弱者保護、と繋がる為か、嫌いな言葉に、ハラスメント、harassment、がある。虐め、苛めではなく、片仮名語のあれだ。外から入った言葉には、様々な表現が、結合されて、それぞれの状況に、見合うものとして使われ、多くの場合、省略語で、表現される。煩い言葉だろう。
当初は、こちらで、一時期、大問題となった、学校現場に、当て嵌められたが、そこでは、付随する言葉は、使われず仕舞いだった。理由は、力関係により、優位に立つものが、する行為であり、対等である、児童・生徒同士では、通用しないからだろう。多くは、権力関係、性別などにより、適用されてきたが、最近は、店と客の間の、それも、客側が、行使するもの、として盛んに使われる。略語は、別の意味を、想起させるが、それはそれとして、神様と呼ばれた、存在が、ぞんざいな態度で、傲慢な要求を、突きつけるもの、とされる。元々、神仏は、全く別の存在だが、一世を風靡した、表現であり、意味を取り違え、身勝手な言動を、し続ける、心が貧しい人、との解釈もできるが、どうにも、止められぬ人々、といった感がある。別の場面でも、同じような言動が、出ていると言われ、こちらは、まだ、呼称を聞かないが、早晩、名付けを好む、人々の口から、発せられるのかも、と思えてくる。病院で、呼び捨てだった対象が、様を付けて、呼ばれ始めた頃、店と客の関係が、病院と患者の関係に、映し出されたものか、とさえ思えた。決して、そんな考えは無く、単純に、文句を並べる人間を、刺激せぬように、との配慮とも、言われていたが、本来は、病院で、絶対的な権力を、有するのは、医師であり、患者は、治療を望み、その為に、できる限りのことを、しようとやってくる。だが、最近は、医療の質の低下からか、多くの医療事故が、起きることで、訴訟になることも、多くなった。その辺りから、力関係の逆転が、起きたのかも、と思える事件が、度々起き、時に、難癖でしかない、と思えることも、起きるらしい。これを、店と客の関係と、同様と見做すと、そこに、ハラスメントが、当て嵌まりそうだ。この場合、何と呼ぶべきか、カスハラから考えると、患者による、ハラスメントとなり、ペイシェント、patient、ハラスメント、つまり、ペイハラとなる。探してみると、もう、使われ始めているようで、警告が飛び交っている。下らないことと思うが、この調子は止まらぬか。
悲観論を否定し、被害者意識を否定し、弱者保護を否定する。こんな調子だから、余程の楽観論者、とでも思われて、いるのではないか。だが、本人は、全く違う、と思っている。物事を、捉える時には、ほぼ悲観的に、眺めており、一種、最悪の事態を、想定する。
だが、多くの囀りの如く、それをそのまま、書こうとする、過ちは犯さぬ。そこから、一歩二歩、先に進んで、その後、どんな展開が、起き得るのかを、頭の中で、考えるのだ。すると、当初、悲劇としか、思えなかったことも、異なる様相が、見えてくる。そこで、落ち着いて、考えを纏めるのだ。それだけで、全く違う、筋書きとなり、悲劇が、喜劇とは言わぬが、まともな流れに、落ち着くのだ。反射的に、言葉を連ねる、という行為は、確かに、物事を、素早く考える、一種の、頭の良さを、表すように、考える人が、多いのだが、それだけでは、浅慮の果てに、過ちを繰り返し、失敗を続ける。何故、と考えれば、まだましだが、多くは、その過ちや失敗を、周囲の責任に、転嫁することで、自分の立場を、守ろうとする。それでは、自身を、高めることも、他を率いることも、できないだろう。反射的な考えは、確かに、重要なもので、端緒となるが、そこから、何を引き出すかが、現実社会では、重要となり、何らかの務めを、果たすことへも、繋がる。だから、その結果だけを、見た人には、楽観論者と、思えてしまうが、その実は、悲観的なことを、検討した上で、結果的に、導き出せる、先の動きを、論じることになる。これは、結局、悲劇や悲観とは、ならずに、一見、楽観とも思える、そんな結論に、繋がる訳だ。表面的なことしか、捉えられぬ人の多くは、こういう経緯を、読み取ることが、できないままに、結論のみで、何事も判断し、何故、悲観が否定されるのか、と首を傾げる。その奥底にある、深謀遠慮が、如何なるものか、見もせずに、自分が、反射的に思った、下らないことを、口にし、文字にする。ほんの少しの時間を、もう一度考えることに、費やすだけで、様々な場合を、検討できるのに、しようともせずに、他を批判し、悦に入る。まあ、その程度の人間なら、相手にする、必要もないのだろう。
騒ぎ過ぎ、と書けば、分かってない、と言われるだろう。だが、本当に、それ程の力が、あるのか、と今でも思う。人工知能が、皆の目や耳に、触れるようになったのは、前世紀の末頃、だったろうか。得体の知れぬ、存在でしか、なかったものが、徐々に、確かなものと。
元々も、今と同様に、万能の存在、と見做されたが、現実は、甘くなく、何も学ばぬ、記憶装置と、呼ばれていた。それが、勝負の世界に進出し、高段者を、次々に破ると、世間の評判は、一気に変わった。それに関しては、以前書いたが、人間勝負と、機械勝負の違い、に気付けば、また違った様相、になると思う。決まった規則の、中での勝負だけでなく、あらゆることに、口出しできる存在、と言われ始めたのは、つい数年前か。生成人工知能、と呼ばれたものは、あらゆる疑問に、即座に回答するだけでなく、解決法を、尋ねたとしても、いとも容易く、最善策を、提示する、と言われた。教育現場には、激震が走り、課題を与えても、皆が、それに頼り、提示された答えを、そのまま提出する、という事態が、起き始めた。人間の成長より、遥かに速い、進歩の末、今では、何でも、正しい答えを、導き出す、と信じる向きもある。だが、その一方で、嘘や出鱈目が、答えの中に、並ぶことが、増え始めて、疑いが、膨らんでいる。本来、機械は、命令に従い、そのまま、動くことが、約束されるから、機械が出した、答えには、間違いも、嘘も、出鱈目も、ある筈が無い、と思う人が居るが、どういう仕組みか、現状は、捏造さえも、厭わぬ姿勢に、驚く人も居る。でも、何でも、無尽蔵に、編み出すには、嘘や出鱈目も、必要悪だと、する考えが、人工知能への、命令文に、隠されている、のではないか。だとしたら、今の状況は、当然であり、天才と呼ばれた、嘘吐きと、同じ状況に、あるのかも、だ。だったら、依存するのは、止めた方が、いいだろう。ちなみに、独り言は、あくまでも、パンチという人間が、思ったことを、書いたもので、人工知能の助けは、頼んでいない。
囀り界隈では、科学の知識を、ひけらかしつつ、嘘をばら撒く、不埒な輩が、目立っている。先日から、触れてきたように、感染症については、その発症機構だけでなく、抑圧手法についても、諸説紛紛、どころか、嘘八百ばかりで、呆れてしまうが、専門家にも、責任がある。
科学は、元々、確実なもの、と言うよりは、ある程度の確率で、という形を取りつつ、何が、優勢なのかを、示すものだが、無知な人々は、そんな不確かさより、確実なものを、欲しがる。それに乗じて、嘘吐き達は、欲しがったものを、与えることで、混乱を高め、喜びを得る、らしい。感染症の、不確かさについて、何度か、書いてきたが、他にも、不確かさは、沢山あるようだ。その中で、科学者達は、確かな事実を、伝えよう、としているが、どうにも、煮え切らず、信頼回復には、程遠いのみならず、却って、疑いを、高めることになる。同じ、と思い起こすのは、事故後の、混乱状態の中で、一部の科学者が、不確実な話を、垂れ流したことだ。あの発電方式に、反対したい、との姿勢は、勝手にすれば、いいと思うが、その根拠が、脆弱なことに、自身で気づかず、ある意味、暴走を、続ける人達は、知識をひけらすだけに、始末におえぬ、とさえ、思える所業が、目に余る。確かに、一度、管理体制が、崩れれば、今の状況のように、対応の難しさが、極まりそうだ。だが、その勢いで、廃止を訴えるのは、科学的とは、言い難いもの、と映る。同じではないが、核のゴミ、と呼ばれるものの、始末についても、現状では、地下深くに、埋めた上で、管理するとされるが、放射性物質の、管理においては、今の、処理水の放出の如く、希釈が、最善の策とされ、何処かに、強い矛盾を、感じてしまう。元々、燃料獲得には、濃縮を繰り返し、その状態に達する訳だが、その逆転を、ゴミ廃棄に、考えない理由が、浮かばない。事故直後の、汚染地域についても、二つの措置が、対立する形で、実施されており、土壌については、集積したのに対し、一部の、舗装区域では、剥離後に、粉砕、再舗装で、検出外とする、措置が取られた。後者は、希釈と同じ手法であり、前者は、ある意味、濃縮に似ている。科学としての、矛盾を見せられ、はて、そんな科学を、信頼せよと、と問い掛けたくなる。
経済では、歴史は繰り返す、とよく言われる。確かに、株価の暴落や、原油の乱高下など、様々な事象が、幾つかの要因で、同じような動きを、示すことがある。そこから、歴史の話が、紹介されて、その上で、そんな危機への備えも、できるもの、と言われるのだ。だが、本当か。
人間は、学ぶものだ、とも言われ、歴史の話は、その一つとして、紹介される。でも、同じことが、同じように、起きるのは、学んでおらず、懲りていないから、などと言われるのは、何故か。不思議でも、何でもなく、同じことが、表面的には、繰り返され、同じような、暴落や乱高下が、起きているように、見えているが、実際には、それぞれに、微妙な違いがあり、備えとは違う、対応の必要が、取り上げられる。そちらについても、検証が必要だが、一方で、懲りない話にも、目を向ける、必要がある、とも思う。つまり、同じことが、起きつつあるのに、今度こそは、違う展開になる、と信じ込むことで、一時的な安心を、手に入れ、結果として、失敗を繰り返す。本人は、大真面目に、今度こそは、などと言い連ね、ほんの僅かな違いを、殊更に、取り上げることで、繰り返しを、避けられるとする。結果は、悲惨なものとなり、煮湯を、飲まされるが、それでも、次の危機でも、同じことをする。まあ、冷静になれば、そんなことを、する筈も無い、と思う人ほど、同じ過ちを、繰り返すのだから、付ける薬は無い、としか言えない。では、今度のものは、どうか。何十年ぶり、と取り上げられる、為替水準は、数値として、確かに、あの頃に戻ったが、そこまでの動きは、全く違う。逆に言うと、今回の場合、繰り返したのではなく、偶々、同じ数値に、到達した、と言うべきだろう。経済の話で、こんな馬鹿げた、偶然の一致を、歴史の繰り返し、とすることがあり、これもまた、科学とは、全く異なる、心理ばかりの動向を、扱うもの、と言われる、所以となるのだろう。様子見は、当然のことながら、為替水準が、どうあるべきか、少し考えておく必要が、ありそうに思う。
事実を、ありのままに、伝えているだけ、との答えが、返ってくるかも、だが、それでは、科学も医学も、へったくれも、無いことになる。何しろ、病原体の有無を、検査で明らかにし、その結果、一方は、感染源と、責め立てられ、もう一方は、接種により、軽症化した、とだけ言われる。
これでは、非科学的なことを、叫んでいる輩と、何の違いがあるのか、とさえ思えるし、トンデモだろうが、何だろうが、好き勝手なことを、書き散らす人間と、何が違うのか、と言いたくなる。確かに、ある割合で、過剰反応を示し、それによって、感染ではなく、別の要因で、死んだり、重篤な後遺症に、見舞われた人が居て、その原因を、ワクチンの中の、摩訶不思議な物質の、せいだとしたり、ワクチンにより、引き起こされた免疫反応は、自然のものとは、全く異なるもので、危険極まりない、と主張したり、そんな意見には、科学的根拠が、欠けている、と断じる人が居るが、では、こちらの話は、どうだろう。どんな御高説が、飛び出すのか、暫くは、免疫学者が、書くものにも、目を向けたが、一向に、触れる気配は無く、ただ、無闇矢鱈に、新開発のワクチンが、如何に優れたものか、を書き連ねていた。確かに、感染症の診断は、免疫学の、知る所ではない。だが、感染爆発を、引き合いに出し、その恐怖を拡散した上で、ワクチンの効能を、並べるのであれば、結果としての、病原体の保有と、伝染への寄与にも、触れる必要がある、と思う。感染爆発では、8割とか称して、話題となった研究者も、依然として、力を有するようだが、あの結果も、何の検証もなく、総括など、届きそうにない。特に、密室で、感染が広がった、との報道では、その場に居た人々の、どれ程に、感染者が、出たのかも、触れられぬままだ。ここでも、疫学や公衆衛生学が、専ら得意とした、調査手法と、検証法が、用いられてきた、とされたが、はて、どうなったのか。騒動の最中に、治療や対応に、専念せねばならぬのは、当然のことだが、もうすっかり、忘れられよう、としている中で、どうしたものか。誰の責任か、などと言っても、始まらぬことは、明らかだが、あれだけ、声を上げた、研究者達が、何の総括もせず、平気でいられるのは、何故なのだろう。
感染症という観点から、発症せずとも、運び屋になるから、感染という括りを、適用した上で、隔離などの措置を、行うべき、との説明は、妥当に思える。だから、僅かでも、病原体を、保有する人には、発症者と同等に、隔離措置を、行ったとされる。ここまでは、理解できるが。
免疫機能を、発動させて、病原体に、感染したとしても、軽い症状で、済むことで、生命の危険を、回避できる。ワクチンの説明として、この文面には、何の間違いも無い。だが、その一方で、感染爆発を、防ぐという意味では、この文面には、違う意味が、込められている。つまり、感染そのものを、防ぐという作用は、説明文には、含まれていないのだ。その意味で、ワクチンの効果で、軽症で済んだ患者は、病原体を、運ぶことに、なるのではないか。となると、無症状感染者、と呼ばれ、感染爆発を、起こすことになる、と批判された人々と、軽症で済んだ人に、どんな違いが、あるのか、疑問が出てくる。免疫という、生き物が、もつ機能について、多くの人は、疫を免れる、という意味で、感染初期で、病原体を、駆逐することで、その体内増殖を、防ぐことになる、と理解してきた。確かに、以前の検査法では、ある程度以上の、病原体を保有しないと、陽性を示さず、感染を防いだ、とされてきたが、あの感染爆発が、起きる前から、導入された、微量の病原体でも、検出できる方法では、ほんの僅かな数でも、見逃されず、陽性となる。普通に考えれば、当然のことだが、多くの免疫学者を含め、ワクチン開発当時、その接種を、促す為に、感染爆発を防ぎ、周囲の人の命を、守ることに、繋がると訴えた。だが、製薬企業の発表は、少し違い、接種者は、感染しても、重症化しない、となっていた。となると、感染爆発への、関与について、どう考えるべきか。未発症の感染者が、周囲にばら撒く病原体の数と、接種済みの感染者が、ばら撒く数が、違うかどうか、何の話も出てこない。総括を、望むのは、こういう点も含め、全体として、多面的な解析が、必要だからだ。それと共に、表現の問題として、検査陽性と、発症者の区別を、明確にすべき、ではないか。科学や医学が、頼りになるかは、こんな些細なことが、はっきりしないままには、判らないと思う。