読む本は、新聞書評を頼りに、探し出し、本屋に注文を出す。子供の頃から、立ち読みの習慣はなく、図書館にも、本屋にも、縁遠い生活を、してきた。大学時代、出版された、乱歩全集を、毎月買い続けたが、結局、最終配本まで続かず、例の如く、完成せぬままだ。
とはいえ、仕事上の問題から、時間を潰す必要が、出てきた頃から、乱読を始めた。積読は、なるべくせずに、買った本は、全て読むことに、している。その後、独り言を、書き始めてから、読んだ本として、毎月、紹介し始めた。今月は、偶々だが、主題が似た本、と言っても、小説と記録という、全く異なる、範疇のものだが、先の大戦に関わる、責任の所在と、それに関わる人物を、描いたものを、二冊読んだ。前者は、解説によれば、著者自身の、父親の記録に、基づくものらしいが、戦犯として、逃亡を続けた人間の、心の機微を、綴ったものだが、中で、戦争責任に触れる、部分が、度々出てくる。今や、象徴となった、人間の責任も、軍の幹部達の責任も、力関係や、その他諸々の、関係から、有耶無耶に、処理されたのに、対して、一部の幹部と、下級軍人らが、厳しい処分を、下されたことへの、不条理が、綴られていた。新聞等の、報道に対しても、厳しい目が、向けられたが、何処か、弱者への目が、際立つ感覚が残った。後者は、ある参謀の、戦中から抑留期の、歩んだ道筋と、戦後処理と呼ばれた、占領国への、賠償に関わる、国家事業への、深い関わりに、光を当てたものだが、記録として、強い偏りが、感じられ、客観的とは、思えぬ内容に、強い違和感を、覚えた。そこでも、責任問題と、それへの反映として、無責任な、戦後処理への、関わり方への、強い批判が、綴られていたが、過剰な拘りが、偏見や、非論理的な解釈へと、結び付く様に、自らの、戦争への関与と併せ、正当化という、独特な手法が、潜む気配を、感じるばかりだった。戦争反対は、誰もが、主張するものだが、その背景として、こういう反省を、持ち出す心持ちには、実は、責任転嫁と、弱者保護の、考えが、横たわる。どうにも、受け入れ難いもの、と思えてくる。
半世紀程前にも、同じような危機の話が起き、市民が、店に押し寄せ、紙製品の棚に、殺到していた。あの時も、風が吹けば、との図式に、首を傾げた人が、多かったが、騒動は、あっという間に、国中に広がり、物不足から、物価高騰へと移り、更には、不況へと移った。
あの時も、騒動を広げたのは、大衆媒体である、新聞やテレビだった。騒動を、映した画像を、紹介すれば、それだけで、不安が募り、店へと走る。群集心理を、そのまま、反映させた現象に、驚く人が、居たのだが、彼らとて、対岸の火事を、眺める気分では、居られぬまま、列に並んだという。そこには、論理も、分析も、一切無いままに、不安という、正体不明のものに、人が、追い詰められる、そんな心理現象が、あった。今回は、どうか。同じ図式だが、半世紀前とは、大きく異なる、部分がある。それは、物不足から、騒動が起きる、という形ではなく、物不足を、装う形で、買い占めや供給不足を、起こすことで、混乱を広げる、ということに、目が向いている、という部分だ。流通過程の、何処かが、そういう操作を、行うことで、物価高騰を招き、その利を掠め取る、という儲け話は、つい先日の、米騒動でも起きた。今、その後始末とも、言える形での、供給過剰と物余りが、起き始めることで、儲けは、損失へと、姿を変えつつある。今回のも、大衆媒体は、せっせと、不安を煽る姿勢を、続けており、その過程で、意味不明な、データ提示を、繰り返す。例えば、物価上昇について、価格の変動を、語る場合に、金額そのものではなく、変化量の提示に拘り、実態を、掴めぬように、心掛ける。同様に、製品価格の上昇も、割合として、提示することで、心理的効果を、上げようとする。例えば、今朝のニュースでは、アイスクリームの値上げを、報じていたが、13%の値上げで、その要因に、容器の値上げがある、とした。容器は、20%の値上げで、それが、今回の値上げの原因とすれば、容器代が、最終製品価格の、6割を占める、となる。いくら何でも、と思うのは当然だが、こんな数字の提示が、恰も、説明になっている、との思い込みが、誤魔化しとなる。同様に、卵価格も、最近、別の要因で、上がり続けるが、そこでも、容器代が、今回の騒動で、1.5倍になるから、と伝えていた。で、最終価格が、どうだったかは、伝えぬままで、不安心理を煽る。こんな誤魔化しが、通用するのは、国民の多くが、真面目に学ばぬ結果であり、その是正が、重要なのは、当然のことだが、その判断力が、身に付いてしまったら、愚民政治は、不可能となるから、触れてはならぬ、ことなのだろう。
社会媒体は、所詮、下らないもの、と断じてもいいし、一部の人間が、不平不満の捌け口として、有る事無い事、書き連ねる場であり、存在価値さえ、認められぬ、としてもいい。それは、飽く迄、受け手の問題で、自身で、判断すれば、済むことなのだが、一方で、金銭的な損失は、とも思う。
ただ、今回の、家庭内暴力の問題で、意外と、まともな意見が、掲げられたり、理不尽な処分に、反対の声が、上がる点に、見直した、との意見もあるらしい。だが、無駄は、無駄であり、半減期の問題で、意味不明、理解不能な主張を、滔々と述べる人間が、巣食う世界には、やはり、制限が必要、との意見も出る。ただ、少し前から、参加した人間には、真っ当で、論理的な意見を、掲げたとしても、何の反応も、示さぬ人々、特に、こちらが、返信として、掲げた意見に、反応しない発言者には、どうしたことか、と思うこと頻りだ。ここ数日も、最近の若者の傾向に対し、掲げられた書き込みに、次のような返信を、送ってみたが、反応は鈍いか、全く無い。一つは、「生徒が先生に慣れているでしょうから、心配ないかもですが、最近の生徒、学生は正答は何か、を気にすると聞きます。先生を納得させるとは、どんな表現、どんな事柄を含むのかを示すと、生徒が納得するかも、と思います。」と書き、もう一つは、「当事者にとり「わかる」という現象が自分の中で何が起きることなのか、理解できないのでは、などと思います。大学に入るまでは正答を求めることが目標だったが、「わかる」とは何がどう起きるのか見えていない。少し別の表現では他人に説明できるとはどういうことなのかと。」と書いたのだが。前者は、ある高校教師が、「化学基礎のテスト全部記述にしました!」から、「記述なので僕が納得すればOKです(笑)」とあったものへの、返信だが、どうか。もう一つは、おそらく大学研究室で、論文紹介において、ただ、図や表を、貼り付けたものを、示すだけで、論文の中身を、和訳して読んだだけ、という書き込みへの、返信だった。どちらも、今時の生徒学生が、正答にしか、目が向かぬことへの、警鐘かと思ったのだが。子供だから、幼いから、という言い訳は、通用しない。子供の世界でも、唯一無二の答えしかない、そんな世界は、存在しないのだから。大人としての対応を、考えるべきと思う。
今回のは、ほんの一例に過ぎず、馬鹿げた騒動は、尽きることなく、続いているが、その元凶は、大衆媒体にある、と言っていい。本来、正確な情報を、偏りを入れずに、伝えることが、認可を得た組織に、課されたものだが、程遠い状況に、呆れるどころか、諦めしかない。
先の大戦でも、長い物に巻かれる、その行状は、戦前、戦中は、一部の識者だけが、指摘していたが、戦後は、本人達も含め、大いに、反省する対象となった。と言われたが、その実、反省など、何もせずに、自分達の行状を、正当化する為に、要職にあった人々を、批判することに、精を出しただけだった。その後も、権力に与せず、との厳然とした、方針がある、と装いつつも、実際には、一部の人々の、利益になるように、世論を、操作することに、腐心し続けている。古くは、総背番号制の、導入への反対は、闇や裏の世界で、私腹を肥やす人々に、不利にならぬよう、制度導入を、国民全体の不利益、として紹介し、猛反対を続けた。今では、皆が、番号をもち、多くの手続きで、統一的な処理が、可能となっている。その利益は、大きいものと、今更ながらに、伝えているが、その実、裏では、欠点や欠陥を、暴くことで、基本姿勢として、反対を続けており、何も、変えていない。憲法に関しても、戦争反対を、前面に、打ち出しつつも、実際には、世論誘導へと、精を出しており、誰の利益になるか、という点のみに、目が向いている。この、誰とは、決して、国民全体ではなく、彼らが、権力と目する、政府以外の、経済を牛耳る人々を、見つめるのみだ。最近は、社会媒体が、力を得るに従い、嘗ての、絶対的な、操作能力には、見る影もないが、依然として、警察権力には、圧力を掛け続け、個人情報保護や、スパイ対策について、誤った情報を、流し続ける。これらもまた、誰か、一部への便宜なのだろう。呆れたもので、無用論が、聞かれるのも、止む無しだろう。
下らぬ話ついでに、他人の家のことに、何故、と思った話を、しておきたい。確かに、暴力沙汰は、良くない、との意見がある。その通りだし、被害者になれば、他人事ではない。だが、夫婦喧嘩は、と言われるが如く、身内の間のことは、との意見も。何方が、正しいのか。
はじめに、知っておかねば、ならないことは、被害の程度だろう。暴力沙汰、と言えば、まずは、怪我の程度や、容態を知りたい、と思った人が、多かった筈だ。だが、そんな情報は、はじめから、何も届かず、ただの一言、「逮捕」の文字が、画面に、映し出された。内容が、徐々に、明らかになるにつれ、最初の印象とは、全く異なる話に、驚いた人が、多かった。だからこそ、そんな話に、野次馬の如く、群がる囀り界隈も、過激な表現より、意外との印象が、大半を占めていた。もう一度書くが、暴力沙汰は、確かに良くない。その上、最近は、家庭内暴力が、DVとの表現で、皆の知る所となり、その過激化に、驚く意見が、寄せられるから、今度も、それに違いない、と受け取ったのも、当然だったろう。だが、一夜明けて、本人談として、発表されたものに、おやとの思いが、強まったのは、何故だろうか。仲介者を、批判する声も、高まるばかりで、以前なら、梃子でも動かぬ、として、批判の矢が、放たれる標的だった、公的機関は、迅速としか、思えぬ動きが、不可解と断じられ、警察さえも、過剰反応では、と批判される始末。不思議でしかない。のは確かだが、何故、こんな不思議が、何の躊躇いもなく、行われたのか、という点には、疑問しか残らぬ。そうなれば、皆の批判が、押し寄せる、との見通しからか、辞めるのも、当然の帰結なのだろう。いや、以前なら、感情的と、断じられた蛮行が、今は、被害者保護の、見地からか、評価されるのかも、となる。でも、こりゃおかしい、と思う人ばかりでは、やはり、見直すべきでは。人工知能が、導き出した答えは、所詮、こんなものとは、あまりの展開でしかない。
昨日の話は、下らない、と思った人も、居るのだろう。誰が、どう判断するかは、それぞれの勝手で、その判断に、責任を負うのなら、それでいい、という訳だ。一見、妥当に思えるが、これ、本当だろうか。多くの人は、確かに、自己責任で、判断を下しているが、実は。
自己責任、という言葉が、出されているのを、眺める限り、それが、実行に移されず、何もかも、他人の責任に、転嫁する人が、一杯居るようだ。だとしたら、社会全体として、何が必要となるか。責任について、その所在を意識し、自分に落ちるものなら、自身で、責任を取る、姿勢が必要となる。だが、それとて、今の、囀り界隈では、そんな状況には、なっていない。誰か別の人に、責任を押し付け、それによって、受けた被害を、請求しようとする、そんな姿勢に、溢れている。これでは、自分の発言に、何の責任も負わず、その一方で、相手の発言には、自分のものも、含めた責任を、押し付ける訳で、相手をするのは、たまったものではない。だったら、相手にせずとも、と思うのは、当然のことだが、現実には、そういう無責任発言程、共感を得て、拡大する傾向にあり、それに、乗っかる人々も、同様に、責任を感じることは、全く無いままに、敵対する人々を、罵倒し続ける。これでは、媒体を通して、形成された社会は、その秩序を失い、早晩、消滅することとなる。筈なのだが、現実には、雨後の筍の如く、次々と、別の集まりが、形成されて、無責任な攻撃と、無思慮な同調が、繰り返される。相手にする、価値が無い、と決めつけるのが、最善の策なのだが、無垢な人々は、こんな遣り取りに、振り回された挙句、心を痛めたり、時に、精神を病むこととなる。そんな時に、手を差し伸べるのも、彼らの得意技の一つで、無責任な同情や、根拠のない助言を、繰り返すことで、病状を、悪化させるだけだ。所詮、この世界は、その程度のもの、と見做して仕舞えば、それで済むことだが、どっぷり浸かった人々は、抜け出すことが、できぬまま、悪化の一途を、辿ることとなる。これも、自己責任の一つ、なのだが、簡単に、切り捨てることは、憚られるだけに、面倒極まりない。
今に、始まったことでは、ないのだが、権力者への、批判の数々は、留まる所を、知らないようだ。特に、責任問題には、自分のものは、棚に上げて、他人に対して、厳しい目を向ける。そんな傾向は、昔から、強いものがあった。今は、更に強くなっているようだが。
理由の一つは、社会媒体の存在だろう。仲間だったり、同類だったり、そんな人々が、互いに、同調を高め、日々刻々、同じ論調で、権力者の不手際を、指摘し続ける。だが、その多くが、的外れなのは、元凶は、そこに在らず、全体の流れの中で、一部の人々が、私腹を肥やすことに、躍起となることで、全体の、需要と供給の均衡が、崩されることで、歪みが、強まっている。それを、政府や宰相の、責任として捉え、盛んに、批判を行うのは、所謂、左翼の得意とする、戦術と言われるが、盲目的な繰り返しには、信頼を失わせる、自業自得の、行状が溢れている。突然の攻撃から、一部地域に広がった、混乱は、化石燃料の供給に、世界的な問題を、生じている。そこから、派生すると言われる、他の原材料の、供給も滞り、将来への不安を、報道は盛んに、口にしているが、政府や宰相は、その可能性が、少ないことを、訴えている。それに対し、信頼ならぬ、との主張をする主は、多くが、嘘であると断じ、その理由として、米騒動の原因が、政策による減反が、供給不足を、招いたとする考えを、展開するが、今の状況において、その話は、確定したものではなく、市場で、余剰米が、徐々に、姿を現す現状からは、疑わしい、との見方が、強まり始める。権力さえ、批判しておけば、自分らの役割が、果たせるとの姿勢は、彼らが、古今東西に渡り、抱き続けてきたものだが、その脆弱性は、この所、驚くほど強まり、何方が、信頼ならぬ、と見るべきかも、状況の変化が、著しいと思う。その一方で、海の向こうの暴君については、別の意味で、信頼ならぬ、と見るべきで、この混乱も、彼に与する人々の、私利私欲によるもの、とも見える。彼の使用も含め、あの媒体は、鵜呑みにせぬこと、だけは確かかもだ。