パンチの独り言

(2026年5月18日〜5月24日)
(判断基準、利潤追求、悪巧み、余計なのか、人間なのか、狭い社会、誰の常識)



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5月24日(日)−誰の常識

 常識と非常識の間には、歴とした違いが、あると思うが、どうだろうか。こんなことに、疑問を挟まねばならないのは、世間の考え方が、ある偏りを、見せ始めたから、なのではないか、と思う。これは、また、主観と客観の違い、にも通じるのでは、と思うが、どうだろう。
 子供は、育つにつれて、考え方を、徐々に変える必要に、迫られる。自分の周囲、だけに目を向け、その中で、通用する考え方で、全てのことが、片付く年代から、周囲との違いを、意識し始め、全体として、どう考えるかが、重要になり始める、年代へと、移り変わるからだ。これは、まさに、主観と客観の違い、であるに違いないが、多くの子供達が、その違いについて、誤った受け取り方を、させられている。これは、主に、大人の責任なのだが、それにより、子供達が、成人した後も、同じ拘りに縛られ、客観は、周囲に押し付けられるもの、主観は、自分自身の自由な考え、という区別を、信じ込んでしまう。未熟なだけ、として、ある時代までは、若気の至りと、片付けられたものが、今や、市民権を得るばかりか、大勢を占める、ようになってしまった。今、社会媒体などで、盛んに、展開される考えには、そんな形式のものが、溢れている。当人達は、至って大真面目に、この考え方が、正当なものと、主張し続けるが、ぱっと見だけで、綻びが見えている。それ程に、明らかな過ちを、強く主張し続けるのは、あの世界の中で、同調者が、すぐに集まるからだが、だからといって、それが、正しいものとは、限らない。ただ、それをきっかけとして、常識と非常識の区別が、あらぬ所で、つけられてしまい、非常識が、当然の常識と、姿を変えてしまう。同様に、強い偏りに基づく、主観的な考えを、当然の如く、主張し続ける。これでは、話にならない、とほんの一握りの人間が、断じたとしても、あの社会の中では、多勢に無勢に思われ、集団的な虐めの、対象とされてしまう。仮想空間だからこそ、身勝手な主張が、まかり通るのだが、今の所、実空間では、通用しないとされる。だが、早晩、立場の逆転が、起きかねぬ、との懸念が、広がっている。杞憂に終われば、との淡い期待も、この時代、弾け飛ぶ可能性が、無い訳ではない。

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5月23日(土)−狭い社会

 昨日の続き、のようなものだが、理解不能なのを、非常識と呼びたい、所なのだ。だが、今の時代、それが、憚られることが、殆どではないか。非常識、と呼んだ途端に、それは、お前だけのことで、世間的には、極極当然の、常識なのだ、と断じられる。おかしいと思うが。
 特に、子供の行動には、常識を外れた、そんなものが、目立つように感じる。それも、最近の傾向では、非常識ではなく、当たり前のものであり、親も公認の、行動だと返される。確かに、時代の変遷と共に、世間の考えが、変わることは、多々あるのだが、昨日のようなことに、非常識が、当てはまらぬのは、納得がいかない。貧困の中、困り果てた子供らが、常軌を逸した行動に、出るのも、やむを得ぬ、とする人がいるが、今回の例が、それに当てはまるのか、怪しいと思う。また、仮令、貧困の中でも、許されぬことは、歴然としてあり、それを、背景を事情として、許そうとする、そういう心持ちは、理解に苦しむ。不適切なものが、目立つからこそ、そんな指摘を、するのだが、それ自体が、批判の対象となる。他人の行動を、縛ることは、けしからん、と言わんばかりの、論調が目立つが、それもそれとして、意味不明に思う。社会の秩序、を考えれば、すぐに、理解できる筈だが、それ自体が、難しくなっている。それに対して、何故、と問いかけても、結局は、跳ね返されるだけで、理解できぬ人間が、非常識だとさえ、断じられる。この異常事態に、どう対処すれば、いいのだろう。凶悪な事件が、起こる度に、その犯人を、捕まえて、厳罰に処せば、それで、良い方に向かう、とでも、言うのだろうか。現状を、見る限り、とても、そう思える状況には、ない。何しろ、異常な行動を、非常識と決めつけられず、理解を示すべき、と叱責する場合さえ、出てきている。そろそろ、他人の行動も含め、自分で自分を、制御できぬ人間を、厳しく扱う必要が、あるのではないか。バレなきゃ、何をしても構わぬ、という、社会媒体の常識は、小さな箱の中の、話でしかないのだから。

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5月22日(金)−人間なのか

 ここを、読んでくれる人に、尋ねてみたい。兎に角、理解できないことが、あり過ぎるのだ。それらの中から、話題を拾い上げ、何処がどう、理解不能なのか、道理が通らず、理不尽と映るのは、何故か、について、書き綴ってきた。こちらには、変だな、としか思えぬが。
 他の人々が、どう感じるのかは、尋ねてみなければ、解らぬ話だ。だから、はじめに書いたように、尋ねてみたいのだ。その一つ、ごく最近に、起きた事件の話で、この所、大衆媒体は、持ちきりとなる。あの媒体の、常として、解釈なるものが、展開されるのだが、それが、どうにも、理解不能である。事件とは、ここ数年、詐欺に続く、大事件として、盛んに取り上げられる、強盗事件の数々だ。それも、以前なら、単独犯であり、こそ泥と呼ばれる、留守宅に侵入して、金品を奪うのが、頻々と起きていたのに対し、強盗と呼ばれるように、住民が、寝入っている中や、昼日中に、堂々と侵入する、凶悪事件のことで、時に、傷害や殺人にまで、至ることがある。ただ、これも、単独か集団か、だけでなく、特殊な事情が、あるものであり、仕組みとして、詐欺事件とも繋がる、とされたものだ。社会媒体を介して、募集されたとされる、強盗集団は、その多くが、金に困ったとされ、多額の報酬に、引き寄せられた、とされるが、その考え方自体も、信じ難く、理解不能となる。詐欺事件でも、同様の図式が、あると言われるが、今回のものは、更に、異常性が際立ち、高校生が、バイトと思った、などと報じられる。常識的には、俄かに、信じ難いと思うのは、真夜中に、高校生のバイト、という話そのもので、その時点で、普通の感覚では、理解できぬ。なのに、報道は、それが、当然の如く、伝える訳で、意味不明としか、思えない。「闇バイト」や「トクリュウ」などという、呼称に関しても、異常性を、強調する為で、何の意味も、持たぬ筈だ。ある意味、茶番としか、思えない事件が、殺人を、安易に起こす、までに至る理由は、同じく、理解不能でしかなく、理解しよう、という気も起きない。人間として、無意味な存在、とは、余りにも、劣悪な表現だが、そんなことしか、感じられない。

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5月21日(木)−余計なのか

 先日の、嫌がらせやいじめ、についての考え方は、今では、受けた側の感覚が、優先される、とのことだが、少々、拗れる所もある。同じ、とは言わぬが、差別についても、似た考え方が、適用されるようで、差別を、受けた側が、どう受け取ったかが、肝心となる、らしい。
 だが、何方の場合も、やはり、簡単には、決められそうにない。だからこそ、嫌がらせやいじめについては、最近では、受けた側の主観だけでなく、客観的な観点から、判断することが、多くなっているようだ。これは、時代の趨勢で、そんな考えが、尊重される前には、加害者の意識が、第一とされていたのだから、大きく変わったとも言える。ただ、受けた側のみを、尊重することが、続く中で、様々な問題が、生じたに違いなく、余りに、偏った見方が、採用されるのに、異論が出たからだろう。差別についても、よく似た状況だが、こちらは、もう一つ、大きな問題が、出てきたように思う。差別の解消は、喫緊の課題となり、それを、最優先とする、制度の改正や、新たな方策が、講じられた結果、立場の逆転が生じ、所謂、逆差別なる状況が、生まれたことにある。それまで、虐げられた人々を、救済する為、と称する措置は、その多くが、差別を受けた人を、優先的に、扱うものとなったが、時に、一つの席を、競う場合には、それにより、他の人々を、排除することとなり、別の差別、所謂逆差別を、招いたとされた。これ自体を、悪いこととすると、結局は、差別の解消が、行えぬこととなり、全体が、停滞することとなる。だから、多くが、一度決めたことを、貫くことで、はじめの目的を、果たそうとしてきた。だが、それが、重なると、差別された側ではなく、差別した側が、虐げられることとなり、別の形の不平不満が、蓄積することとなる。では、どうすれば、いいのかと、議論が進められるが、どうにも、結論が出そうにない。更に、問題を、拗らせるのは、差別解消が、次の世代で、行われる場合で、結局、被害者は、救済されず、何の関係もない人間が、運良く、利を得る、こととなる。それにまた、差別の根源は、取り除かれず、解決には、結び付かぬ。ただ、最後に挙げた状況は、時間の流れの中で、措置が取られる以上、他に、選択の無いもの、と見るべきかと。所詮は、根本解決ではなく、応急措置の如き、ものであるだけに、この辺りが、精々かもと思う。ただ、本当に、実力主義なら、こんな誤魔化しは、不要の筈と思う。

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5月20日(水)−悪巧み

 日々、何故とか、どうしてとか、思ったことを、独り言に、綴っている。読む人が、どう思うかは、誰も、反応を、示してくれないので、全く分からない。でも、こちらとしては、同じように、疑問に思っているのでは、という感覚で、思うこと、思いついたことを、書き連ねる。
 で、何故、そんな印象を、抱くのかについても、重要なことが、あるように思う。こんな印象が、浮かぶのは、実は、誰かと話して、というわけでなく、毎朝届く、新聞を読んだり、画面から漏れる、話を聞いたり、そんなことをして、起きることだ。多分、これについても、多くの人々が、同じ感覚を、受けていると思う。それ程に、世の中で、流されている、情報には、首を傾げたくなることや、疑問に思うことが、溢れている。ここでは、論理的に、物事を考えるとか、筋道を立てて、話をするとか、そんなことを、盛んに、書いてきているが、その立場から見て、おかしい、としか思えぬ話が、実しやかに、新聞などの、大衆媒体から、流れてくるのだ。普通の感覚では、そうはならぬ、としか思えぬ話や、それは、非論理的でしかない、と思える話などが、次々に流され、誰が、こんな愚かな話を、自慢げに、滔々と、語っているのか、とさえ、思えてくる。最近は、長く続いた、物価を抑える経済が、正常に戻り始め、何もかもが、値上がり続きで、将来の生活に、不安が過ぎることが、多くなったが、それとても、異常な話、としか思えぬ話題が、満載なのだ。原油を、掘り出すことで、豊かさを、享受する国々が、集まる地域で、突然の、攻撃が始まった時、確かに、供給への不安が、取り沙汰されるのも、当然と思えるが、それにしても、攻撃の翌日に、ガソリンの値上げ、となるのは、意味不明であり、理解不能に陥る。それに続き、あらゆるものが、値上げへと、舵を切ったのは、運送費の高騰、との解釈が、施されたが、これとて、すぐにか、と思うのが、普通の感覚だ。その上、原油から生産されるもの、ナフサと呼ばれるが、それの供給が、不安だからと、川下の製品が、軒並み、値上げとか、不足とか、そんな論理を、展開されると、驚くしかない。笑うしかないのは、シンナーが、棚から消えた、との話で、誰が、何を企むのか、としか思えず、取って付けたが如くの、解説には、耳を疑うばかりだ。経済の正常化とは、ただ、金儲けを企む輩に、好都合なもの、でしかないのか。だとしたら、悪巧みでしかなく、異常としか、思えぬ状況だろう。

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5月19日(火)−利潤追求

 便利な時代である。手にした端末で、世の中の動きを、ほぼ全て、把握できるだけでなく、過去の出来事や、一般的なものだけでなく、ごく限られた人しか、身に付けていない、知識でさえ、眺めることができる。情報社会、と呼ばれる状況だが、便利なだけだろうか。
 先日の、接続業者の変更は、特に、確かな目的を、持ったものでも、なかったのだが、変えてみたら、突然、不便さを強いられた。困った挙句に、これもまた、社会媒体を通して、友達に尋ねたら、解決法が見つかり、便利さを、痛感した。ただ、本当に、それだけか、と問われれば、否と答えるしかない。便利とは言え、思いつく限りの、方策を提示され、それら全てを、試みた挙句に、上手くいかねば、更なる提示が、行われる。一見、有用な情報が、もたらされるのだから、幸いでは、と思う人も、居るだろうが、現実には、そんな当てのないものではなく、接続業者そのものが、確かな情報を、提供すべきと思う。逆に言えば、こういう収益追求の人々は、例外的な障害には、全く興味が無く、多くの利益こそが、顧客の求めるもの、と勝手に断言して、不便を被り、さっさと、別の所に乗り換えたり、元の所に戻ったり、そんな人々の、相手をする気は無い。問題が起きたとしても、大多数の利益が、優先されるだけで無く、ごく少数の問題は、放置した方が、全体の利益になり、自らの収益も、伸ばせるという訳だ。確かに、利潤追求の基本では、その通りに違いない。だが、損して得とれとか、顧客への奉仕を、基本とすることで、収益を伸ばした企業も、あるのではないか。ここまで、高度に進んだ、情報社会では、顧客の大多数は、その仕組みに、興味が無いばかりか、理解しようとする、気持ちも失っており、おんぶに抱っこ、という状況にある。その中で、障害に直面したら、多くは、諦めるばかりで、損失が、膨らまぬ限り、放置するだけだ。本当に、こんな状況で、いいのか、と思う。

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5月18日(月)−判断基準

 ハラスメント、という言葉は、今や、日常的に聞く。ある意味、市民権を得た、のだろうが、どうも、その使い方については、首を傾げることが、多いのは何故か。こんなことを、書くこと自体、何を、無思慮なことを、と批判されそうだが、皆は、そう思わぬのか。
 ハラスメントが、海の向こうから、届いた頃、一番の話題は、その判断基準、にあったと思う。harassmentは、検索すると、「嫌がらせ」や「いじめ」などの、迷惑行為を指す、と表示される。迷惑は、受けた人間が、抱く感覚だから、それこそが、判断の基準になる、という訳だ。嘗て、「いじめ」とは、する側の意識が、第一とされたのとは、全く異なる話で、それが、届いた時に、多くの人々が、戸惑いを覚えた。誰しも、身に覚えが、無い訳では、ないのだから、もし、被害者が、そんな訴えを、掲げてきたら、と思ったに違いない。だが、その後の展開は、当時、想像もできなかった、ものとなった。次々に、新種のものが、掲げられて、理解不能に、陥ったからだ。「いじめ」とは、学校で行われる、陰湿な行為、との思い込みが、社会全体にある中、あらゆる場面で、適用できるとなれば、被害者ではなく、加害者と目された人々に、恐れ慄きが、広がる結果となった。短縮形で、表現されるのも、日常化を、促進する要因だが、パワハラとセクハラは、当初から、大人達の世界で、蔓延る風習を、批判する為に、盛んに持ち出された。そこに、一部の社会への限定として、アカハラなるものが、登場したまでは、何となく、理解できたが、マタハラ、カスハラ、と来てしまうと、行き過ぎか、との見解も、聞かれるようになった。この辺りに、到達すると、要因を指すものから、場所へと移る所までは、飲み込めても、「いじめ」の対象から、加害者を指す、とまで、移ってくると、もうお手上げだろう。何でもあり、という状況には、危うさしか、感じられないのは、言葉遊びに、興じる人々に対し、こちらが、大真面目に、問題を取り上げよう、とすればする程、問題が拗れる、からなのではないか。当初、主観的な判断を、尊重したものから、客観的へと、移り変わったのも、身勝手な連中の、暴挙が続いた、からなのでは、と思う。どうしたものか、なのだ。

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