い上げ、纏めるものの、必ずしも、満足の行くもの、となるとは限らず、時に、発表後に、下を向くしかない、となる場合も、多かったと言う。とはいえ、人気作家だけに、作品数も、膨大であり、本人曰く、玉石混淆、なのかも知れぬが、にしても、耳目を集めたものも、数え切れぬ程に、残している。高齢だが、まだ、現役を貫いており、最近も、出演したと聞くが、そこでも、不思議な話を、語っていたらしい。先日亡くなった、連れ合いの様子を、伝えるものだった、とのことだが、認知症を患い、看病を続けることを、諦めたことから、施設に、預けたらしいが、本人の動揺を、抑えようと、面会に行かず、知り合いにも、そうして欲しい、と伝えたとのこと。深慮の末、だろうが、人によっては、非情なもの、に見えるかもだが、淡々と、語る姿に、真意が、伝わったのでは、と漏れ聞いた。一方で、先程の話を、続ければ、締め切り第一の考えと、出来の良さに、拘らぬとの姿勢には、大切なことが、あると受け取った。世の中、大した能力も無いのに、締め切りを破り、出来の悪いものさえ、出してこない連中が、一杯居るのだ。
自分の意見が、世界を駆け巡る。こんなに嬉しいことはない、と思う人が多いのだろう。社会媒体は、まさに、その典型であり、誰もが、手にした端末から、好き勝手なことを、書き連ねている。それが、耳目を集めるかは、内容の質によるらしい。だが、これ、本当か。
この独り言は、そういった媒体とは、異なるものだろう。運営は、自身で行い、誰もが、接続できる状況だが、その割に、耳目を集めることは、稀でしかない。理由は簡単で、入り口が、違っているからだ。ブログ、と呼ばれた代物も、それを、専門に扱う供給者を、通せば、誰の目にも、触れることができた。ただ、その時代と、今の社会媒体の違いは、供給の仕方、にあるのではないか。特に、最近の傾向は、それが強まっており、何故、と思う程に、ある偏りを持って、日々の書き込みが、表示される。これで、世界中の出来事を、網羅している、と思ったら、大いなる誤解となる。自分の興味に、従う形で、供給側が、仕組んでいるのだ。だから、同じような、考え方や、受け取り方を、する人々の意見が、氾濫することとなる。その上、最近は、言語の壁が、壊されつつあり、どんな言語の意見でも、読み手の言語に、自動翻訳され、供給されることになる。一々、意見の内容を、読み手が翻訳する必要がなくなり、結果として、誰もが、言語の壁を、感じないままに、意見交換できる。便利な時代、になったのだろうか、それとも。こうなると、意見の論理性が、重要になるのでは、と思う。例えば、大学教育に関して、その意義を重視する意見と、そうでない意見が、交錯する中で、それぞれの論理性は、かなり欠落しており、とても、高等教育に、携わる人間が、出したものとは、思えない。社会媒体の問題は、ここにある、とさえ思えるが、当事者達は、互いに、悦に入って、自慢げに、持論を展開する。その論理の綻びに、気付く気配はなく、ただ、耳目を集めさえすれば、それで、勝ち誇ったように、なっている訳だ。子供の玩具、であるまいに、この状況では、先が思いやられる。と書いても、反論を掲げても、誰も見向きもしないのだから、この社会は、所詮、その程度のものか。