社会媒体の功罪を、論じても、意味が無いのだろう。その証拠に、手にした端末に、届いた情報で、命が助かった、という話がある一方で、その他の膨大な、嘘に振り回され、なけなしの財産を、失った話や、精神的に、大きな傷を、負ったという話が、次々に流れてくる。
ただ、どちらの場合も、結果として、どうなったのか、という話であり、取捨選択を、繰り返すのも、時に、功となり、時に、罪となる。その違いを、そこに表示された、情報の内容から、区別することは、容易ではない。だったら、どうすれば、いいのだろう。答えは、見つからない。ただ、あらゆる情報を、その源によらず、鵜呑みにせずに、暫く、様子を見ることが、肝要に、思える。だが、それとて、その場で、災害に襲われている、という事態には、一瞬の躊躇が、命取りに、なりかねぬ。まあ、要するに、運次第、ということだろう。だったら、何の情報もなく、自身で、周囲の状況を、見極めても、同じことに、なるのでは、と思う。それも、その通りだろう。手にした端末に、届けられる、玉石混淆の、情報に惑わされるなら、自身で、勝手な判断をして、自分の力で、生き残るのも、生き方の一つ、となり得る。ただ、今の状況を、全体として、眺めてみると、今更、端末を、捨てる訳にも、電源を、落とす訳にも、いかないのでは、と思える。依存体質、などと言われるが、それに近い状況に、ある場合に、さて、ここまで来て、そんな英断を、下せるか、と問われたら、殆どの人が、否と答える。そんなもの、なのだろうが、それにしても、少しでも、良い方法は、無いのか、と考える人も、居るだろう。でも、そんなものは、無いのではないか。それより、最後の決断を、常に、自身で行う、という感覚だけは、保っておいた方が、いいように思う。仮令、他人の一言や、画面に出た情報で、左右されたとしても、決断は、自分でしたのだと。そんなことは、結果論でしかない、との意見も、その通りだろうが、それでも、と思う。
主食の問題だから、皆が、躍起になる、と伝えられるが、果たして、そうだろうか。離れる人の話題を、盛んに伝える一方で、こういう情報操作を、繰り返すのは、大衆媒体の衰退を、如実に、表すとも、指摘される。それは、その通りだが、それにしても、この為体は、どうすべきか。
それにしても、茶番の連続、と見えるのだが、他の皆んなは、どう思うのか。不足が、盛んに、伝えられた時、備蓄で、穴埋めを、との考えが、出てきたのは、ある意味、当然のものだった。その前の、担当大臣が、不足を否定するのみ、だったのに対し、就任後に、一気に、舵を切ったのは、実態の理解が、不足したのか、はたまた、英断だったのか。何れにしても、その後の展開は、この国の、流通構造の問題を、露呈したのだろう。重い腰は、結局、上がることなく、その後、新政権で、就任した大臣は、監督官庁の、出身とのことで、双方への理解が、あるものと、想定された。が、期待外れ、だったのは、明白であり、この期に及び、慌てふためく、様子のみが、伝えられる。だが、ここまでの経緯でも、疑惑は、何度も、浮かんでいた。例えば、備蓄の放出後、市場に出回らぬ中、経営の立場から、保管場所の確保と、経費は、大きな問題、だった筈だが、一向に、漏れ聞こえぬままだ。穿った見方からは、備蓄庫に、そのまま、据え置かれた、とも見られたが、真偽の程は、確かめようが無い。だが、ここに来て、買い戻しが、論じられると、その考えが、再び、頭に過り始める。まさに、帳簿上の、移し替えで、現物は、其処に置かれたまま、であれば、保管状況への、懸念も、払拭できる。何しろ、備蓄したまま、だったのだから。その上、放出米を、競り落とした業者は、保管場所の変更で、輸送費と保管費を、請求できる、となれば、それこそ、詐欺であり、濡れ手に粟の、典型とさえ、思えてくる。一部流通した、備蓄米も、東へ西への、輸送を伴い、輸送業者さえ、潤わせた。一事が万事、この調子だったとすれば、今回の、米騒動は、まさに、空騒ぎの典型で、そのお零れを、悪徳業者共が、受け取っただけのこと。
白い家の発表には、栄誉の文字が、踊っている。暴君の戯言は、社会媒体に、並ぶだけなら、老人の妄言、と片付ければ、それで済むだろうが、公文書に、載せられたら、話が、違ってくる。だからこそ、世界中で、報道されるのだが、その実、効力の程は、怪しいどころか、無いに等しい。
今朝の経済番組では、海の向こう出身の、お笑い芸人が、盛んに、揶揄していたが、これまでにも、同様のことが、以前の大統領が、行ってきたことに、触れていた。その上で、本人の名前ではなく、国の名前を、使ったことは、まだ良かった、と付け加えたのは、笑止千万を、糾弾したかったからか。ただ、国際的には、この類の話が、何処にも転がっている。こちらも、大陸と列島に、挟まれた海域の、呼称について、隣国が、何度も、懲りずに、改めることを、国際社会に、訴え続けている。自分達で、どう呼ぶのかは、自分らで、決めればいいことで、何の制限も、課されない。だが、国際的に、どう呼ぶかには、様々な手続きが、必要なだけでなく、確固たる根拠が、必要とされる。その度に、こちらは、その名の、歴史的な意義を、何度も、繰り返してきた。結果として、変更が、認められず、あちらの怒りは、収まらぬままだが、どうなることか。一方、はじめに取り上げた、湖の呼称変更は、同じように、国内で、どうするかは、暴君だろうが、別の人間だろうが、公文書で、伝達すれば、変更されるのだろう。だが、これまで同様、それが、国内で、浸透するかも、国際的に、認められるかも、別の話となる。対岸の火事どころか、どうでもいい、瑣末なこと、と断じてしまえば、取り上げる必要も、無いと思えるが、暇な報道は、暴君の動向に、目を奪われるまま、下らない、話を書き連ねる。こちらの海の、呼称については、自分事で、国際的には、所詮、瑣末なことでも、やはり、取り上げるべきだが、あちらの話は、どうでもいい、としか思えぬ。
暴君の話は、何度も書いているが、常に、気になることがある。世界が、彼らに接する、やり方は、何か、飛んでもなく、間違っているのでは、という点だ。絶大な権力を、握っているから、腫れ物に、触れるように、との思いがあるのは、ある意味、当然のことなのだが。
現実には、両人共、小心者であり、何かにつけて、恐れている態度が、端々に、現れている、と思える。これは、細心の注意を、という考え方とは、明らかに異なり、ただ、恐れており、それを、悟られぬよう、虚勢を張ることで、如何にも、権力者の態度を、保っている。だが、その実、目の前の、恐怖を逃れる為に、暴言を吐いたり、周囲の人々に、八つ当たりを、し続けるだけ、のように見える。それを、誰が、どのように、誤解するのか、あるいは、曲解した上で、皆が従い、右往左往させられ、疲れ果てている、ように見える。特に、軍事力の行使においては、絶対的な兵力を、誇る、二つの国を、率いているだけに、手が付けられず、まさに、腫れ物を相手に、慎重な対応が、求められる、と信じ込んでいる。でも、その根底には、単なる恐怖が、横たわるのみで、それを、取り除けるのは、他人ではなく、彼ら自身でしか、ないことに、気付くべき、なのではないか。そんなことを、考えるのは、報道で、盛んに伝える、彼らの言動から、発せられる、警報のようなもの、ではなく、彼らが、そんな発言や行動を、する理由を、考えてみたからで、まさに、弱虫の典型であり、他人を、貶めることで、自分の弱みを、隠そうとする、そんな魂胆が、見え隠れするからだ。その意味では、面と向かって、英語で言う、loserの一言を、浴びせてみたら、と思うのだが、記者達には、そんな勇気も、そんな機転も、無いらしい。取り巻きを含め、確かに、職を失いたくは、無いのだろうが、そろそろ、引き際を、考えさせては、と思ってしまう。どうなることやら。
今の紛争の状況を見て、冷戦期を知る人の中には、東西に分けられた、勢力図を、思い出す人も、居るのではないか。国際機関が、大きく制度を、変えたとは言え、その後、主導権を、握ろうとする勢力が、真っ二つに分かれ、睨み合った、あの時代を、思い出すのだ。
確かに、拒否権を有する国が、大きな権力を得て、その他の国々を、率いていた。それが、主義主張の違いから、二つの勢力に分かれ、互いに、絶対的な力を、得る為に、兵力増強に、走っていた。その為には、強力な爆弾が、必要との考えで、原子爆弾だけでなく、水素爆弾にまで、開発が及び、この星が、消滅する程の威力、と言われた時代もある。ただ、睨み合いに、必要な要素として、互いに、せっせと準備したものの、いざ、使用を考えると、相手国だけでなく、自国にも、甚大な被害が、広がることが、明らかとなり、備蓄を増やす、という方向に、進むしかなくなった。ただ、冷戦が、終わったと言われ、国の成長には、経済発展が必要、という考えが、唯一のもの、となってからは、縮小もあり得る、となりかけていた。だが、先日取り上げた、権力者の欲望は、そんなことでは、消滅しないらしく、二つの大国が、それぞれに関わった、軍事侵攻や紛争が、始められて、終わる気配が、見えてこない。このまま、世界規模での、戦争へと、結びつくかは、依然として、予断を許さず、危ない橋を、渡っているのかも、だが、それにしても、何を、争っているのか。あの土地は、自分らのものだ、とか、あんな危険な連中が、隣にいるのは、気に食わない、とか、そんなことでも、考えるのか。まるで、幼稚園児の喧嘩か、とさえ思えるが、そんなものの、とばっちりを、食らいたくはない。だったら、もっと真剣に、安定を取り戻す、動きが起こっても、と思うのは、国際政治を、知らぬ人間の、浅はかさ、と揶揄されようが、どうでも良い。さっさと、落ち着き先を、見つけたら、と思う。
要するに、言論の自由、の場において、配慮が必要か、という問題なのだろう。確かに、必要論を、掲げる人々は、誰もが、不快な思いを、抱かぬように、気を遣うべき、と主張する。それに対して、不要論では、不快ならば、見ずとも良い。拒絶なり、不表示なり、すれば、と来る。
何方も何方、なのであり、こんな議論は、不毛に違いない。だが、国として、治安を保つ、役目を負う場合、何方に、与みすべきか、簡単な問題ではない。特に、いい大人を、相手にするなら、ご自分で、ご自由に、とでも、書いておけば、いいのかもだが、幼い子供では、どうすべきなのか、今、議論の最中、なのだろう。何でもかんでも、禁じることが、適切とは呼べず、時に、そういう害悪に、触れておくことで、心も体も、強くなる、との意見もある。パンチとしては、過剰反応は、見るに堪えず、いい大人ならば、もう少し、自分自身を、律して欲しい、と思うが、これとて、幼子を相手に、となると、一概には、言えないかも、と思えてくる。ただ、ここでは、社会が、と言い出す前に、家族が、とか、親が、とか、言っておきたい。害悪は、何処にでも、転がっており、それらの影響から、子供を護るのは、親の役目、と思えるからだ。その点、最近は、無責任が、横行している、とも思える。幼子に、責任を負わせ、知らぬ顔で、居る親には、なんのつもりかと、思えることも、度々ある。一方で、最近の、社会が、配慮すべき、との風潮も、不思議に思える、ことが屡々ある。先日も、原爆資料館だったか、展示の中に、衝撃的なものがあり、子供の心に、強い影響を、及ぼすとの話から、展示を、止めるべき、との意見がある、と報道された。それに対し、被爆者から、一種やり過ぎ、との反論が、あったとされたが、どうだろうか。親心から、醜いものを、見せぬよう、という話と、何処か、似通ったように、思えたのだが、箱入り娘じゃ、あるまいし、何の配慮かと、思えた。もし、害と思うのなら、見学させず、大事に育てれば、と思う。それが、どんな心を、育むことになるかは、誰にも、判らないだろう。
囀りを筆頭として、社会媒体の害悪は、指摘する声が大きい。だが、媒体を、幾ら批判しても、それによって、悪影響を受ける人々が、居なくなることは無く、増えているのでは。だからこそ、幾つかの国が、若年層の、接続を制限し、害毒の広がりを、妨げようとする。
これ自体が、権利の剥奪である、との指摘もあるが、果たしてどうか。特に、家族の影響が、ここまで縮まり、更には、親までもが、例の媒体で、罵声を浴びせたり、相手を、罵倒することに、躍起になるのでは、子供の教育は、不可能に近い。一方、害悪の元は、何処にあるのか、定かではない。度々指摘したが、海の向こうの暴君は、その代表と目される。就任前から、暴言を連発し、選挙戦でも、政党の代表となることさえ、難しかった。その理由の一つに、大衆媒体の存在があり、暴言、妄言、その他の発言の、誤りを、一つひとつ指摘し、能力の無さを、糾弾していた。だが、同じ媒体でも、社会媒体は、上から目線で、厳しい指摘や、誤りの指摘を、する訳でもなく、好き勝手な発言が、垂れ流される。その中で、それまでなら、演説会に集まる、狂信的な支持者以外には、影響が及ばなかったものが、新たな媒体で、強い発言をする、姿に対して、憧れたり、好ましく思う人が、徐々に増えたことが、彼の、前回の勝利へと、結び付いた。これだけなら、変な奴の登場、で済むのだが、社会媒体は、それに留まらず、手にした端末から、多くの人々が、同様の、過激発言を、繰り返すこととなり、そのついでで、支持者の数も、急増したのだろう。この悪影響は、敗退した間を挟み、今でも、強く及んでいる。相変わらず、根拠の無い、決め付けを、多用し、批判や指摘に対して、歯牙にも掛けぬ、態度を続ければ、弱虫どもは、強さに憧れ、強者を演じる、極端な考えの、持ち主達も、擦り寄ってきて、依然として、支持者の数は、極端には、減っていない。とは言え、こんな言動が、及ぼす害悪は、実は、全く違う形で、多くの人々の、異常行動へと、結び付いた。無根拠での発言も、頑なな態度も、暴君に、酷似した形で、使う人々が、囀り界隈に、棲みつくことが、諸悪の根源と、なったのでは、と思う。ただの、後追い人が、権力者宛らに、持論を展開するが、読むに堪えぬ、代物ばかりが、端末画面に、表示される。禁じない限り、拡大生産が、続きそうな気配で。