パンチの独り言

(10月4日〜10月10日)
(虚実混交、大誤解、論争、見当違い、副作用、誤解拡散、戯言の真相)



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10月10日(日)−戯言の真相

 物事の判断に、何か特別な能力が、必要だ、と考えていないか。確かに、世界情勢を鑑みて、どう動くべきかを、決める為には、様々な知識と、これまでの経験に基づく、的確な判断が、必要となる。だが、人それぞれに、日々の生活を、送る為に、そんなものは、必要無い。
 では、庶民は、皆、無能なのか。それも、違うのだ。誰もが、問題に直面した時、自分なりの判断を、下して、窮地を躱そうとする。それで、解決すれば、御の字なのだ。最善の策だったかは、問題ではなく、一時の窮地を、逃れられれば良い。肝心なのは、そこの所で、時に、失敗しても、次の策が、通じれば良い。それだけのことだ。なのに、今の世の中は、どうか。自分の判断は、取り上げられ、何か判らぬ内に、様々なことを、強いられている。なのに、問題は解決せず、窮地は、いつまでも、暗雲の如く、立ち込めている。英知を集め、様々に検討を重ね、新技術を開発し、敵に立ち向かう。本来なら、これで、全ての問題が、解決する筈が、現実は、そうなっていない。にも拘らず、更なる強制が、必要と言われ、次の恐怖が、襲ってくる、と言われ続ける。何としたことか。こんな戯事に、付き合う義務は、誰にも無い。と思って、物事を見直すと、分かり切った、とされたことに、不思議が、一杯残っている。例えば、海の向こうでは、国民の50人に一人が、感染症の犠牲となって、死亡したと伝えられ、まだ、数は増え続けている。だが、陽性者の数は、積算で、4431万人に、達しているだけで、国民の8人に一人しか、感染していないのだ。恐怖の病は、確かに、死に至るものだが、何故、感染しない人が居るのか、何の説明もなく、感染を防ぐ為として、接種を強く勧める。実は、何も判らぬままに、暴走しているのだ。死亡率も、1.6%に過ぎず、こちらでも、1%でしかない。真の恐怖とは、どんなものか、平和な時代に、見えなくなり、こんな騒動が、引き起こされる。まさに、戯言だ。

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10月9日(土)−誤解拡散

 何が起きているのか、何が起きるのか、目に見えぬ脅威に、恐れを抱くのは、当然のことだ。それに対して、意見を述べる権利は、誰にもある。今なら、日々綴られる、SNSの世界では、誰もが、持論を展開でき、互いに、評価しあえる。ただ、その質は、玉石混淆だ。
 大地震と津波を、発端とする、発電所の事故は、直後の混乱から、大爆発への恐怖が、広がったが、杞憂に終わった。だが、放射性物質という、目に見えぬ脅威が、周辺各地に拡散し、広大な地域に、汚染が広がった。近隣地域では、緊急避難が実施され、未だに、帰還できぬ状況が、伝えられる。衝撃は、全ての人々の上に、舞い降り、多くの人が、懸念を述べ、中には、発電方式への反対を、唱えている。特に、芸術の世界の衝撃は、嘗て無いもので、混乱の最中、不要論が広がり、存在意義まで、否定された、と受け取った人も多い。だが、回復につれ、伴侶としてだったり、支えとしてだったり、人々との関わりは、以前にも増して、強まっていった。ただ、彼らへの注目は、別の形でも、起きており、特に、発言への注目は、SNSとは違い、遥かに広い範囲に、及んでいる。節目を迎え、関心が戻ったことから、その手の出版も、盛んとなる。これまでは、読んだ本として、取り上げたにしても、書籍の情報には、直接的に触れずに、論じてきたが、今月読んだ本の一つは、その典型であることから、敢えて、実名を挙げて、論じてみたい。ドリアン助川が、著した、線量計と奥の細道だ。大震災の翌年に、芭蕉の奥の細道に沿い、放射線量計を携えて、計測しながら、旅をした記録だ。著者が、どんな思いを抱き、どんな主張をするかは、自由であり、その内容自体に、意見を書くつもりは無い。しかし、独り言でも、何度も取り上げ、科学的な見方の重要性を、強調してきたので、科学に関しては、内容の正確さを、論じておく。この著者に限らず、多くの文筆家が、主張を、確かなものにする為に、科学的な根拠を、持ち出しているが、その殆どが、誤解に基づいたり、事実誤認を犯しており、発言力を鑑みるに、厳しい批判の必要性を、強く感じたからだ。まず、測定した線量が、何を示しているか、彼は、明らかに誤認している。始まりの部分で、彼自身が言及したように、地球上には、自然放射線が、常に存在しており、それらも、線量計で検出される。その値とは別に、加算される、人工的な放射線は、検査や診療に、使われるものがあり、こちらに関して、許容範囲が、定められている。この部分に、焦点を当てて、旅を続けていた訳だが、そこに示された結果は、自然と人工の合算なのに、その数値を、汚染の結果として、紹介し続けていた。これは、多くの人が犯す過ちで、科学的根拠という、計測値でも、何を示すかを、誤解していては、非科学にしかならない。旅を続ける中で、予想外の計測値が、得られ始めた時、別の要因に、目が向き始めた。嘗て、世界で実験と称して、核爆発が、盛んに行われていた頃、東側の国々から、主に、偏西風に乗って運ばれた、放射性物質が、汚染を広げたことがあった。当時、その地域では、放射線量の測定が、行われており、高い数値が検出されると、児童の室外活動が、制限されたという話だ。独り言でも、以前取り上げたように、これらの数値は、その地域でなくとも、長期間にわたり、記録されてきた。この辺りのことも、全く理解せぬままに、懸念を書き綴る姿勢には、科学とは別の、姿勢の問題がある。長々と書いたが、要するに、先入観を、正当化する為だけに、科学が、使われたに過ぎないのだ。但し、高い数値に限っては、汚染は明らかで、その調査は、重要と言える。一方で、除染という措置が、別の問題を生じたという情報も、政策の失敗を、示す意味で、重要だった。
 今回、文筆家の問題を、厳しく指摘する為に、普段の倍近く、書いてきた。同様に、あの事故に関しては、不十分な科学理解に基づき、極論を展開した人が、数え切れぬ程居る。また、別の思惑から、誤った論理を、作為的に用いた人も、多い。無垢だからこその間違いは、致し方ないかも知れないが、だとしても、影響力が強く、看過すべきでは無い。一方、今回の感染症騒動では、専門家と呼ばれる人々が、科学を持ち出して、嘘八百をばら撒いている。発電所事故では、原子力村と揶揄されても、専門家達が、真摯に、正しい知識を、広げていたことと比べ、何と馬鹿げた輩か、と思える行状だ。この問題は、かなり深刻だ。

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10月8日(金)−副作用

 毒を以て、毒を制す、とは、本当かどうかは、確かめようもないが、毒に当たった人間を、毒で助けたことから、言われたと伝わる。悪を滅ぼす為に、別の悪を利用する、という場合に、使われると書かれていた。ただ、元々の活用で、医療行為に、使われることもある。
 医者嫌い、薬嫌いは、何処にも、居るものだが、少々の体調の悪さには、休息のみで、対応する、という人も多い。薬は、所詮、別の作用を及ぼし、時に、副作用と呼ばれる、害悪に見舞われる。そんな経験を持つ人には、薬は、以ての外で、医者などは、無用のものとなる。とは言え、暫くの休息では、体調が戻らず、如何ともし難い、となれば、頑迷に拒否し続けるのも、無理がある。手術や投薬など、医療に頼らざるを得ない、となる場合もある。一方、体調の変化を、感じる度に、市販薬を、飲んでみたり、診療を受ける人も、居る。長い命、どちらが、適切な対応かは、誰にも、判らない。無病息災が、続けば良いが、何が起きるか、自身も含め、誰にも判らぬものだ。では、予防的なものは、どうだろうか。死に至ったり、重篤な後遺症を起こす、感染症の数々には、免疫と言われる、医療処置が、行われている。集団全体では、感染者数が、減ることにより、その効果が、確かめられてきたが、個々の例に、目は向けられない。しかし、最近は、多数の利益に、少数の不利益は、目を瞑るべき、という考え方は、難しくなりつつある。それが、却って、逆効果を招き、感染者が、増えているとも言われるが、どちらの少数を、優先させるか、妥当な結論は、導けそうにない。その上、肝心の効果そのものが、危ういものだったり、人によっては、無用のものだったりすると、問題は、更に複雑となる。同じことは、薬にも通じ、薬害などと呼ばれる、明らかなものだけでなく、時に、重篤な副作用を、及ぼす場合もある。毒を以て、毒を制す、の考えは、快復してこそのものだ。

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10月7日(木)−見当違い

 もっと甚大な被害が、予想されていた。だが、幸いなことに、全世界で、一桁近く、この国に限れば、二桁以上、小さな数の死者しか、出ていない。それも、一つの原因に限る、とは言え、他の原因で起きる、同じ病の死者数との比較が、まだ済んでおらず、更に少なくなるかも。
 こんな指摘をすれば、我が意を得たり、とばかりに、悦に入った態度で、反論が、語られるだろう。まだ、終息を迎えず、今後、何度も波が襲えば、急増するに違いない、と。確かに、あの連中が、根拠とするのは、嘗て、世界を襲った、恐怖の病の数々だ。黒死病として、恐れられた、細菌による伝染病は、歴史上、何度も、世界各地で、多くの死者を、出してきた。スペイン風邪、と呼ばれる、ウイルスによる流行性感冒は、百年程前に、世界各地で、何年にも渡り、猛威を振るい、多数の死者を、出してきた。彼らの根拠は、その大部分が、これらの流行病の、蔓延状況だろう。だが、最も近い記録でも、百年前となれば、世界の生活状況に、大きな違いが、生じている。黒死病による死者は、多くが、衛生状況の劣悪さが、伝染の原因となり、高い致死率が、悪い結果を導いた。一方、感冒による死者は、医療体制の不備や、栄養状態の違いが、激増の要因と伝えられる。それに比べ、現代社会は、一部の国や地域を除き、何処も、近代医学が整備され、救命の可能性が、高められており、予想を外した要因は、まずは、そこにある、と言えそうだ。更に、頼みの綱である、長期に渡る流行は、実は、人の往来が、百年前とは、格段に高まり、今回は、数ヶ月以内に、世界中に蔓延したことで、起きそうに無い、と見込まれる。百年前には、船や列車による、近距離の移動しかなく、現代とは、全く異なる。それにより、何年もかけて、世界に蔓延したから、当時の状況が、生まれたのだ。それに対し、現代は、一気に拡散し、爆発的な状況を、招いてきた。おそらく、大きな変異しか、彼らの期待を、満たせないだろう。

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10月6日(水)−論争

 不信の原因は、過剰な期待、とした上で、本来の役割は、状況説明であり、その面で、信頼できる情報を、拾い出すべき、とした。だが、これとて、大衆にとり、混乱させられ、何を、信じたら良いのか、判断がつかない。これでは、信頼を、勝ち取ることは、不可能だ。
 今回の騒動は、そういう意味では、両面ともに、信頼を、失墜させる状況を、作り出している。救世主が、まるで、屑鉄の塊に、鍍金をかけたもので、徐々に、地金が、露出し始め、その一方で、感染状況の解析は、全く進まず、何が起き、治る見込みが、あるかどうかも、見えてこない。何度も、触れてきたが、所詮、創作劇であり、騒ぎ自体も、作為に基づくものだが、その張本人達でさえ、何を起こしているか、理解できていない。それ程、未熟な知識を、頼りにした台本は、何度も、書き直されるが、一向に、終演が迎えられず、観客の苛立ちは、極まり続ける。これでは、劇場主が、幕を引くしかない。だが、同じ状況は、別の事象にも、起きている。世界は、SDGsという掛け声で、改善に、突き進んでいるが、その頼りとする所も、諸説芬々で、怪しげに思える。海の向こうでは、前政権が、推進から離脱し、世界から、批判の矢の嵐が、襲っていたが、彼にも、確かな根拠が、あったことは、あまり知られていない。感染症騒動同様、掛け声の主が、一方的な意見を、集約させた上で、情報操作を、繰り返しており、本来の姿を、無くしてしまった学問は、信頼を、取り戻す力も、奪われてしまった。その意味では、あの暴君の奇行も、多様性の面で、評価すべきことであり、学者達は、重要な戒めとして、受け止めるべきだろう。だが、その最中に、例の受賞者発表があり、偏りの元となった業績に、与えられた。誉高き賞も、これまでに、何度も過ちを、犯したと言われる。業績として、確かなものに違いないとは言え、導かれた結論は、未確定と見る向きもある。信頼は、棚上げのままか。

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10月5日(火)−大誤解

 謳い文句が、評判倒れとなり、当初の期待が、裏切られると、人々は、不信感を、抱き始める。これが、今の科学不信、と見る向きもあるが、果たして、どうだろうか。華々しい登場から、絶対的な効果を、抱かせたのは、喧伝の結果であり、期待を膨らませたのは、人の勝手なのだ。
 では、実体はどうだったのか。過剰な期待を、催させたのは、確かに、科学の責任でもある。効果を、高らかに謳ったのは、統計処理の結果を、基にしたものであり、そこに、科学的な解析が、施されていたからだ。だが、そこでも、判るように、科学の関与は、あくまでも、説明の為であり、真実を、解明した訳ではない。この騒動が、広がることで、不信感は、爆発寸前に、達していると思う人も居る。が、単なる誤解、によるものと見るべきだろう。一方で、騒動が繰り返される中、救世主に、殺到した人々の姿に、免罪符、を思い浮かべた人も居るだろう。同じことを、考える人は、やはり居るもので、ある県立施設の館長が、一文を著していた。そこでは、宗教との関わりという、始まりから、度々引き合いに出される、感染症への対応が、紹介されており、あまりの酷似ぶりに、驚かされる。違いは、宗教に縋る人と、科学に縋る人にあるが、すると、科学は、宗教の一つ、と見るべきかも、と思う、期待が、裏切られれば、神を、恨むようなものだ。科学の発達は、確かに、多くの恩恵を、もたらしてきたが、盛んに伝えられるように、絶対的な救いとは、なってこなかった。ある世界的な賞が、今丁度、注目されているが、再生医療の切り札とされ、受賞から期待が、大きく膨らんだ技術も、その後の停滞は、落胆でしかなかった。だが、これとて、成果を、過大評価しただけで、科学の本質を、見誤っただけだろう。これに限らず、科学の成果は、本来、事実の説明や解釈に、役立つだけで、切り札や救世主には、なり得ないものだ。その意味で、免罪符と、似ていると言える。

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10月4日(月)−虚実混交

 予想通り、予定通り、はたまた、想定内だったのか、何れにしても、数字が小さくなることで、一安心した人が、多いだろう。だが、一方で、波の再来を、叫ぶ声は、衰えることが無い。何が正しく、何が誤りか、何の検証も無く、ただ、放置するだけで、見える筈が無い。
 そんな雰囲気だからこそ、との判断でもあるまいが、耳を疑う数字が、発表された。首都の死者数は、日々伝えられるが、その解析から、二回接種後の死者数が、60を上回った、とあったのだ。救世主を、推奨する流れに、逆らう動きが、この国に限らず、世界各地で、様々に起きるのに対し、警鐘を鳴らしたのは、全国紙の特集だったが、彼らの主張は、発信源の怪しさだった。だが、今回の報道は、自治体自身が、発したものと、別の全国紙が、伝えており、時間のずれがあるが、50に迫る数値が、発表されていた。救世主の効能は、接種が広がるにつれ、変貌を遂げており、ここでも、不確かな検証が、役立たずの情報を、垂れ流している、としか思えない。当初、発症を防ぎ、重症化を抑える、とされたものが、中東の国で、検証されたとして、感染そのものを防ぎ、変異株に対しても、効果がある、と伝えられた。ところが、舌の根も乾かぬうちに、効果の減退を、伝える情報が、同じ国からもたらされ、騙された、と思った人も、居ただろう。火に油、と思えたのは、偽情報を、盛んに訴えた、全国紙の記事にある、副反応の被害で、捏造された数字や、操作された解析が、流布されていたのは、事実だろう。だが、今回のものは、改めて、考えるべきことを、提起している。ただ、接種を絶対視する研究者は、あらゆる手立てを講じて、理由付けに躍起となり、反論を繰り返す。そうだとしても、公表された数は、確かなものであり、精査が必要だとしても、盲信を、戒めていることは、確かだろう。全体の流れとして、愚かな方向に、突き進むのだけは、避けねばならない。

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