パンチの独り言

(2026年9月28日〜10月4日)
(大切なこと、開き直り、選考基準、泡沫、見掛け、片棒を担ぐ、見方の違い)



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10月4日(日)−見方の違い

 独り言を、始めた頃に、紹介した話だが、あの紛争地区に関して、多くの人々は、その地区を含む地域の、一方的な戦いに、苦言を呈する。それに対して、そこに住み、兵役にも参加し、日々、不安に苛まれる、生活を送る人間からは、強い反発が起こる。その背景を、理解せぬ人へと。
 ここ数年も、圧倒的な軍事力で、徹底的な破壊を、続ける国と政府に対し、世界各地から、強い批判が、浴びせられる。先日の、国際機関の総会でも、件の宰相が、壇上に上がった途端に、多くの国々の代表が、退席したことが、報じられた。あの国を、立ち上げた人々の多くが、先の大戦で、虐殺の地獄を、見たことに対し、ジェノサイド、なる言葉が、使われるが、それと同じか、もっと酷いことを、その子孫達が、行なっている、というのが、批判の核心と言われる。だが、状況の違いに、言及する人は、殆ど居らず、死者数のみに、目を奪われての、主張に対して、もっと強い、反論があっても、と思えるのだが、何故だろうか。こちらから見れば、爆撃を繰り返す、理由の一つは、それが最大のものだが、ゲリラ活動を、続ける連中の存在であり、彼らの活動を、支持する人々の、存在があると思う。無垢な人々、との表現が、度々持ち出され、被害者としてしか、見ようとしない態度には、別の意味の、悪意さえ感じられる。最初に取り上げた、人物の発言も、それを受けたもので、力で捩じ伏せられた、人々が起こす、犯罪には、目を瞑る態度には、やはり、悪意しか感じない。これが、海の向こうの大国の、協力を得ての爆撃に、発展したのだが、それも含めて、偏った考え方が、大勢を占めることに、懸念を示すべき、と思うのだが、どうだろうか。地下活動に、力を貸して、その国の混乱を、招くことが、戦略として、長く続いた結果、だとしたら、その悪行の数々こそ、もっと批判されるべき、と思う。

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10月3日(土)−片棒を担ぐ

 先人の知恵を、授ける、との企画だったのか。成功者の話を、記事としてではなく、自身の声で、語って貰う、という意図だったのだが、提案は、それまでが、百発百中だったとしても、次があるとは限らず、経営は、神がかりと言われても、どんな形かを、検証する必要はある。
 昨日の独り言は、まさに、その典型、と思われた流れで、次の企画はこれ、との宣伝を、兼ねての紹介は、当初の、爆発的な人気を、引き出したのだが、その後の低迷は、まさに、宣伝ではなく、中身の質により、広がった実感が、期待外れとなった原因だろう。ただ、そんな企画倒れは、これまでにも、多くの人々が、何度も見ており、よくある話の一つ、に過ぎないことだ。ただ、百発百中、との触れ込みに、耳を傾け、必死でメモを取っていた、あの参加者達の、落胆は、相当なものだったろう。それでも、失敗しての、次の成功と見れば、まだ、救いようがある。もう一人の人物は、嘗て、経営の神様、と呼ばれた人物の、再来とさえ、紹介されたことも、あったように聞くが、その実、剛腕社長の呼び名通り、社員に、強い圧力を掛け、不正も厭わず、との姿勢から、様々な問題を、生じていたことが、退任後に、明らかとなった。これでは、企画倒れ、などという言い訳も、通りそうになく、企業経営において、最も重要な部分を、蔑ろにした中での、好業績では、詐欺紛い、との指摘が出ても、止むを得ない、とさえ思えてくる。こんなことを、何度も書くのは、経済界での、この手の問題は、今に始まったことでは、決して無いからだ。その上、報道に携わる人々は、人気の絶頂では、絶賛し続けるのに、一つ、問題が生じたら、途端に、押し黙ってしまい、前に出した、自分の評価について、触れることも、無いままとなることが、最大の問題、と思えてくる。提案が、外れてしまった場合に、どんな批判を、浴びせるかは、大した問題では、無いのだろうが、その一方で、企業不正については、今や、コンプライアンス、などと、カタカナを使ってまで、紹介されることについて、報道自体も、責任の一端を、負っていることを、改めて、意識すべき、と思う。

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10月2日(金)−見掛け

 成功者の話は、秘訣を知りたい、と思う人にとり、重要なもの、と映るようだ。だからこそ、朝の経済番組でも、創業者や成功者の話が、紹介され、参加者から、様々な質問が、出される。そこでの遣り取りは、成功の秘訣を、知ることにより、将来を確かなもの、とする人には、宝物のように映る。
 資産運用同様、経営の手腕は、成功を夢見る人にとり、手にできるなら、と願うものの一つだろう。だからこそ、経済を扱う番組で、特集を組んでまで、経営者や成功者の話を、紹介しつつ、次代を担う人からの、質問に答えることで、知恵を授けようとする。だが、一度は、手にできた成功が、再び、手に入るとは、何処にも、保証は無い。にも拘らず、手にしたことの無い、人々からすれば、一度でも、手にした人の話は、何かの役に立つ筈、と見えるものだろう。それは、拝聴する人間よりは、その企画を進めた、番組関係者の方が、遥かに、強く抱いたものかも、と思える。こんな話を、書いたのは、開園したばかりの、南国の公園が、直後の喧騒が、去った後で、閑古鳥が、鳴き始めた、と伝えられる施設の、提案者や、一代で築き上げた、企業が、拡大の一途を、辿っていたのに、今や、落日の如くに、勢いを無くすばかりか、経営に携わった当時、不正に塗れていた、との報道が、盛んに、行われる企業の、先代社長が、厳しく批判される中、番組が取り上げた、当時の、持ち上げようは、一体全体、何だったのか、と思えるからだ。確かに、それまでの提案では、的を射ていたのだが、今回は、提案そのものだけでなく、それに付随した、評判の下落に、対処の手立てを、見出せない、との指摘がある。また、在任当時は、他社を吸収合併するなど、神がかり的な、経営手腕に、高い評価を、誇っていたのが、実際には、その当時から、経営の会計不正を、繰り返していた、との話が、退任した途端に、暴露され始め、是正を図る為に、跡を継いだ経営陣まで、責任を、問われ始めた。これらの事実で、成功そのものが、虚構のものであり、演出された姿に、番組での熱狂が、付け加えられた、と見るべき、とさえ思えてくる。結果のみに、目を奪われ、その実体に、目を向けぬことが、誤った憧れを、築き上げるだけでなく、間違った手法を、模倣することになる、としたら、馬鹿げたことに、違いない。見抜く力の、大切さを、強く感じる話だが、そうだとして、何を身に付ければ、いいのだろうか。結果や目的に拘らず、まずは、地道に、基礎を築くことが、大切なようだ。近道なんて、無いのだろう。

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10月1日(木)−泡沫

 投資家にとり、泡が弾ける、という現象は、何としてでも、避けたいものだ。今も、そろそろ、膨らみ過ぎた、泡の状態に、注目が集まる。一攫千金を、夢見て投資したものが、弾けてしまって、無に帰するのは、老後の生活資金を、と描いてきた人間には、受け入れ難い。
 確かに、その通りに、違いない。だが、泡とは、どんな意味か、考えてみたら、とも思えてくる。膨らんだものが、割れて弾け飛ぶから、それは、まるで、泡の如きもの、と思われる所から、使われてきた、表現には違いないが、それにしても、もし、泡だったら、中には、何があるのか。空っぽでは、と思うのは、あまりにも、歪んだ考えか。それとも、不動産の時も、ITの時も、そして、今回も、現実には、中身の無いものに、人が群がり、過剰な投資を集め、その果てに、なけなしの資産を、失ったということか。人工知能に関しては、前世紀の終わりにも、注目を浴びたことが、あった。ただ、その時は、期待が、見事に外れ、開発の勢いは、失速した。それに比べたら、今回は、確かな成果があり、決して、中身の無いものではなく、将来への期待も、膨らみ続ける、とする人は多い。だが、本当に、そうだろうか。決まり事を、そのまま、短時間に、済ませることに、今の仕組みは、見事に、対応している。人間なら、永遠と思える程の時間が、かかるような手順を、機械は、あっという間に済ませ、答えを導く。これ程の能力は、人間では、考えられない、と言われる。確かに、ゲームをやらせても、データ処理をさせても、更に、それらを整えて、文書を作成させても、何の問題も無く、人間を凌駕する。懸念に、触れられたとしても、それは、修正可能だ、との指摘もある。その上、他の企業のシステムに、侵入した挙句に、害を及ぼしたり、脆弱性を突いて、データ漏洩を、起こしたり、できると伝わる。だが、これら全ては、単純作業の反復であり、新たなものを、産み出す訳ではない。だからと言って、過剰な期待、と断言すると、途端に、反論が飛び交うだろう。確かに、はじめの一歩、として考えれば、十分な能力、と言えなくもない。だが、ここに来て、開発者から、発せられる懸念や、海の向こうの大統領が、期待する能力が、実現可能か、と問われたら、否、と答えたくなる。前世紀末の二の舞、とは言い過ぎかもだが、泡は泡に過ぎず、中身は、無いのだから。

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9月30日(水)−選考基準

 学問の府に関して、何度も書いてきたが、懸念とされた、予算問題は、来年度の、概算要求から、一旦、解決に向かう、との期待が、抱かれている。ただ、これまで、真綿で首を、といった具合に、徐々に、苦しめられてきた、状況から、脱するとなり、さて、何を、との疑問が広がる。
 元々、高等教育への、注力に関して、疑問を抱いた、大臣の思い付きから、始まったと言われる、予算削減だが、それを、推進する為に、導入されたのが、法人化という、愚策だった。独立性を、担保する為に、との文言が、当初、好んで使われたが、現実には、それまでの、確かな保証を、外す為の算段として、導入されたに過ぎない。だからこそ、既存の法人とは、異なる仕組みとして、新たな法整備が行われ、それに沿った運営が、押し付けられた。独立性とは、名ばかりであり、予算は、様々な縛りを、施した上で、減額を進める、という、お上の意向に、従ったものだったが、教育の減退は、経済の低迷と、相俟って、国力の縮小を、招いていった。今の政権は、批判も強いが、この件に関しては、大きく舵を切り、予算確保の上で、教育・研究に、邁進せよ、との指令を含め、方針転換を図る。ただ、受け取り側の、準備状況は、心許無く、このままでは、多くが、溝に捨てられる、との意見も、出始めている。法人格にとり、最も重要なのは、経営方針であり、それを、担うのは、頂点に立つ人間だが、その選考についても、頂点に立つ大学での、一騒動が、取り沙汰される。ただ、同様のことは、既に、多くの大学で、起きており、今に始まったことでは、全く無い。にも拘らず、こういう事柄は、特別に扱われ、恰も、横暴な行為、と見做す社会は、評価も判断も、覚束ぬ人々が、大勢を占めるようだ。件の大学は、確かに、不祥事続きであり、その母体から、選び出すことを、避けたとの意見は、如何にも、と思えるが、そうだろうか。経営手腕が、不可欠となる中、そんな瑣末なことで、道を誤るのは、愚の骨頂とも思える。性別や業績に、無関係に、立て直しも含め、新たな予算状況で、再建を図るのに、適任かが、唯一の選考基準と思う。

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9月29日(火)−開き直り

 もう一冊、読んだ本を、紹介する。ただ、こちらは、正反対のもので、何の役にも立たない、と言いたくなる。人生に、迷う若者が、増え続けている、という現状に対し、多くの本が、出版され、生き方を示し、進むべき道を、指し示そうとする。それ自体は、間違いではないが。
 その内容は、まさに、玉石混淆、である。成る程、そうすればいいのか、と頷けるものから、何を、突拍子もないことを、書き殴っているのか、と思えるものまで。ただ、本のタイトルや、書評での評判から、推測できることは、殆ど無く、読んでみなければ、分からない、ということだ。溝に捨てる、とは、まさに、こういう時に、使うべき言葉で、無意味な時間、というよりも、無駄な時間、といった方が、適切なのだろう。他のことを、した方がいい、という意見が、出るのも、この類の駄本を、読んだ時の、反応なのだと思う。とは言え、一度読み始めたら、最後まで、という考えで、本を買っているので、途中で、これは駄目だ、と思ったとしても、無理無理、最後まで、読み続ける。雑草に学ぶ、という考えで、書かれた内容だが、その劣悪さに、呆れることが、何度もあった。それは、確率の話を、思い出して貰えば、分かり易い、のではないか。確率は、物事が起きる割合を、数値で示したものだが、多くの人が、違和感を覚えるのは、集団として見れば、そうなるにしても、自分にとっては、という個の考えで、どうなるかが、本人にとっては、重要であり、押し並べて、どうなるかは、どうでもいい、という話だ。ここで、筆者は、雑草の生き方を、示すことで、人間としての、考え方の重要性を、解いたつもり、になっているが、実際には、刈られたり、抜かれたりすれば、その個体の命は、そこで、おしまいとなる。それでも、他の個体が、芽を出し、成長することで、雑草が蔓延るのを、生き方の話と、結び付けようとした。それ、誰の話、と思うしかなく、何の人生訓か、と思えた。この本のはじめにでは、著者自身が、「誰も読んでいない」とか、「誰の参考にもならない」とか書き、読んで貰わずとも、といった姿勢を、示しており、最近の風潮を、思い出した。開き直り、である。そんなものを、売り物として出す出版社も、そんなものを、評価する書評も、困ったもの、としか思えない。

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9月28日(月)−大切なこと

 今月読んだ本で、秀逸だったのは、あの怪談で有名な、小説家が、教壇に立った頃の、話を紹介したものだ。一世紀以上、昔の話が、何の役に立つのか、と思う人が、多いのかもだが、現実には、細かな所も含め、多くの参考になる話題が、鏤められていた。流石、というべきか。
 文学の話題であり、当時の古典も含め、多くの参考になる、作品の紹介が、なされていたが、それよりも、読書や研究に、臨む姿勢という意味で、参考になる所が、百年以上経っても、沢山あることに、気付かされる。元々は、今と違い、講義そのものを、録画したり、録音したり、できる筈の無い時代で、学生達の、残したノートを頼りに、講義内容を、書き起こしたもので、それさえも、彼の死後に、行われたのだから、どの程度、正しく記録されたものか、を確かめる術は無い。それでも、当時の学生が、熱心に書き取り、それらを元に、矛盾が無いように、まとめられたものは、元々、彼の母語で、書かれたものだ。それが、特別な環境で、極東と呼ばれた、最果ての地で、書き記された、当地の古くからの話、という点で、評価された人物が、本来の役目ではなく、成り行きで、引き受けただろう、学問の府での、仕事が、何処まで、通じるものだったかを、読者に伝えた訳だが、更に、一世紀を隔てて、こちらの言葉で、出版されたことは、評価されるべき、と思う。加えて、人工知能の発達で、学問の地が、混乱の気配に、包まれる中、人間として、真に大切なことを、全く違う形で、伝えていることに、読者が、気付けるかが、大切なことだろう。改めて、考えること、学ぶこと、等々を、自身で、意識しつつ、大学に進む、本来の意義を、確かめる為にも、重要な示唆を、与えてくれる、のではないだろうか。

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