何でも信じ込む、筈なのに、あの連中が、信用ならんのは、一方に、与するからだ。気に入るか、気に入らないか、によるとの意見もあるが、利害が、先に立つ、とも思える。それも、捻じ曲がった末での、結論であり、多くは、損失の方が、遥かに、大きくなるのだ。
にも拘らず、責任は、他人に被せる。何方を、信じるかは、自分で決めた筈が、それが、期待通りの結果に、結び付かぬと、途端に、陰謀論やら、罠やらの、話を加えてくる。今の時代には、そんな輩が、海の向こうの暴君を、はじめとして、溢れ返っており、一番困るのは、その程度の連中が、何故だか、権力を握り、組織を動かしている、という現状があることだ。理由は、定かではない。以前なら、そういう無能な人間を、担ぎ上げることで、自分に有利になるよう、組織を動かす人間が、暗躍していたのだが、ここまで混乱すると、そんな人間が、何処にも居ないのに、勝手に、熱狂的な支持が、起き始めて、暴走が続くようになる。これは、最初に挙げた、信じ易い人々に、典型的な傾向であり、それに乗じて、権力を握った挙句、進め方を、誤る人が、目に付くようになった。まあ、そういうことが、属する組織に、起きて仕舞えば、嵐が過ぎるのを、待つ以外には、手立てが無く、敢えて、反旗を翻すと、自らの地位さえ、失いかねないのだから、困ってしまう。正論は、何の役にも立たず、反対者達に、格好の材料を、与えるだけとなるから、控えた方が、無難なのだろう。となれば、暴走を、阻止する手立ては、講じようが無くなり、腐敗の一途、となりかねない。何処で、どうやって、阻止するかについて、答えを、知る人は少なく、振り子の振り幅が、増していくのを、抑えること位しか、できることはない。元に戻して、一方に与する人間は、多くが、被害妄想を抱き、相手を、盛んに批判する。それに対しても、手当に、絶対的なものはなく、今は、静かに待つのが、適策かも知れぬ。無駄な力を、使うよりも、自滅を待つのは、面白くはないが、徹底抗戦しても、大した成果が、上げられぬのなら、それも一興かと。
何でも信じ込み、鵜呑みにしてしまう人に、囀りは、最適の情報源、となるのか。確かに、種々雑多な話が、流れてきて、その中には、時流に乗り、皆が、信じるものも、あるにはあるが、玉石混淆とは、とても呼べぬ程に、悪質な、嘘や偽りが、垂れ流されている。
それについては、何度も、指摘したが、最近、気が付いたのは、もっと悪質なものだった。自分事のように、書き連ねて、延々と、続く話に、読み進んでみると、結局は、他人事でしかなく、同じ発言者が、同じような話を、次々に、掲げている。そんなことをして、何の意味が、と思っていたが、どうも、広告による、収入を狙った、もののようだ。まことしやかに、語られる話だが、現実には、創作でしかなく、読み手を、欺くものでしかない。それでも、何度も、同じ話に、惹きつけられたり、同情の意見を、書き込んだり、する人も多く、今の囀りの仕組みでは、そんなものが、矢鱈と、表示されるから、困ったもの、と思う。要するに、仕組み自体が、嘘や偽りだけでなく、詐欺行為に、加担している、と見ることもできる。だが、仮令、そういうものを、管理企業に、指摘してみたところで、何の反応も無く、また、実害が出たとしても、責任逃れの反応が、返ってくるだけだろう。要するに、そんな話を、信じる人間が、愚かなだけであり、情報提供においては、選別をせずに、全てを晒すことが、重要なのだと、言わんばかりだ。こんな騙し方は、金銭的な、被害を産む訳では、ないだろうから、賢く、相手にせずに、流れていくのを、待つしかない。同じ穴の狢、と思えるものに、書いてあることは、上に挙げたのと、同様なのだが、それに続くのが、投資話となるものがある。如何に、資産を築いたのか、一種の自慢話だが、それに続いて、特定銘柄の推奨や、運用法の伝授など、如何にも、儲け話が、転がっている、とする筋書きで、勧誘に走る。それも、当初は、無料相談を、装った上で、深みに嵌れば、そこから、毟り取りが、始まるという、詐欺の手口が、見えてくる。情報に飢えた、貧しい人こそ、被害の対象となり、なけなしの金を、失うらしい。情報の真偽も含め、見極めができぬのなら、ただ見るだけに、しておくことだ。
米騒動が、始まった頃、担当大臣は、不足は無い、と否定していた。しかし、有権者からの声は、止まらなかった。だから、交代させて、新大臣は、備蓄米の放出を、宣言した。だが、出自との関係で、絶賛の声は、余り起こらなかった。でも、次の大臣が、就任すると。
全体的には、何の変化も無かったのに、絶賛の声が、特に、囀り界隈に、巻き起こった。人気商売、一辺倒の、前任者と違い、監督官庁出身の、新たな大臣は、期待を込めて、迎え入れられた。そんな程度の、理由なのかもだが、囀りで、賑やかに書き立てる、あの手の人々には、まさに、救世主、と移ったのだろう。それまでの、農政が、如何に、誤ったものだったのか、経過を見れば、分かりそうなものだが、勢いに任せて、持論を展開するだけの人種は、大臣も含め、まるで、騒動が収まる、とばかりに、話していた。ところが、その後も、何も変化が起きず、米価は、戻るどころか、異常な物価上昇を、遥かに上回る値で、びくとも動かず、何が、救世主なのか、と思う人も、居ただろうと思う。今回の改造では、姿を消して、あれ程に、熱狂した発言主達は、一言も、一行も、書こうとしない。理由は、簡単なのではないか。農政の過ちを、是正する為、と称して、進められた、増産計画は、確かに、功を奏し、好天続きで、作柄予想も、明るさを、増していた。だが、世界初、と呼ばれた、先物市場をはじめとして、価格の下落が、見え始めると、別の懸念が、渦巻いたのだ。一つは、古いものより、新鮮なものの方が、安いという、市場原理では、理解できぬ状況、が起きたこと。もう一つは、不足が、一気に、米余り、という事態に、陥り始めたことだ。一気呵成に、攻め立てた、増産への舵きりは、その通りの、結果を産んだが、それまで、微調整を重ね、無駄が出ぬよう、との目論見で、描いてきた、図式が、一気に崩れ、農家の生活を、脅かす程となった。更迭された、訳ではないが、備蓄米の買い戻し、という判断が、下った時点で、面子丸潰れ、の状態だったに、違いない。絶賛の嵐は、何処かへ過ぎ去り、今の状況となった。今度の大臣は、後始末に、明け暮れそうだが、どうなることか。
報道が、恣意的で、下らない情報ばかり、流すからと言って、全て無視すれば良い、とは行かぬだろう。例えば、大地震が起きた時、津波への警戒を、流してくるのは、主に報道だし、他の災害関係も、同じ類のものだろう。それらを、無視すれば、何が起きるか、誰もが知る所だ。
それは、確かなのだが、だからと言って、何度も繰り返される、災害警報に対し、全てに反応するのは、ある意味、馬鹿らしくなる。それは、避難に関する話も、同じことなのだが、監督官庁は、次々と、手を替え品を替え、脅し文句を、更新し続けるから、扱いに、困る人も多いだろう。とは言え、自然の恵みに、接することが、できるのは、裏を返せば、自然災害にも、接する機会も、多くなるのだ。温暖化による、という文句については、信じ難いものがあり、鵜呑みにするつもりは、毛頭無いのだが、この所、各地で豪雨が続き、その度に、洪水に襲われたり、裏山が崩れたり、となる。危なければ、避難が一番、との意見も多いが、短期の集中豪雨の場合、洪水と崖崩れが、同時に起きる場合も、少なくはない。動いても、留まっても、何方にも、危険が伴う。その為か、災害報道の中で、盛んに、避難ができるのなら、そうすべきとの話の次に、もし、難しいのなら、命を守る行為として、建物の中の、崖から遠い方、高い階で、待つべきとの話が、続けられる。耳にタコが、と思う人が、大部分だろうが、災害報道の中で、犠牲者についての、状況が伝わり、また、土砂が、流れ込んだ、家屋の姿が、映し出される。そこに、どれだけの人が、注意を払うかは、知る由も無いが、多くが、一階に留まり、犠牲になったとされる。被害家屋の多くが、二階建てなので、こちらは、不思議に思うのだが、報道では、その点に、触れることは、まず無い。災害が、起きる前には、あれ程に、連呼していたのに、実際の被害では、その点に触れず、死者の数や年齢を、淡々と伝えるのみだ。本当に、災害を、未然に防ごう、とするならば、起きた災害に対して、問題点を挙げ、それを避ける手立てを、説くのが、当然なのに、何故だろう。死者に対し、批判を浴びせるから、との意見もあろうが、それなら、間接的なものは、いいと言うのか。また、普段、無視する人の多くこそ、こんな時に、指摘すれば、少しは覚えるのでは、と思う。
海の向こうの暴君、でなくとも、皆が挙って、盛んに批判する、大衆媒体の、報道に関しては、確かに、偏りが著しく、捻じ曲がった考えに、基づく暴論を、実しやかに、流している。だが、暴君も社会媒体の輩も、反論するだけで、根拠も示さず、違う考えを、押し付けるのみだ。
以前なら、新聞などの、活字媒体が、その役目を果たし、皆が、少し時間がかかっても、正しい情報に、触れることが、できるように、なっていたが、今や、活字媒体さえ、何処かからの、借用でしかなく、裏も取らずに、垂れ流す状況に、陥っている。その手の話を、当事者に、伝えると、猛反対の意見が、返ってくるが、やはり、質の低下は、否めない。これでは、情報自体が、信頼のおけぬもの、と化してしまうから、何も、確かなことが、無い状態になり、皆が、好き勝手に、言い放つだけ、となる。こんな時代に、どうすれば、自分自身を、守ることが、できるのか。一番簡単で、手っ取り早いのは、自身で、正誤の判断を、下すことだろう。ただ、そこで、好悪に基づき、確かめもせず、となれば、自身の選択により、過ちを繰り返し、損害を被ることとなる。これを、自己責任と呼び、自分で、自分を、不利にするだけなら、勝手に、責任を負えば、となる訳だ。だが、今の世の中、そういう具合には、話が進まず、誰か、別の人間や組織に、責任を、負わせようと、躍起になる。だから、自身の判断、という部分が、全く違う解釈で、実行されており、馬鹿げた話に、結びつくこととなる。最後の責任まで、自身で果たすことで、他人に依存せず、自分の道を、歩める筈が、いつの間にか、責任転嫁を、繰り返すことで、自身で、責任を果たさぬだけでなく、損害賠償などの、手段によって、自分の責任を、放棄するだけでなく、相手に、償わせる訳だ。これでは、どうにも、と思うけれど、今や、これが、常識となり、繰り返される。となれば、肝心な時には、誰も近付かず、間違いに、加担することなく、何も起こらず、何も始まらない。本当に、それでいいのか。当事者達に、聞いてみたいものだ。
記憶が、不確かなのは、いつものことだが、これ程に、皆が、そこらじゅうに、書き殴るのに、何処にも、記録が無い、とは行かぬだろう。だとしたら、報道する側は、もっと、詳細に渡り、状況を報告すべき、ではないか。本当に、政府の揚げ足を、取りたいのなら。
備蓄米が、放出される、と報じた時、一部には、味の問題を、取り沙汰する動きが、起こった。新米は美味いが、古米は食えた代物ではない、とか、そんな意見が、盛んに飛んだと思う。それに対して、政府関係者からは、備蓄米は、きちんと保管され、味に関しても、問題ない範囲に、留まっている、という話が、あった気がする。それでも、いざ、市場に出回ると、二度と買わない、との意見や、やはり不味い、との意見が、盛んに、出ていた。報道も、それに乗せて、備蓄米の放出は、緊急措置であり、二度と起きぬよう、増産する必要を、説いていたと思う。だが、騒動が、静まり始め、今年の収穫が、予想されるようになると、一気に、雰囲気が変わった。古米より、新米の方が、安値をつけた、という話も、不思議と受け取られたが、不足だから増産、という図式が、たった一年で、ころりとひっくり返り、まるで、無駄な努力の如く、批判が出始めた。この程度の変動は、自然相手のことでは、当然と思えるが、そんな事を、微塵も考えず、ただ、自分以外を、批判したいだけの人間には、当たり前でも何でもなく、勢いよく、罵声を浴びせるだけ、となってしまう。その一方で、米余りが、露呈すると、途端に、荒技が、出てきた。放出した備蓄米は、一時凌ぎという、役割を終えたから、元の鞘に、収めようと、買い戻しの話が、出てきたのだ。前にも、少し書いたが、これが、書類上のことだけで、備蓄米は、一度も保管庫から、出されることなく、買い戻しで、目出度目出度、となるのなら、品質の劣化も、味が一層落ちることも、起こらずに済むが、手続き上の手順として、あちらこちらに、保管場所を、移動させた上に、温度管理も、疎かにしたら、元通りとは、行かぬ話で、金をかけて、質の低下を、進めただけとなる。そんな考えが、過ぎるのだが、どうも、報道を見る限り、そんな話は、全く触れられず、全て、闇から闇へと、進めるのみかも、と思えてくる。騒動は、確かに、騒動なのだが。
米騒動は、何処に向かうのか。市場原理という、あの手の人々が、好んで使う言葉によれば、なるようにしか、ならない、とでも言うしかないが、実際には、一攫千金なのか、日頃の儲けなのか、それを目論む輩が、様々に暗躍し、都合良く、事を運ぼうと、するだけだ。
で、農家が、せっせと、米の生産を、増やそうとした結果、何と、米余りが、予想され始め、遂には、古いものより、新しいものが、安くなる、という事態に陥った。骨董品なら、古さが、誇るべき対象と、なるのだろうが、食べ物は、そうはいかぬ。同じ味なら、新しい方が、良いに決まっている、との意見が飛び、その通りの展開、となっただけだ。しかし、それでは、市場原理とは言えぬ、との拘りからか、操作が入り、買い戻しという、裏技まで、飛び出す始末。こうなったら、価格操作は、意のままに、としか見えぬが、果たして、事実はどうか。そんな騒ぎが、広がり始めた頃、生産現場に、懸念が広がった。天候不順は、今に始まったことでなく、自然相手の仕事なら、様々な想定が、必要とは言われるが、適度な降雨量と晴天に、恵まれたとされ、豊作が、予想されていた所に、秋の長雨が、続いた結果、田圃はぬかるみ、機械化された中で、活躍する筈の、稲刈りの大型機械は、正常に、動かぬのでは、となってしまい、色良く実った稲が、そのまま放置され、時に、発芽したとの話が、伝わってくる。こうなれば、作柄など、言うまでもなく、期待された、収穫量が、確保できぬ、との懸念が、急速に広がる。実際には、どう転がるかは、まだ見えていないが、不安や懸念を、好んで使う、報道にとっては、まさに、渡りに船とでも、言うべき状況が、作られつつある。消費者にとり、今度は、安い米が、食べられるとの期待は、既に、裏切られつつあり、収入確保を、如何に進めるかが、唯一の道、とでも言われ始めたが、どうなることか。収支の均衡は、どんな生業にも、不可欠なことで、そこにこそ、価格設定での、要点がある筈だが、違う流れを、押し通そうとする動きに、今度は、どうなることか。