何でも、機械任せ、との話が伝わる。生成人工知能は、その威力が、伝えられる一方、教育現場での、脅威も、指摘される。更に、組み立てなどの、工業現場では、元々、導入されていた、工作機械の、制御に関する部分に、人工知能が、付け加えられる、と言われる。
工業生産における、自動化の脅威は、半世紀近く前から、度々、指摘されていたが、ここに来て、人間の役割は、と問う声が、強まっている。複雑な作業どころか、正確な仕上がりも、人間より、機械の方が、遥かに、上となれば、人間が、活躍する場は、失われる、と言うのも、当然と思える。では、人が活躍するのは、どの場面なのか。もう、見えなくなりつつある。以前なら、心理的な綾を、冷たい感情の、機械では、理解も、扱いも、できる筈が無い、と言われたが、今では、生成人工知能が、人間との遣り取りを、無難どころか、見事に、こなしている、と伝わる。そういう事例が、示された時に、以前よりは、ずっとまし、と思える光景が、見えるのだが、どうだろう。穿った見方からは、何だか、質の悪い対応を、繰り返す人間を、見るような気が、と思えるのだが、それこそ、今や、世間全般が、そんな輩で、満たされるのだから、比較対象として、それで十分、とでも言うしかない、状況にあるようだ。逆に言えば、人間の方の、劣悪化、質の低下が、余りに、著しいので、それなら、機械で十分、となる訳だ。だったら、もう、全て、機械にやらせれば、となりかねないが、さて、どうだろうか。この考え方に、皆が、賛同するようなら、この勢いは、止められない。でも、と思うのは、人と人との関わりで、わざとらしい、褒め言葉や、時宜を得た、返し言葉が、常態化している、とは言え、それで、満足なのか、と思う部分も残る。昔流れた、SF映画と同じ、光景が、目の前で起きるのを、どう思うのか、と似た部分があるが、どうだろうか。暫く、様子を、見ておこう、と思う。
殆ど無視されるが、文書の作り方について、囀りで、指摘する意見もある。その多くが、大学でのレポートからの、話題なのだが、さて、どうしたものか。初等中等教育で、作文の書き方を、習っている筈が、何故、段落を、つけないのか、とか、段落のはじめは、一字下げる、とか。
確かに、作法は、重要だろう。ネット上の文章でも、多くは、そんな指摘がなされ、囀りは、最初に、一字下げて、打ち込んでも、表示される時に、自動修正される。それ程、作法が、蔑ろにされているのだ。発祥の地であろう、英語文化圏では、どうなのか。段落分けは、何とかできても、始まりの部分では、文頭から、となっている。元々は、間違いを避ける為か、3字下げて、タイプしていたが、今は、それも無くなり、おそらく、段落分けも、こちら同様、一行空けを、推奨するのでは。堅苦しい作法より、中身で勝負、と、こういう人々は、返してくるだろうが、中身が、伴わぬからこそ、作法や形式だけでも、と断じられる。特に、大学教員が、喧しく指摘するのは、提出物の文章が、いかにも、読みにくく、更には、ネットからの、コピペの連続、であることが、明白なだけに、その位の手は、入れておけ、と言いたいのだろう。だが、今時の学生には、ただの雑音にしか、響かない。その上、そういう文句が、感情的なものと、映る為に、成績不良も、教員の暴挙、としか、映らないと来る。これでは、駄目だ、と思うのは、ある世代から、上だろうか。にしても、指摘の理由は、読みにくさが、第一であり、それにより、文章の巧拙などは、二の次に、されるということに、書いた本人は、気付かぬものらしい。その調子で、全てを、相手の責任と、言い募り、遂には、虐めなどと、言い出す始末では、社会から、排除されるのも、止む無しとなる。被害妄想は、ここでも、膨らむばかりであり、被害者然とすれば、何事も、押し通せる、との図式が、展開される訳だ。まあ、そこまで、行かずとも、もう少し、謙虚にしたら、と思うのは、高圧的だろうか。囀りでの無視は、そんな世相の現れ、とも思えるが。
情報社会だから、正確な情報を、とある放送局が、流していた。それは、その通りなのだが、今までの状況から、これを、鵜呑みにする人は、殆ど居ないだろう。裏を取らず、情報源の言葉を、そのまま伝えた、というのが、正確な情報、と言うのなら、その通りかもだが。
現状は、情報の氾濫の中で、何が、正しいのかを、自身で確かめる、という手法が、勧められる。正誤、入り混じったものから、正しいものを、抽出すれば、という話だが、無数にある中で、困り果てる人が、多いだろう。だからこそ、そこで必要となる、取捨選択を、機械任せにしよう、との動きが、急激に高まる。それに加えて、人工知能が、正誤を、判断してくれれば、と願う人も、居るのではないか。まあ、その手の考えも、はじめに取り上げた、考え方も、人それぞれで、自己責任、と考えれば、どうと言うことは、無いだろう。信頼できる、とされたものに、任せただけなのに、偽物を、掴まされた、となった途端に、文句を並べても、どうにもならぬ。だったら、さっさと諦めて、となれば、これもまた、どうと言うことは、無い。だが、世の中、そんな風に、考える人は、殆ど居ない。だったら、自分の責任で、やればいいのに、と考えるのは、どうだろう。そんな指摘を、受けると、それはそれで、また、こんな塵の山から、選び出すのは、自分には出来ない、と答えるのでは。だったら、諦めて、誰かの言うことを、信じたら、となる筈だが、さて、どうか。この手の話に、終わりは無い。もう、無理なのだ。日々、手にした端末に、届く情報は、無尽蔵、と思える程で、既に、お手上げなのだ。だったら、どうすれば、と尋ねられても、答えは、無いだろう。損得勘定で、判断するのなら、多少の損失には、目を瞑るしかなく、得したからと、調子に乗って、失敗した人達を、せせら笑っても、何にもならぬ。囀りなどの、社会媒体に、口出しせずに、大人しく、しておくのが、得策だろう。まあ、ここを読む人には、そんな言葉は、無用だろうが。」
忘れさせぬよう、手を替え品を替え、話が紹介される。今回、公共放送から、流れてきたのは、著名物理学者と、著名心理学者の、間で交わされた、往復書簡についてだった。二度の大戦を終え、何故、人類は、戦争をするのか、という点について、互いの意見を、交換した。
本になっているので、興味のある人は、読んでみたら、と思うが、こちらは、まだ読んでいない。その解説の中で、人間には、生まれついての、破壊への衝動があり、それに基づいて、一国の指導者が、行動に出れば、戦争へと、突入するものだ、という話が、紹介されていた。同じ欲望が、庶民にもあり、戦争へと、傾いた勢いに、乗ってしまうことが、もう一つの、大きな要因となる、と説明していた。確かに、先の大戦では、政権を獲得した、人物が、徐々に、世論を操作しつつ、政権中枢の、考えを正当化し、他国への侵攻だけでなく、ある民族の絶滅さえ、目論んだと言われる。その際に、常識的に考えれば、常軌を逸した、と判断できる、異常な提案でさえ、庶民の熱狂的な、政権への信頼は、見破ることが、できぬままに、国全体として、破滅への道を、突っ走ったとされる。だから、独裁者だけでなく、支持者にも、破壊への衝動があり、その結果として、往復書簡を交わした、二人は、他国への逃亡を、余儀なくされた。その雰囲気を、後世の人々が、味わうことは、決してできぬから、そんな筈は、と思ったとしても、渦中にあれば、全く異なる展開へと、これは、ある意味、あの時と同じ展開だが、押し流される、と言われるだろうが、だとしても、やはり、根源的には、そうはならぬ、と思わねば、巻き込まれてしまう、と思うのも、当然だろう。で、何が言いたいのか。今、それと似た状況、と思われるのは、番組でも、紹介していたが、二人の暴君が、他国への侵攻や攻撃を、繰り返すことへの、拡大の懸念だろう。そうならぬ、と言うは容易いが、現実に、直面した時に、同じことを、言い続けられるか。強がらずとも、それが当然、と考えることこそ、重要なのだと思う。
昨日の話をしても、でも足らないじゃないか、と答える人が、必ず居る。その通り、皮算用を、幾ら繰り返しても、そんな人間を、満足させることは、決してない。今や、囀り界隈では、毟り取る金の、話題などには、目もくれず、ただ、施しがどうなるのか、それしか気にならない。
税収の変遷を、眺めてみると、ここ数年、極端に言えば、二、三年程か、それ位は、確実に、税収増が続く。だとしたら、一部の税を、減らしても、極端に言えば、公約通りに、無くしたとしても、国家としての、収入は、減るどころか、増え続ける。ただ、新聞記事に、あったように、その行き先が、異なるから、その間での調整が、必要となる。国が、定めた方針に、地方は、従うしかない。だからこそ、問題なのだ、との意見が、強まるのも、当然のこと、と解釈する向きもあるが、現実には、全てが、そういう形で、流れるだけに、逆に言えば、支出に、大きな変化が、起こらねば、結局は、配分を、変えなければ、道理が、通らなくなる。だが、被害妄想に、取り憑かれた人々は、何としてでも、自分の意見を、押し通そうとする。だから、この場合でも、国が、徴収したものを、地方に、配分しなくても、別に構わぬ、という前提が、罷り通ることとなる。確かに、疑心暗鬼に、かかれば、そんな言説も、認められるのだが、現実には、それでは、事が進まず、あらゆる事業が、頓挫することとなる。これこそが、大衆媒体が、両手を挙げて、賛同する事態であり、話題として、庶民の誰もが、理解し易いもの、と映るのだ。だが、実際には、事は、それ程単純ではなく、複雑に入り組み、利害が、入り混じるから、最悪の台本、通りには、ならないものだ。それより、力関係が、明白にあったとしても、末端で、大きな口を、開けて、囀り続ける、雛鳥の如くの、庶民の納得を、得ることは、簡単にはいかない。そうなるとして、同じ財布の中身が、どう変わるのか、を考えてみたら、というのが、昨日の話となる。一方で、将来への借金と、強く批判される、債券についても、その流れを、冷静に眺める必要が、あるに違いない。まあ、金利上昇が、どう関わるかは、また別の問題として、見守る必要はあるだろうが。
確かに、人気商売なのだろう。先日も、金の授受で、槍玉に上がった後、本丸と目された人物が、退くだろう、との噂が、飛び交う。世間一般の常識から、大きく逸脱した話に、本人の人気どころか、組織自体が、揺らぎ始めた。噂は、取るに足りぬ、と突っぱねてみたが。
で、国政においては、迎合主義の典型として、減税の話が、選挙前から、決着がついた後も、続いている。ただ、思惑通りには、話が進まず、公約通りに、ゼロにする、ということは、無くなった、と言われる。その一方で、自分らが、話題に出す時には、無視するのに、敵対勢力が、訴えたことには、いつも通りに、悶着が起きる。曰く、財源は、となる訳だ。殺し文句の如く、飛んできた矢に、結局は、無視を決め込んだ、としか思えぬ展開に、どうしたものか、と思う。その代わり、この約束は、ほんの2年だけのこと、と断言し、不安ばかりを、口にする庶民と、彼らに、寄り添うふりをする、大衆媒体が、要求を、高め始める。いつも通りの展開だが、それにしても、互いに、知恵を絞るどころか、何の考えもなく、互いに、罵り合うのみだ。ただ、税金の話は、もっと落ち着いて、考える必要が、常にある。例えば、官庁のサイトでは、今年度の収入予算が、明記されており、それに対して、今回の措置で、税収減は、4.3兆円に、上ると報じられる。その一方、長く抑えられた、給与については、今回も、約5%の上昇とある。言いたいのは、前にも書いた気がするが、給与が上がれば、所得税収も、自然と上がるから、もし、それが、5%ならば、25兆円から、1.2兆円が増える。ただ、昨年度は、4兆円増だったようで、同様のことが、数年に渡り、起きるとの予想が、あるようにも見える。となれば、確かに、食品への税率低下を、他の税収で、賄うことが、できるかも、と思えなくもない。これが、数年に渡り、給与増と結び付けば、意外に、簡単に、確保できるかも、とさえ思えてくる。捕らぬ狸の、などと言われるかもだが、この程度のことも、考えずに、文句ばかり並べても、と考えても、いいように思う。
この時期、例の如く、忘れない、という話で、持ち切りとなる。確かに、多くの事柄は、繰り返すことが、殆どだろうから、それらを、覚えておきさえすれば、同じ失敗は、繰り返さずに済む。だが、言うは易く行うは難し、だ。今朝の、経済番組でも、そんな話題が。
その番組のサイトに、行ったとしても、精々、お試しで、覗ける程度だから、リンクを張っても、仕方ないかも。だが、まあここは、囀りの方を、張っておこう。で、どんな話題だったか。そこにある見出しは、『「創薬スタートアップ 政府の支援策は」永田町の風』となっていた。内容は、高額な費用が、かかる創薬において、問題となる点を、掲げた上で、政府として、何ができるか、を問い掛けたものだ。一つは、高額な研究機器を、保有する組織を、作ることで、その共用を、進めるとのことで、使用料さえ、支払えば、少額で、開発を進められる、となる筈だ。ただ、最近の、この手の問題で、注目されたのが、大学間の、分析機器の貸し借り、といった話題で、予算が、削減され続けた結果、買い替えや修理にさえ、困窮する事態への、対応とされた。ただ、残る問題は、管理運用にあたる、人材の確保、とされていた。同じ問題が、ここでも、生じるような気がする。もう一つは、創薬の人材確保と、育成に関する話題で、共用機器を、保有するだけでなく、そこで、研究も行わせ、育成を行う、との目論見だった。これもまた、資金不足が、露呈しつつある、製薬企業には、魅力的に映る、のかも知れぬが、現実には、創薬に伴う、特許などの、知財をどう扱うか、が問題となる。ただ、これについても、省庁が異なるが、すでに消滅した、ある庁が運用していた、時限的な研究支援が、同じことを、行ってきた。今も、存続するが、5年間限定で、多額の研究支援を、行った組織は、企業からの参加者を、募る形で、人材育成にも、寄与してきた。一方で、特許については、支援母体が、保有する形で、企業への貸与を、行っていた。となれば、この場合も、となるのでは、と思う。ただ、番組では、その点には、一言も触れず、だったので、また、一から出直しか、とさえ思えてくる。