パンチの独り言

(2026年6月1日〜6月7日)
(戦争責任、未熟なのか、嘘吐きは、隣の芝生、何を信じる、居座る、堂々巡り)



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6月7日(日)−堂々巡り

 男女の区別、に関しては、話題に、事欠かないようだ。差別、とは言わずに、区別、と言っている点に、目を向けて欲しい、と思うが、渦中の人々は、そんなことには、気付く筈もなく、兎に角、そこに、歴然とした差が、あると主張する。最近は、男と女、何方が優位か、に目が向く。
 で、この話題の根元には、何があるのか。世界的な調査で、男と女で、何らかの差がある、との結果が、報告されている。特に、この国にとり、不利に働くのは、何が何でも、同じ扱いであるべき、との考え方が、世界を覆っているからだ。いや、男女には、能力の差が無いのは、歴然としている。との主張が、間違いだとは、誰も思っていない。なのに、そこに、違いが出てくるのは、差別意識が、横たわっているから、との主張がある訳だ。その前に、いつものことだが、一つだけ、確かな違いに、目を向けておく。出産能力は、女性の大多数が、有しているのに、男性は、誰一人として、有していない。これだけは、生物学的な差異、として、歴然としたものだ。ただ、子を有してから、後については、時と場合により、千差万別状態となる。家庭の事情、と言って仕舞えば、その通りなのだが、それだけでは、片付けられず、社会制度の問題や、宗教による違いも、時に、紹介される。ただ、この点については、正解が無い、と言うべきだろう。子育ての、役割分担には、様々な形があり、こうすべき、との絶対手法が、ある訳ではない。しかし、今の時代は、女の役割、と断じても、男が加わるべき、と断じても、都合の良し悪しが、様々にある。少し付け加えれば、子供にとり、どれが、最適かなどと、論じてみても、結論には、至らないものだ。試してみたければ、何をやっても良いが、結果に対する、責任は、親だけが、負うべきものでも、ないだろう。で、最近の話題は、そこではなく、学習機会や就業機会における、平等感について、のようだ。一方の性別を、優遇するとの制度に、断固反対を、訴える人が、増えているようだ。それも、差別だから、との理由が、主体となっており、妥当と見る意見と、でもないとする意見が、入り乱れている。差別、を引き合いに出すのは、確かに、妥当に思えるが、何処かずれている、とも思えるだけに、これにも、結論は出そうにない。

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6月6日(土)−居座る

 何方の媒体でも、我が物顔で、のさばるには、厚顔無恥ぶりが、不可欠であることは、間違いない。それに対して、科学者の世界は、一つでも、間違いを犯せば、そのまま、その世界に、居座ることが、難しいと言われる。いや、言われた、とした方が、いいのか。
 流石に、不正が、度々起きると、そんな簡単に、事は運ばなくなる。特に、その研究集団の長が、号令一下、不正を進めた場合には、その人物が、中心となって、責任問題も、その通りに、片付けられる。しかし、下で働く人間が、不正を犯した場合には、少し、状況が複雑となる。監督責任として、全ての責任を、上に立つ人間が、負う場合もあるが、最近は、そうならず、蜥蜴の尻尾切り、となる場合が多い。特に、大きな集団を、率いていた場合、隅々にまで、目が届く訳ではなく、一人でも、上昇志向から、捏造や不正を、働いた場合には、その結果から、高評価を受ける、成果を出した場合に、その一人の責任か、はたまた、責任者が、連帯責任を、負うべきかは、事例毎に、異なると言われる。研究不正については、これまでにも、数え切れぬ程に、そんな出来事が、報告されており、不正に関わった人物は、その世界に、居続けられぬ、となる場合が多い。一方、ボスと呼ばれる、上に立つ人間は、首謀者とならぬ限り、そのまま、居座る場合が、殆どだろう。責任が、有るか無いかは、一概には、決められぬもので、調査が行われる。媒体での失敗とは、全く違うもので、その場限りの、嘘や出鱈目が、通用する筈もなく、結果的には、綿密な計画と準備が、必要となる。それだけ、罪が大きい、とも言えるが、そんな比較は、無用のものだろう。兎に角、意図的に、何らかの操作を、したのであれば、そこに、悪意や罪の意識が、当然ある訳で、弁解の余地はない。でも、そこからの、変化については、時と場合により、大きな違いが、生まれてくる。研究という、職業上の不正は、許されるものではなく、その地位を、失うのも、当然なのだが、媒体での不正は、随分違ったもの、と思われている。匿名性も、関係するが、それだけでもなく、いつの間にか、有耶無耶に、となることが、多いのだ。まあ、目くじら立てても、ということか。

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6月5日(金)−何を信じる

 科学者の話は、分かり難い、とよく言われる。断定的ではなく、この可能性も、あの可能性も、と並べ立てるからだ、と言われるが、本当にそうか。確かに、大震災後の、発電所事故では、安全・安心を、求める庶民に対し、煮え切らぬ論調に、批判が集中していた。
 そこに、問題がある、との主張があるが、実は、そんなご都合主義に、惑わされる、愚かな民にこそ、問題があるのでは。事故に対して、批判的な論調が、高まると共に、如何に、危険かを、滔々と並べ立てる、専門家と称する、贋者が、跋扈したのも、あの騒動の最中だった。彼らの並べる、科学的な証拠は、ほぼ全てが、嘘でしかなく、専門的知識さえあれば、いとも容易く、論破できた。しかし、それを、重用したのは、一部の大衆媒体であり、媒体自身が、煽ることだけを、目的としたから、逆に、汚染された、と報道した、葉物を、子と共に、有り難く食べる、と宣言した、本物の科学者は、二度と呼ばれず、ご都合主義が、露呈していた。確率的に、話を進めることが、科学者の論法であり、どの事象も、起きる確率は、全然無いを表す、0でもなく、絶対起きるを表す、1でもない。だから、どっち付かずだ、と受け取るのは、物事を、論理的に、考えられぬ、愚か者となる。だが、彼らに寄り添い、騒ぎを、大きくしたいだけの、大衆媒体は、兎に角、不確実な話ではなく、確実な話に飛び付くが、そこで、都合の良し悪しが、登場してくる。今更、何を書いても、始まらぬことだが、同様の論調が、社会媒体でも、盛んに使われ、論争相手を、罵倒する場面でも、罵る材料となる。だが、根拠が薄弱で、時に、嘘でしかないことを、材料とする場合には、媒体の中での、信頼を失う筈だが、どうも、そうはならぬようだ。そこに、何方の媒体でも、大きな問題とされる、瑕疵がある。仲間内だけに、通用する、身勝手な論法が、押し通され、仮令、それが論破されても、どこ吹く風と、知らぬ存ぜぬを、押し通せば、何事も無かったかの如く、再び、罵倒できるようになる。これ程、都合のいい世界は、ない。だが、こんなことが、通用する社会は、瓦解するしか、道が無い、と思う。

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6月4日(木)−隣の芝生

 昨朝、書こうと考えたのは、相場の変動だった。だが、市場が、開いた途端に、予想外の動きが、始まることで、書き難くなった、と思った。ただ、実は、その動きとて、これまでの、相場の上昇に比べれば、僅かなもので、今の平均の上昇とは、比較にならぬものだ。
 書こうと思ったのは、今の宰相に、交代した頃から、始まった、平均の上昇が、相場の活況を、反映したものか、はたまた、一部の値嵩株だけが、他とは違う、動きをした結果、なのか、という点だった。相場全体を、表す指標は、別に示されており、そちらは、上がるには、上がっているものの、大した数値には、なっていない。では、何故、平均と呼ばれる、数値が、異常な程の上昇を、示しているのか。答えは簡単で、その算出に関係する、企業の株価が、目立って上昇したからだ。その中でも、ごく一部の銘柄に、限られた現象で、だからこそ、株主とか投資家とか、呼ばれる人々の、反応は、鈍いものとなっている。このサイトに、関わりを持った頃から、ずっと、投資を続けているが、今回の上昇では、前半は、同じような動きを、呈することで、急激に、資産が増え続けた。しかし、年が明けた頃から、様相は、徐々に変わり始め、以前の値からは、程遠い水準に、留まっている。理由は、上に書いた通り、相場変動を、示す指標として、使われるものに、保有株の銘柄が、採用されておらず、蚊帳の外に、置かれているからだ。それでも、昨日は、概ね上げていた。で、書き難いな、と思ったのだが、資産は、期待程には、膨らまずに、相変わらずの低迷を、続けている。今の世界的な活況は、どの国においても、同じような状況にあり、地道な運用で、参加する人間には、概ね、大した影響が、及んでいない、と思われる。では、このまま、蚊帳の外に、置かれ続けるのか。さて、どうだろうか。不安ばかりが、膨らむ中で、期待とは異なる、動きを続ける相場は、今後、どう動くのか。誰にも、分からぬ話か、それとも、徐々にでも、上昇へと結び付くか。どうなるにしても、地道に、しかないのだが。

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6月3日(水)−嘘吐きは

 誰が、嘘を吐いているのか、と考えるのが、普通だと思うのだが、どうしたものか。今回は、例の爆撃から、地域の流通経路への、不安に端を発して、供給自体への、懸念が表面化して、そこから、様々な問題が、表面化した、ということに、なっている筈、ではないのか。
 だが、その遣り取りの中で、報道が、盛んに、煽り立てるように、原材料不足が、そこから産み出される、様々な製品の、品不足へと、繋がるとされる。確かに、店の棚から、品物が、姿を消して、現実のものと、なっている、と伝えられる。だが、その一方で、政府は、宰相を始めとして、担当大臣までもが、一つ一つの供給量の、変遷を明言し、何処にも、品不足の兆候は、見られぬものと、断言した後に、報道姿勢への苦言を、付け加えた。そのまま、伝えることは、伝えたのだが、まだ、不足は事実、と報じ続けるのに、誰が、嘘吐きなのか、と思うのが、普通の考えと思う。だが、報道は、この期に及んでも、事実を伝えている、との姿勢を崩さぬ。要するに、ここでの嘘吐きは、流通過程の、何処かの段階が、出し惜しみを続け、品不足と叫んでいるか、あるいは、調査をした上で、不足は無い、と明言した政府関係者か、何方か、と見るべきと思える。ただ、流通関係者は、一つ、大きな失態を、犯しているので、不利な情勢だ。それは、爆撃直後に、供給不安からか、突然の値上げを、表明したことで、供給量の変化に、兆しさえ見えぬ中、そんな行為に、信頼は、地に堕ちたと見える。一方、その後も含め、供給源の工面や、備蓄の放出など、対策を、講じ続ける政府には、普段よりは、信頼の声が、強まり続ける。政治家は、嘘吐きの代表、と見る話は、これまでに、何度も聞いたことだが、今回の話は、別なのかも、と見る向きもある。ただ、同じように、流通の問題として、取り上げられた、米騒動でも、供給不足の指摘が、あったのだが、それとて、不足分と、値上げの関連は、弱いと思える。政治家の嘘には、何らかの思惑があり、国の安定も含め、重大だったとの解釈が、これまでにもあったが、流通業者の嘘には、単に私服を肥やすのみで、私利私欲の塊、としか見えぬ。さて、今度は、どんな話になるのやら。

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6月2日(火)−未熟なのか

 本の感想でも、書いたことだが、今の世の中、他人の責任に対して、厳し過ぎる、と思う。特に、囀りなどの、社会媒体界隈では、相手の顔が、見えないことを、いいことにして、言いたい放題どころか、人格否定を始めとした、完全否定の姿勢が、目立つと感じる。
 その一方で、自身の権利に関しては、何と寛容なことか。全ての要求が、当然の如く、押し通せるとでも、信じているのか。そこまで、要求するか、と思えることが、屡々ある。こちらは、弱者が、典型の役柄であり、責任云々は、強者が、典型の役柄となる。この二極化が、何故起きるのか、それ自体も、摩訶不思議ではあるが、どちらの立場にしても、それぞれが、どんなものかを、想像できないからこそ、好き勝手な言い草が、書き連ねられる、のではないか、と思う。想像力の欠如は、今や、大きな問題となり、相互理解も、ほぼ不可能となる。互いに、理解できないのに、立場に見合う、考え方をすべき、などという話は、通じる筈も無い。だから、無駄なのだ、と切り捨てるのは、自由なのだが、媒体を通じて、他人を、貶める行為に、耽る人々には、どんな考えがあるのか、想像もつかぬ。こちらは、想像力の欠如、ではないと、思うのだが、今や、多勢に無勢の如く、そちらの方が、常識と化している、のかも知れぬ。もし、そうだとしたら、今、ここに書いていることは、何と下らぬ、誰にも通じぬ、与太話でしかない、となるだろう。それは、ある程度、致し方の無い所として、もう少し、踏み込んで、考えてみては、どうかと思う。自己中心的で、被害妄想的な、心の持ち主が、蠢く世界の中で、自分が、どうあるべきかを、自身に、問いかけても、何も始まらぬ、と思うか、はたまた、馬鹿げた騒ぎを、横目にしながら、自分自身は、と考えることで、少しは、身の回りが、綺麗になると、考えるべきか。答えは、何処にも無い。だが、他人に厳しく、自分に優しい、そんな人間ばかりで、社会の仕組みが、回る筈もない。だとしたら、少しでも、動くように、手を貸してみては、どうだろう。

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6月1日(月)−戦争責任

 戦争責任は、確かに、重いものだが、誰が、どう取るべきか、との話になった途端に、他人事のように、振る舞うのは、如何なものか。ただ、虐殺事件や、爆撃等による大量殺戮など、個々の問題で、考え方は、それぞれとなり、一様の結論には、至らないのが、当然では。
 戦争自体は、始めた人間に、最大の責任が、あるとの意見も、その通りなのだが、合議だった場合、その結論を導いた、会議の参加者全員の責任か、はたまた、それを導いた人間が、負うべきものか、などについても、一概には、言えないとされる。一方で、最近の軍事侵攻やら、紛争地域での、突然の攻撃やら、これらの場合には、時の、国の権力者が、下した命令に、基づくものであり、責任の所在は、明らかと言われる。でも、と思うのは、このような例でさえ、そこに至る道筋で、その結論に繋がる要素は、どうだったのか、などについて、後年、検討されると、別の解釈が出て来て、ある意味、驚かされる。今、この時に、彼らの責任、との結論が、出ているにも関わらず、その決断に、影響した事柄が、詳らかになると、一個人の責任ではなく、もっと多くの人々の、関わりがある、とされる訳だ。軍事侵攻では、直後から、攻め込まれた国が、他国との関係を、変え始めたことが、端緒となった、と言われたが、間接的なものを、含めれば、きりが無くなる。紛争地域も、長く続いた睨み合いに、最終決断は、爆撃を決めた、二つの国の長に、責任があるのは、当然だが、そこに至った、攻撃された国の、長年に渡る、核兵器開発の、歴史に加え、一つの国と、敵対する地域での、ゲリラ活動への支援が、強く影響した、と既に言われている。単純に、思えたものが、複雑に入り組んだ、関係の末、との見方がなされると、国際関係が、二国間の問題だけでなく、多数の国や地域や、人々までも、含めた問題から、成立することが、見えてくるが、だからこそ、単純な解決法が、ある訳ではなく、絡んだ問題を、どう解きほぐすかが、肝心に思える。となれば、あの暴君が、自慢げに語ったことなど、成し遂げられる、筈もないことに、気付けるのでは。まだ、暫く、様子見が必要で、一旦、解決を見ても、火種は、燻り続ける、と見るべきか。

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