海のこちら側では、新聞と言えば、全国紙が主体だが、あちら側は、昔も今も、全国紙は、殆ど無く、多くが、地方紙となっている。報道内容は、その地域の話題が、大部分だが、それでも、全国、世界の話題が、無い訳ではない。とは言え、嘗ては、地域限定が、当たり前だった。
それが、電子媒体となり、誰もが、全国どころか、全世界の話題に、触れることが、可能となった。これは、まさに、情報社会の恩恵であり、津々浦々の話題に、誰もが、触れることとなった。でも、海の此方も彼方も、今や、自分達の、身近な話題にしか、興味が湧かず、遠くの話が、巡り巡って、自分達の上に、降ってきた時だけ、理解すれば、いいだけのことだ。手にした端末に、表示される内容は、殆ど全てが、手の届かぬ、遠くの話に過ぎず、知ろうが知るまいが、自分の生活に、影響することは、全く無いに等しい。なのに、端末には、些事から大ごとまで、全てが届けられ、関わりが、あろうがなかろうが、全く無関係に、伝えられる。元々、そこに示された、国が、何処にあるのか、知る術がなく、学校に通った時も、何の関心もなく、過ごしてきた。だから、今更、その国の一大事、と伝えられても、何処か遠くの、見知らぬ出来事にしか、ならないのが、当然だろう。先の大戦では、海の向こうも、ある時期から、関わりを持ち、此方が、攻め込んだ時点から、当事国となっていた。その結果、圧倒的な国力で、相手国に、爆撃を続け、最終的には、新型爆弾による、徹底殲滅が、予想できても、実行に移した。確かに、当初は、本土から、遥か離れた、前線基地が、襲撃を受けたが、本土は、殆ど無傷のまま、終戦を迎えた。その後も、例のテロ事件が、起きた時までは、本土が、外国からの攻撃を、受けたことは無い。どころか、テロそのものも、国の間の戦いではなく、過激集団によるものだったから、国家による攻撃は、本土自体は、全く受けてこなかった。その中で、今、情報社会で、もたらされる情報が、あの国の人々に、どんな影響を与えるのか。判る人が、果たして居るのか。情報は、確かに、届いたとして、さて、どんなふうに、理解されるのか。解らないことだらけ、なのかも知れぬ。
情報社会が、確立されて、誰もが、自由に、情報を、手に入れられる、時代となった。なのに、国際問題は、どれも、解決しそうになく、混乱の極み、とさえ映るのは、何故なのか。誰もが、触れられる情報は、一体全体、何なのか、と思う人も多い。多分、操作の為のもの、なのだ。
こうなると、殆どの人が、何も知らない時代と、何が、違うのか、と思える。当時、多くの人々は、報道という形で、もたらされる情報に、触れるのが、やっとであり、それらも、殆どが、操作されたものだった。だが、国の中枢に、居る人達には、全く異なる内容が、伝えられていた。諜報活動、と呼ばれる、地下活動は、各国が、組織した人間により、相手国の、内部で共有される、情報を、掘り出していた。では、今の状態は、どうなのか。一部の国は、依然として、この手の組織を、保有しており、結果として、隠された話を、手に入れられた。先日の爆撃で、指導者の大部分を、失った国は、何らかの形で、爆撃を決行した、国の政府に、動向が、漏れ伝わり、甚大な被害を、受けたと言われる。だが、その後は、どうだろう。誰が、どのように、国の運営に、携わるのか、明確に見えぬまま、人民の蜂起は、期待通りには、起きなかったことで、今の、歪んだ状況が、出来上がったように、見える。その結果を、攻撃された国の、勝利として、解釈する人も、居るらしいが、どうにも、信じ難い。人民の生活は、逼迫するのみで、精神論で、乗り切ろうとする、動きは、確かにあるが、長期戦となれば、双方が、疲弊するだろう。弾切れと、なるか否かは、見えていないが、生活が、危機に瀕した場合、戦闘そのものよりも、深刻な事態を、招きかねない。なのに、大勝利と、見做すことには、理解を超えた、何かがあるのか。何れにしても、このまま、地域の不安定が、継続して、いい筈がない。国際機関は、煮え切らぬままで、解決策は、出てきそうにない。攻め込んだ側の、二つの国が、相手国の、実権を握る勢力を、排除できるかが、唯一の解決策なのか。はたまた、全く別の話が、これから、出てくるのか。肝心の情報は、何処にあるのか。
80年程昔、世界大戦の終焉が、訪れた。それを、きっかけにか、国際機関の仕組みが、大きく改定されて、戦勝国と、敗戦国に、立場を分けて、その後の運営が、図られた。ただ、その他大勢の国々は、戦争に、直接加担した訳ではなく、中立的な立場の国も、多かっただろう。
で、その結果として、その後、長く続くのが、今の国際機関だ。近年、紛争地域の、問題解決に、殆ど役目を果たせず、存在意義は、ほぼ失われた上に、別の利害からか、次々に起きる、問題についても、解決の道筋を、定められずにいる。これは、確かに、ある会議の、常任国となる国々が、自らの、利益のみを、優先させたことから、特に、利害関係が、明確な事案程、拒否権の行使から、結論を、導けずにいる。その前には、指導的な立場が、存在しなかったことが、幾つかの国の、暴走を招いた、ことから、正反対の仕組みを、作り上げたのだが、今や、崩壊状態にある、とまで言われる。不思議なのは、冷戦と呼ばれた時期でも、何とか、均衡が保たれたのに、何故、今になって、こんなに、釣り合いが、崩れてしまったのか、よく分からないことだ。本来なら、心底、嫌っていた時代の方が、利害としては、遥かに異なる状況に、あった筈が、近年の方が、何事も、平行線を辿り、何事も、自国中心の考え方を、貫こうとする。一見、均衡関係は、保たれているが、そこに、小さなきっかけが、加われば、一気に、崩れかねぬ状況、と主張する人もいる。だとして、今更、何をどうすれば、いいのか。責任者の交代が、近づきつつあるが、果たして、首の挿げ替えが、解決を導けるか、怪しいものだろう。では、どうすれば、と言えば、おそらく、最も簡単なのは、常任国を、廃することで、以前同様の、対等性を重視することだ。だが、これは、前の機関に、戻るだけかも、との懸念がある。だったら、5ではなく、もっと増やせば、となる。その一方で、拒否権は、廃止せねばならぬ。さて、どうなることか。
国際協調は、何の為にあるのか。そんなことを、尋ねられたら、今なら、自分の為とか、自国の利益に、とか、そんな答えばかり、返ってきそうだ。だが、何事にも、自国中心に、考えていては、との考えから、この仕組みが、できたのではないか。今や、そんな話は、忘れ去られたのか。
確かに、政治家が、有権者に対し、利益を振り撒く、という姿勢が、露骨になると、協調でさえ、彼方でもなく、相互でもない、自国中心で、考えることが、第一となる。今の、紛争地域の情勢は、互いに、自己主張を繰り返し、周囲を巻き込み、あらぬ方へと、向かっている、ようにさえ見える。その最中、協議を進める、との話が伝わっても、互いに、自国に有利な話のみ、伝えるのでは、話し合いなぞ、できる筈もない。その上、報道は、双方の不安定を、報じることに、専念するから、協議の内容どころか、その進展への、期待は、裏切られるばかり、と見えている。その中、結果的には、頑なに、主張を続けた勢力が、圧倒的な有利を、誇っている、と伝えるに至っては、もうお手上げなのだ。協調の為の、国際機関も、近年は、その存在意義さえ、失われつつある、とまで、言われており、強大な勢力を、有する国が、自国中心に動き、互いに、理解を進めるより、距離を置くことに、力を入れているから、どうにも、解決への道は、遠くなるばかりだ。ただ、当事国だけでなく、他の国々も、多くの要素で、関わらざるを得ない、状況に追い込まれており、このまま、未解決では、被害が、広がるだけ、とさえ思える。何か、妙案はないものか。こうなると、また、世界的な争いに、向かうしかないのか。そうなったら、戦争放棄を、謳っている国は、どう動くのか。不確かなことばかりで、何とも落ち着かないが、多分、このまま進み、何処かで、真の意味の、協議に入るしか、道は残っていない、と思える。楽観的に過ぎる、と言われそうだが、破壊と破滅にしか、向かわない道を、選ぶとは、思えないのだ。
兎に角、客観的な話が、聞きたい、と思うのだが、今の情報社会では、そんなものは、一欠片も、流れていない、のではないか。そんな話をすると、ずっと前は、大衆媒体が、それらを、操っていて、結果として、彼らの思惑が、反映された情報しか、流れていなかった、と返されそうだ。
それは、その通りだろう。この国でも、戦時中は、その極端さが、際立っており、権力側が、流せと指示したものだけが、紙面や音声として、流布された。では、今の状態の方が、より適切だろうか。誰も、頷かないだろう。日々、手にした端末に、表示される情報も、今、面と向かっている、画面にも、そして、紙面や公共放送でさえ、全面的に、信頼がおける、と呼べるものは、一つも無い。だが、洪水のように、押し寄せる情報は、嘗てとは、明らかに異なる程、膨大なものとなり、一人ひとりには、目に触れぬものが、大部分となる。だったら、それらを、纏めて、情勢を示せば、間違いが、無くなるのでは、と思う人も、居るだろうが、これまでの、人為的な、纏めサイトの多くは、偏りを、一段と高めたもので、信頼度は、高まるどころか、地に堕ちた、と言われる程に、なっている。最近は、人の手を、煩わずとも、機械的に、そんな作業を、行う仕組みが、出来上がっており、人の思惑には、左右されず、もっと、均衡がとれたもの、となっている、と言われたりする。だが、現実には、とても、そんな評価が、できる代物とは、なっていない。理由は簡単で、捏造や嘘が、流される情報の、大部分であり、それに基づいて、纏めたとしても、まともなものが、出来上がる筈が、無いからなのだ。では、どうしたらいいのか。結局、情報の受け手が、自身で、取捨選択を、繰り返すしかない。それが、客観的と、呼べるものか、と尋ねられれば、即座に、否と答える、しかないだろう。だが、それでもなお、他人任せを、鵜呑みにするよりは、ましなことに、なりそうだ。でも、その手間が、との指摘には、所詮、それらの判断は、情報を、眺めつつできるから、大した手間は、かからない、とも言える。この点は、どうも、近年、理解できぬ人が、増えているようで、考えるとか、判断するとか、そんなことに、無駄な時間を、かけたくない、と訴えるのだ。ここに、大いなる誤解があり、そんな戯言を、信じるからこそ、何事も、鵜呑みにさせられる、事態が起きる。
情報社会の不思議は、山ほどあるに違いないが、囀り界隈では、両極端に属する、人間達が、蠢いていて、時に、啀み合っている。片方は、何事も、調べずには、済ませられぬ人で、その中で、垂れ流される情報を、一々確認する。もう一方は、その正反対に位置する、人間だ。
こちらは、無知を、何とも感じず、ただ、そこで、相手となる人間を、罵倒し続ける。相手が、間違いを、指摘しても、その間違いは、実は、正しいことだ、と主張したり、指摘する人間が、非常識だと、決めつける。前者は、実害を、生じないが、後者は、ただ、そこに居るだけで、不快感を催し、時には、無視したり、排除したりすると、別の形で、追いかけてくる。迷惑に、思う人が大部分だが、そういう連中に、同調する輩が、登場するのも、あの世界の、特徴の一つかもだ。別に、無知を、恥じる必要は、無いのだが、でも、知らないことは、認めた方がいい、とは思う。と言っても、この手の人間に、かける言葉は、同調以外には、無いのかもだ。何か、意見をぶつけても、批判的なことを、投げかけても、いずれにしても、攻撃を受けた、と判断する限り、罵倒は止まらない。それにより、不快となる位なら、最初から、無視した方が、無難なのだろう。彼らの多くは、同調は、歓迎するが、異論は、全て排除するし、時には、そこに、暴力的な表現を、付け加えて、相手が、立ち去るまで、し続ける。まあ、それらの遣り取りが、何の役に、立つのかと、問われたら、何の役にも、と答えるしかない。のだったら、初めから、無視するのが、適切かも知れぬ。互いに、激昂するまで、論争を続けても、互いに、何の得も、得られないし、無駄な時間を、過ごすだけとなる。はじめに戻り、無知を、棚に上げる人々は、いつ頃からか、仮想空間に、溢れ始めたが、その原因は、何だろうか。幼い頃から、何の批判も受けず、叱責されることなく、育ったからなのか。それとも、仮想空間だからこそ、その逆の反応が、出てくるのか。答えは、見えてこない。そんな答えを、見つけても、何の役にも立たない、と言われるかもだが。
終活、という言葉が、いつの頃からか、盛んに、使われ始めた。当初は、従来の漢字変換しか、見当たらなかったが、今では、ごく普通に、表示される。それだけ、市民権を、得ているのだろうが、受け止め方は、人それぞれだろう。準備万端で、誰にも、迷惑をかけずに、との思惑も。
確かに、人の死に伴う事柄には、普段とは、全く異なるものがあり、その為に、備えをする方が、良さそうにも、見える。だが、その一方で、死は、予期せぬもので、いつ何時、降りかかるか、分からぬ場合も、多くある。老後、と呼ばれる期間に、入ってしまえば、誰もが、そろそろ、と思い描くだろうが、時に、そんな所まで、寿命が延びぬ場合も、あるだろう。そんな、一種突然の死は、致し方ないものの、高齢となり、そろそろお迎えが、と思い始めると、世間で、騒がしくする、終活というものにも、目が向くのだろう。そこに、様々な手続きや、商売が、提示されると、途端に、心穏やかには、居られなくなる、という人も、居るのだろう。となると、ここでも、情報の収集が、肝心との意見が、出てきて、また、面倒を、背負い込むことに、なるのだ。所詮、商売だから、と思えば、適当に、考えれば、という思いも、過ぎるのだろうが、その途端に、そんなことでは、後で困る、などと、厳しい批判が、浴びせられる。それもまた、適当に、無視すればいい、との思いなら、まあ、大したことも、起こらずに済むが、しかし、世の中、そんなに甘くはない。商売人どころか、今や、役所まで、乗り出してきて、色々と、様々に、口出しされる。家族が居れば、それで安心、などと言えぬ、状況さえ、起きかねない。まあ、自分の人生が、終わってしまえば、それで幕切れ、と思えば、どうということも、ないのだろうが、周囲が許さねば、そうも行かなくなる。どうしたものか、と思い始めたら、思う壺だ。生きている間、精々、楽しめば、と思っておけば、またぞろの、懸念や心配も、起こらずに済ませる、のだが。