同じ考えの人が、集まって、お互いに、納得し合う。そんな空気に、満ちた空間に、生きる人々が居る。どこだろうか、と思う人が、居るかもだが、まさに、仮想空間、囀りの世界、なのだ。互いに、同意できるから、何事も、問題が起きぬ、と思えるが、現実は、甘くない。
一言、漏らした途端に、総攻撃を、仕掛けられる。異論を、許す空気は無く、ただ、批判の声だけが、届けられる。偶に、救いの言葉を、投げてくる人が、居たとしても、それは、一瞬のことで、すぐに、その声も含め、攻撃を受けるだけ、なのだ。仮想空間だから、という考えは、必ずしも、正しくはない。そんな環境でも、さっきの話と同じで、時に、味方が現れ、心強く感じることも、起き得るからだ。ただ、大勢に、変化なしとなる、場合の方が、今は多いようだ。以前、漏れ聞いた話では、攻撃を受けていた人が、自身で、反論を並べた時に、それまで、推測や憶測ばかりで、何の確かさも、ない意見を、展開していた人の中から、もしかしたら、本人が、書き込んだことが、真実では、との意見が、出てくることで、逆転現象が起きた、とあった。ただ、こんなことが、起きるのは、偶にしかない。多くは、勢いに任せて、有る事無い事、どころか、無い事を、憶測のみで、創作する人々から、攻撃を、受け続けるしかない。以前から、人の噂は、といった話があり、今も、それと同じ、と思う人が、多いようだが、それ程単純ではなく、批判は、絶えることなく、続いてくる。仮想空間と、単なる噂との、大きな違いは、記録の有無であり、誰かが、嘗ての書き込みを、掘り出すことで、過去の記録が、現在にも、表示される。この仕組みは、実は、非常に恐ろしいもの、と見る向きもある。その標的に、なった途端に、その恐ろしさを、体験することとなり、舞台から、去ることもある。その後は、本人だけは、何も知ることはなく、時が過ぎる。だとしたら、仮想空間と、関わりを持たぬのが、一番の方法、かも知れぬ。でも、知らぬが仏は、中々に、難しいものだ。
教育の改革、大切なこと、だろうとは思う。だが、その中で起きる、大きな声には、賛同しかねる。何を、授けることが、教え育むことに、繋がるのかを、見誤っているし、万能感のような、誤った感覚で、導き出した答えは、何の役にも立たず、その一方で、害悪とさえなる。
昨日の話が、そうだとは言えぬが、それにしても、何故、年齢に不相応な、ことばかりを、押し付けようとするのか。見誤っている、としか思えず、それは、見識の無さ、からくるもの、と思えてくる。自分が、達成できずに、苦しんだことを、何とか、無理矢理でも、やらせることで、達成させよう、とするのは、親心から、来るものかも知れぬが、それにしても、乱暴な話としか、思えない。英語に不自由したから、次代を担う世代には、自由に操れるように、とばかりに、早期導入が、提案された時、多くの専門家から、反対の声が、上がっていた。言語能力を、重視することに、異論を唱える、つもりは毛頭ないが、母語であるものが、確立する前に、別の言語を、押し付けるのは、二兎追うものは、となることが、必然に思えたからで、専門家が、苦労して身に付けた、その能力を、そんな道筋で、獲得できるとは、思えなかったからだ。なのに、本格導入となり、混乱は、依然として、続いている、ように見える。それは、高等教育の現場で、顕著に見られる、言語運用能力の低下、という、意思疎通だけでなく、文書作成にまで、悪影響が及ぶことからも、明らかと思える。これは、単純に、複数言語の間での、混乱だけでなく、もう一つ、別の大きな要因に、目を向ける必要を、実感させる。それは、教える側の、能力不足であり、徐々に進行した、高等教育での、言語運用能力の低下が、教える立場での、指導力不足を、露わにした。この問題は、別の面にも、表れていて、今度の改革でも、同じことが、繰り返される懸念が、広がっている。提案を、一瞥した時の、当事者達の反応は、火を見るより明らかで、目標が、定まったとしても、そこまでの道筋が、全く見えないまま、始めることへの不安は、大きくなるばかりだ。その中で、何をどうすれば、という実践的な事柄に、支援や助言が無ければ、頓挫してしまう。また、再び。
学校での教え方は、最高学府を除き、監督官庁が、方針を定めており、概ね十年ごとに、検討され、新たなものが、作られるという。学問の進歩は、日進月歩、という具合に、行われるが、だからと言って、子供が知るべきこと、に大きな変化が、起きるとは、思えないが。
教え方、という技術的な面も、進歩がある、とも言われる。最近は、学校で使う道具も、教科書と、ノートと筆記具、だけでなく、電子機器が、導入されており、それを、使いこなすことも、教育の一環として、設定される。ただ、最近の傾向は、知識の得方に、大きな変化が、起きているようで、何でも、頭の中に、詰め込もうとせず、頭から、何かを、引き出す手立てを、教え込もうとする。その過程で、教師から、一方的に、知識を伝授するより、子供達が、自主的、積極的に、取り組むことで、何かを得て、その上に、情報交換などで、考え方の比較や、発信の仕方を、身に付ける、といったやり方が、好まれるようだ。今回の改正については、監督官庁から、資料が公開され、膨大な量の文書に、果て、どうしたものか、とばかりに、戸惑う光景が、現場でも、見られている、のではないか。その中の、資料の一つを、開いてみると、403から406頁に、大切なことが、掲げられている、ように見える。一つは、こういう提案で、盛んに使われる、三位一体、という考えで、今回は、深い学び、なる言葉が、鍵となるように見える。その上で、統合的な理解と、総合的な発揮、という提案が、出されているが、そこには、詰め込みではなく、知識やその理解と、その後の使い方への、発展が、意図される、ように見える。成る程、と思う人も、居るだろうが、これらのことは、以前なら、最高学府に、進んでから、促されたもの、だった。それを、早期に、取り組ませて、という提案は、教育には、よく出されるものだが、果たして、精神的な成長、との関係は、どうなるか、と思えてくる。英語教育然り、と言われる、この手の教育改革は、多くが、頓挫してきた。分相応、との考えが、成長と教育にも、当てはまると思えるが、どうだろうか。現場の混乱は、教える側の懸念から、出てくることは、必然だろうが、それも含めて、準備怠りなく、となるかが、成否を決めそうだ。
裏で、悪さをした、との報道があると、その度に、厳しい批判が、飛び交う。当然のことだが、違法行為は、法律で禁じられ、社会的にも、許されぬ、と言われる。だが、その背景について、報道は、触れぬままで、読者は、何がどう、悪かったのか、知る術が無い。
今回の悪さは、業界が、話し合いの末、価格調整を、行ったと伝わる。価格は、業界全体として、利益が出るように、調整したとのことだが、何も、値上げばかりでは、ないらしい。だが、儲けを、大きくしたいなら、価格を上げるのが、唯一の方法、と思えるが、それに限らず、値下げも、一案だったらしい。だが、それでは、儲けは、確保できないのでは、と思える。絡繰りは、当事者のみが、知る所だろうが、勝手な想像を、してみると、物価が、抑えられる中で、値上げをせず、時に、値下げさえ、しようとする動きには、企業として、収支を考えた時に、支出を減らす為の、賃下げや、一定に保つことが、考えられる。乱暴な話だが、そんなことが、物価が抑えられ、値上げが、禁忌だとされた、あの時代に、業界で行われた、価格抑制の、背景にある話、のように見える。ここまで、穿った見方を、すべきかは、誰にも、判断ができぬが、その上に、居座るのが、国の政を、預かる人々であり、彼らが、自分の選挙を、考えた時に、最優先とするのが、減税と思えば、何か、繋がりがある、との憶測も、できそうに思う。つまり、何事も、抑えるのが、約束であり、それを保つ為に、一致団結して、政府も企業も、ある方に向かい、走っていたのでは、との見方だ。価格を抑える為に、給与は、少なくしたい。それにより、生活が、厳しくなるが、減税で、少しだけ、楽をさせる。だが、その一方で、公共に関する、多くのことが、停滞してしまう。ある意味、負の連鎖、とも見える図式が、当時は、避けようのない、状況と見られた。だが、今や、正反対へと、進み始めて、値上げが、当然となり、賃上げも、それに続いた。結果、税率を上げずとも、税収は増した。この流れを、保つ為に必要なのは、何だろうか。
厳密な意味を、求める動きは、所謂、言葉狩り、とは明らかに異なる。だが、一部の人には、同じに映るようで、身勝手な解釈で、誤った用法を、繰り返す人の中には、自分への批判を、言葉狩りと同じ、と見る向きがあるようだ。だが、本当の差別は、何処にあるのか。
そのことに、目を向けて、表現の自由を、犯し始めた、世論の動きに、強く反発したのが、件のSF作家だろう。詳細は、理解しておらず、的外れな指摘、となるかもだが、厳密な意味、という基準と、誰かを、差別する意図を、何処でどう、結びつけたものか、理解に苦しむものが、矢鱈に増えており、強い圧力を感じ、創作意欲を、侵害された、との思いから、断筆宣言へと、結びついたのでは、と思う。この背景には、ここで何度も、取り上げてきた、虐めの基準として、海の向こうから、押し寄せてきた、被害者の受け止め方、を採用した考えが、あるように思える。差別という基準が、押し付けられた、と感じ始めたのは、加害者の感覚ではなく、被害者を、中心として考える、との基準が、設定されたからだ。その結果、苦情が届けば、即座に、認定された上で、意図の有無に関わらず、加害者とされた、人間への罰が、下されることとなった。小説の内容は、まさに、その典型であり、前後関係から、全く異なる意味に、使われた言葉を、殊更に、拾い上げて、批判の対象とする。厳しい言葉が、浴びせられるだけでなく、生活の糧を、奪う形での、出版禁止などの措置が、取られるだけに、生業とする人には、看過できぬ話、となるのだ。折角、時間をかけて、作り上げても、日の目を見ずに、お蔵入りとなる、のでは、たまったものではない。ある女性評論家が、脚光を浴びていた頃、盛んに、その手の言葉狩りを、繰り返しており、中で、紹介したのが、誰でも簡単に、撮影できるフィルム付きカメラを、どう呼んだか、という点だった。民族差別との繋がりを、強調すればする程、視聴者は、首を傾げ、思い当たらぬと感じる。この話は、まさに典型で、受け手の問題、とされたことが、全てとなる。本来の意味と、語源とは、必ずしも、直結しない。その一方で、曲解の末に、こじつけられ、犯罪者呼ばわりされては、困ったもの、としか言えぬ。
期待を込めて、見守った人が、居たかもだが、裏切る結果が、発表された。でも、そこに踊る文字を、眺めた時に、何これ、と思った人が、多かったのでは。専門的なことは、何も分からずとも、言葉の意味が、理解できぬ時に、人は、首を傾げ、不満を口にする。仮令、著名な賞でも。
光遺伝学、との文字が踊り、内容を、説明する言葉が、続いたとしても、知識の中にある、言葉の意味と、何処か違う、という感覚を、抱いた人が、多いだろう。報道によれば、神経との関連とか、病気治療への応用とか、そんな言葉が、鏤められ、如何にも、と思える部分が、あるなあ、とは思ったものの、この技術の何処が、遺伝なのだろう、と思ったのでは。調べてみると、英語でも、optogeneticsとあり、こちらの言葉への、翻訳の間違い、とは言えぬことが、すぐに解る。受賞者の一人が、使った造語とのことだが、現象を、表しているようで、納得しかねる、といった思いが、過ったのは事実だ。同じようなことは、これまでにも、度々起きており、例えば、最近話題の、人工知能に関しては、遺伝的アルゴリズムとか、ニューラルネットワークとか、生物現象に、源をもつ、言葉が、一時、盛んに使われた。模倣したもの、という話で、今回のも、とする向きも、あろうけれども、同じ研究分野内で、厳密性を、放棄したかの如くの、用法に関して、異論は当然だろう。とは言え、権威を得て、このまま、使い続けられ、本来の意味が、失われるのは、どうだろう。これは、学会の姿勢にも、現れており、嘗て習った、遺伝の法則で、優性と劣性、という用語が、差別的で不適切、との自戒からか、顕性と潜性、に変えるべし、との学会の決定から、教科書も、書き換えられた、と聞く。形質に、優劣をつけるのは、ある人々が、劣っているとの誤解を、招くから、との見解だが、そんな差別、誰が考えるのか、と思う人も多い。言葉狩りの一つ、に過ぎないとして、片付けるべき、と思うのは、今や、お偉い人にも、不適切な思想、とでも言うのか。ふと、そんなことを、思い出す程の、不思議な言葉が、飛び交う時代が、やってくるのだろう。
朝刊を開いたら、「AIは研究結果を盗むのか」、という見出しが、目に入った。記事については、リンクを見るか、図書館なりで新聞を、開いて欲しいが、これまでも、懐疑的な見方を、貫いてきた人間から見て、どうしたものか、と思える内容で、過大評価の一つ、とも思える。
盗みは、人間の専売特許で、機械は、そんな能力を、有しないとの見解は、この間までは、その通りだったが、生成人工知能の登場以来、盗みも嘘も、何の躊躇いもなく、平気で行う、との話が伝わり、機械への信頼は、失われてしまった。コンピューターに対する、理解も、いつの間にか、変えねばならぬ、と言われている。人工知能に、注目が集まり、研究開発に、多額の資金が、注ぎ込まれたのは、前世紀末の頃だが、期待に反して、画期的な機能が、獲得されることは、無かった。だが、学習機能を、高める過程で、嘘や出鱈目を、禁じないことが、不可欠との判断から、高度に、組み上げられた仕組みは、人間を、裏切ることも、意識を持たずとも、意図的に、嘘や出鱈目を、発することも、厭わぬように、なったと言われる。それこそが、人間の能力を超える、人工知能の、必須条件の如く、扱われてきたが、こちらから見ると、一つの見解に過ぎず、それが無くとも、処理や解析の速度で、上回ったのだから、それで十分では、と見る向きもある。ただ、禁忌事項を、外すことで、ある意味の、箍を外すことが、できたからか、蓄積されたデータを、活用すること、と相俟って、その能力が、爆発的に、進化した、と伝えられてきた。ただ、懐疑心からは、それほどのものでも、ないだろうとの、判断も下せる。それでも、経済効果を、重視する人々からは、様々な懸念さえ、飛ぶようになったが、これとて、どうなることか。今回の記事では、計算機を用いた研究を、推進する中で、人工知能を利用したことが、漏洩の原因、と書かれていたが、その真偽は、定かではない。一方で、この程度の盗用ならば、人間だけでも、起きた話とも思える。研究では、競争相手を、出し抜く為に、論文発表の前に、口頭で発表した結果を、参考にして、素早く研究を済ませ、いち早く発表したことが、盗用と疑われた話が、山のようにあり、今更とも思える。ただ、それに加え、人工知能が、悪事に手を染めれば、データ改竄どころか、実験せずとも、データを捏造することも、行いかねない。これもまた、人間が、やってきたことで、騒ぐ程のことか、と思えるのだが。