で、証券サイトとして、何をすべきか。それに、答えがあるのなら、苦労はしない。実際に、証券社員だったら、何をどう薦めるのか、難しい問題だ。ただ、免税措置や、その他の優遇もあり、若い世代に対しては、王道なるものが、あるように見える。長い目で見て、となるからだ。
しかし、物価高騰の中、給与が上がり始めた、という状況でも、既に、一線を退いた人間には、選択肢は、殆ど残っていない。まず、長い目、と言われても、自身の人生計画が、いつ終了するか、がはっきりしないだけでなく、いつ訪れるか、分からないからだ。子供達に、残したいと願うか、によっても、大きく異なってくる。何しろ、ここ数年に、退いた人間なら、ある年齢までは、それなりの収入増が、確かなものだったが、いつの間にか、頭打ちの状態に、陥ったからだ。一方で、物価は、安定しており、利率が、低いままの時代には、ローンなどの借り入れが、賢い選択となった。昔は、確かに、預貯金でも、十年で倍となり、この国の特徴として、投資より貯蓄、と言われたのは、当然だったが、預けたら、そうなるとなれば、借りれば、どうなるのかは、自明だろう。多額のローンで、三十年程で、返済となれば、借入額の、倍以上の額を、返さねばならず、はじめのうちは、元本が減らず、後々の利息分を、返すだけとなっていた。当時と比べれば、不況と言われてからは、ずっと楽な、返済計画を、組むことができた。それが、最近は、様相が一変し、恐れ慄く人が、急増している。で、高齢者にとり、その話は、無関係だから、単純に、資産運用のみを、考えればいい。だったら、何を、どう運用すべきか。保有株が、ある程度以上に、ある人には、まずは、長期目線で、配当を含めた、考え方が、主体となる。確かに、凄い勢いで、上昇を続ける、銘柄は、あるにはあるが、それが、どう変化するかは、誰にも分からぬ。だったら、という考え方だ。もし、今から、株に手を出す、というなら、やはり、投資信託が、気楽なものだろう。会社任せ、と言えば、その通りだが、ある程度の蓄えが、あるのであれば、手っ取り早い、と思う。但し、いつも通りの表現では、投資は自己責任で、となるのは、当然のことだ。
予想通り、などと書くと、また、自慢げに、とでも返されそうだが、連休前の週末、暴君の不規則発言や、爆撃の連鎖が、続くことで、大暴落となった。ただ、平均株価は、指標の一つに過ぎず、その構成に含まれる、一部銘柄が、動いたのは、別の要因から、との指摘もある。
いずれにしても、将来への不安が、と書くには、時期尚早なだけでなく、状況を、見誤ることに、なりそうな気配だ。その中で、国を率いる人物が、不安定となる要因を、産み出すとなると、楽観視はできず、備える必要がある、との意見もある。ただ、相場は、何があろうとも、動き続けるもので、日々、取引を続ける人には、ある意味、歓迎すべき動き、となっている、ように見える。ただ、それが、資産を増やす、ことに繋がるかには、何の保証も無い。だから、巧く立ち回らねば、と思う人が、沢山居て、彼らの多くは、画面に張り付き、動きを、注意深く眺め、その上で、判断を下している。その意味で、乱高下を、繰り返すような、相場が続けば、後追いを、繰り返すだけでも、利益を、上げることが、できそうに思える。頭と尻尾を、狙うのではなく、動きの中で、少しの利益を、追い求めれば、それで、十分な利益を、上げられるのだ。一攫千金を、目指すことは、動きの激しい中では、当てが外れ、大損を、被る場合も多く、注意が必要となる。だが、手数料を、払った上でも、少しの利益さえ、上げられれば、と目指せば、それなりの、確保ができそうに、思えてくる。これは、日々の取引でも、長期保有でも、また、投資信託でも、同じことが、言えている。そんな当たり前を、わざわざ、書いてみても、何の意味もないが、平均で見ても、全体を見渡しても、相場が、急速な上昇を、していることは、事実であり、保有するだけで、含み益は、増えているだろうし、その上に、配当などを、含めれば、新政権となってからは、堅調な動きが、続いているのだ。ただ、あの暴君をはじめとして、世界全体では、紛争が、続いているから、このまま、成長を続ける、と見るのは、軽率だろう。慌てず騒がず、成長する中では、長期保有を、基本とすれば、まずは、確実だろう。その上で、何か起きた時への、備えとして、考えておくことは、何だろうか。意外に、難しいことかも、と思う。
偶然に過ぎない、のだろうが、暴君は、株の売買で、暴利を得た、とさえ、伝えられる中、相場の変動に、大きな影響を及ぼす、心理的な要因を、毎度のように、週末になると、世界にばら撒く。週末は、一旦、市場が休むから、だ。直接、手を下してない、としても、解せぬ話だ。
お山の大将とか、裸の王様とか、暴君とか、どう呼ばれようが、あの人物の、支離滅裂さには、何の影響も無い。ただ単に、思い付きや、気紛れや、朝令暮改や、前言撤回が、次々に飛び出し、後付けで、滔々と、自論を展開し、記者達を、愚弄し続ける。何事も、勝ち負けでしか、評価を下せず、勝敗の結果が、下々の者達に、及ぶことなど、意に介さず、我が身大事を、貫き続ける。だが、それが、私利私欲によるもの、となれば、国の大統領として、失格となる、のではないか。爆撃を、続ける中、その理由は、何とでもなる、と言いたげな、傲慢な態度を、示しているが、口から出るのは、意味不明な、言い訳でしかなく、さて、何の役に立つのか、とさえ、思えてくる。国としての体を、成しておらず、権力が、二分された結果、制御不能となる、相手国は、暴君が、繰り返すように、一旦、国を転覆させ、権力の再編を、行うしか、解決の道は、残されていない、とさえ思えるが、実際には、何方も、手放す気は無く、散発的な攻撃と、言い訳に満ちた、口車を、展開するばかりでは、解決には、程遠い状況、としか、言いようがない。その中、資源を、待ち望む国々は、二転三転する状況に、対応が、難しくなるばかりで、聞く耳を持たず、我が道を行く、暴君を、御することは、不可能だろう。それにしても、毎週の如く、持ち込まれる混乱は、絶えることなく、手を替え品を替え、といった感さえ、浮かぶ程だが、さりとて、手や口を出せば、災厄が、降り注ぐことが、確かなだけに、口を噤むしか、ないのかも知れない。とは言え、今回は、こちらも、連休となるだけに、その間に、何が起きるのか。投資家として、気が気でない。まあ、市場も、心理だけで、動く愚かさを、自覚しているのだが。
倫理や道徳は、特に、罰を下さずとも、人それぞれに、自覚する筈のもの、との前提で、成立するとされるが、現代社会で、法律が、執行されるのは、それだけでは、秩序が保てぬ、ことを表している。だから、社会媒体でも、同様の制度を、と望む声は、強まるばかりだが。
現実には、犯人を、見つけ出し、厳罰に処しても、次々に、登場する、新たな勢力を、全て排除する、ことは不可能、と言われる。だから、犯人探しも、厳罰も、無駄と決め付けるのは、どうだろうか。極端な場合には、やはり、投獄を含め、罰金刑や、その他の罰を、下すべきなのは、当然のことだろう。だが、現状では、一人二人を、罰したとしても、焼け石に水であり、この勢いは、収まりそうにない。だったら、危害を加える、発言そのものを、消し去ったら、との意見もある。その通りだが、その為の篩が、まだ十分に、整えられておらず、抜けてしまうものが、多いことも、重大な問題だし、例の暴君と、経営者の組み合わせから、発言の自由を、守るべきとの判断が、下されたことから、発言内容による、選別自体は、難しくなった。でも、と思うのは、その考えが、権力者と金持ちの、組み合わせとは言え、ほんの一部の、意見に過ぎぬことから、今一度、整えてみる必要が、あるのでは、ということだ。年齢制限や、参加資格の制限は、確かに、一つの手法だが、現状を眺めると、それらの効力には、期待できそうにない。だったら、掲げられる言葉に対し、制限をかけた上で、発言者への、圧力を高める手法が、ありそうに思える。これもまた、絶対的なものでは、決して無い。だから、所詮、微力ながら、となると思えるが、だからと言って、今のように、手を拱いていては、被害者が、増えるばかりだろう。だったら、まずは、出力自体を、制御したらどうか。その上で、当然のことながら、参加者全員の、倫理観や道徳観を、良い方に、向かわせたら、と思う。ただ、悪貨と良貨のことが、まさに、当てはまるだけに、容易なことではない。でも、ここで、諦めては、今の、便利な発言の場を、永遠に失う、ことになりかねない。手近な所から、始めてみては、と思うのだが。
制限を、掛けようとの動きが、高まっており、国によっては、既に、始められたと聞く。だが、効果の程は、怪しげと言うより、無駄と断じるべき、とされる。本来、知恵の集合、となるべく、期待されたが、その実、浅知恵や猿知恵の塊で、制限を、逃れる手立てが、繰り出される。
一方で、制限の必要無し、との意見も、根強くあるが、こちらについては、時代や風潮の変化に、ついて行けぬ、古い人間、との批判に、晒されている。今、特に、制限への動きが、急となる国々は、西洋と呼ばれた、先進国が、大部分だが、それらの多くは、人を育てる上で、家庭教育を、大前提としており、親から子への、強い圧力が、躾と呼ばれる形で、実施されてきた。ところが、いつの頃からか、圧力は、どんな状況でも、虐めと断じられ、社会での訴えだけでなく、家庭内についてさえ、子が親を、訴えるに及び、躾が、忌み嫌われる存在となり、自由という名の下に、無法地帯が、各国で広がり、倫理や道徳でさえ、蔑ろにされる、状況に陥っている。その中で、まともな心を、育むことは、望めぬばかりか、犯罪に手を染めても、自己主張に終始し、言い訳を並べるだけの、人間が、闊歩することとなった。家庭に、責任を負わせることが、不可能となれば、国を挙げて、取り締まるしかない、との考えに至るのも、当然だろうか。しかし、一度外れた箍を、嵌め直すことは、簡単ではなく、今の状況では、暴走を、食い止めることは、無理難題となる。となれば、社会媒体への、接続を、禁ずることは、社会主義国でも、独裁国家でも、できぬことだろう。社会媒体そのものを、今一度、整えることに、方針変更する方が、まだまし、なのではないか。と言っても、腐った人間を、放置したままでは、何も起こせぬだろう。倫理や道徳を、今更の如く、持ち出すしか、手段は、残っていないが、さて、腐った人間に、それが、通じるのか、怪しいものだ。となると、仕組み自体に、と願う声も、聞こえてくるが、生成人工知能が、嘘や出鱈目を、ばら撒くのでは、自浄作用も、望めぬことか。どうする!
結果が、出ていないのに、あれこれ、書いても意味が無い。確かに、その通りで、特に、最近の、勝ち負けに拘る、下らない風潮では、一時の、情勢に惑わされ、一方に、加担することで、後に、煮湯を、飲まされることに、なることから、不用意な判断は、避けるべきだ。
国の間の、力の優劣は、経済や軍事などの、要素により、判断ができる、と思われてきた。だが、近年の紛争では、そうとは言えぬ、との状況が、続いており、何が、決め手となるか、見えなくなっている。軍事侵攻により、首都陥落まで、間近と思われてから、もう何年も、経過したが、最近の情勢は、攻め込まれた国の、中での戦闘だけでなく、どこ吹く風と、高みの見物とさえ、言われた侵攻した国の、内部での被害が、急速に広がり、日々の生活までもが、脅かされている。圧倒的な、軍事力の差、と見られたものが、重火器の問題ではなく、小型化した、遠隔操縦の、火器による、爆撃が、主体となるに従い、軍隊などの、人間の移動を、伴わぬものとなり、様相が、変化し続ける。もう一つの、紛争地域に関しては、敵対する国の間の、戦闘は勿論、一方の支援国が、強大な軍事力を、行使することで、指導者も含め、多くの要人を、抹殺して、方が付いた、と思われた。だが、軍隊と指導層が、残ったことで、散発的な反撃や、周辺国への、攻撃が続き、結果的に、停戦へと移り、一旦は、決着しただけでなく、攻め込まれた国が、勝利したとの、分析までもが、飛び交った。だが、不安定な情勢は、僅かな動揺で、傾き始め、元の木阿弥、とさえ思える状況に、戻ったとさえ、言われている。実は、元々、革命後の体制が、不安定な状況で、軍隊と、宗教指導者の間で、微妙な均衡が、保たれてきたが、ここに来て、上層部間の、意見の不一致が、露呈した上で、権力だけでなく、窓口さえも、不確かな状況では、安定な状態は、得られそうにない。新たな革命を、促す目論見が、外れたことで、決着は、見えなくなったが、さりとて、失われた均衡は、戻らぬままだ。としたら、何方に向かうにも、止まる選択は、無いだろう。一枚岩に見える、もう一つの状況とは、明らかに違い、行き着く先も、見えぬままだ。
海の向こうの暴君が、何故、庶民に、人気があるのか、理解できぬ、と思う人は多い。特に、二大政党時代が、長く続く中、庶民的な政党の、大統領が、登場する度、もう一方の、支持者は、理解できぬ、と思ってきたが、今回は、それが、著しいと映る。理解不能、だと。
でも、時代は、衆愚政治が、持て囃される。だから、高学歴者が、支持者の大半を、占めてきた政党とて、例に漏れず、人気優先が、主体を形成し、何方も何方、との感が、共有されている。にしても、何故、あのような、暴言や妄言の主が、人気を博すのか、と考えるのは、当然なのかも、と思う。ただ、今回の、世界的な祭典にも、図々しく、口を出す人間は、やはり、その行動様式にこそ、人気の理由がある、のだろう。同じ競技に対し、囀りは、賑やかなものだ。それも、審判の判定に、文句を並べ、その根拠の脆弱性のみならず、作為や思惑が、込められたもの、とまで言い出す。その態度が、まさに、かの暴君と、そっくりと思う。好悪に基づく、判断基準では、何事も、一方的に、判断できる。だから、応援する国が、負けたとなれば、それは、作為的な結果であり、勝った国が、優位になるよう、忖度した結果、と並べ立て、その証拠を、画像などで、明示しようとする。これは、ある意味、審判団にも、同じことであり、球に仕組んだ、位置情報装置を、頼みとしたり、映像から、反則の有無を、判断している。嘗てなら、そんな証拠は、一切無く、審判の判定に、従うしかなかったが、今では、機械的な証拠を、示すことで、判定を覆すことさえ、行われている。人間が、動き回る競技において、何もかも、機械によって、判断するとなれば、つまらぬものに、なるのでは、という懸念は、依然として、残っているが、まずは、正解を求める、ことが優先され、その通りの基準が、決められていく。他の競技でも、次々に、機械化が進み、人の関与は、急速に、無くなりつつある。競技そのものの、機械化も進む、と言われる時代。さて、何を楽しみに、と思うのは、馬鹿げたことだろうか。