泥沼化する戦いの、最大の被害者は、市民達だ。戦いに、加わったとしても、日々の生活を、続けたとしても、死に瀕することに、違いは殆ど無い。だからこそ、世界中から、軍事侵攻を、始めた国の大統領に、厳しい批判と、制裁が浴びせられる。どんな理由が、あるにせよ、だ。
始まる頃に、独り言でも、彼の異常性と、嘗てのこの国の、開戦への背景に、共通点があることを、指摘した。そこで、国際機関の介入こそが、解決への道筋とも、指摘した。一方で、泥沼を眺め、何故、避けられなかったのか、を論じる記事が、ある新聞に掲載された。一部しか、閲覧できず、不確かだが、別の見方だろう。何れにしても、国際機関の機能不全は、ある極みに、達している。一方、独裁者の異常性は、あの国の嘗ての存在と、酷似するとの記事が、別の新聞に掲載された。これも、国内向けの記事では、一部のみしか閲覧できず、海外向けも、一度きりとの制限があるが、必要ならば、それぞれのファイルに、接続して欲しい。国内向けと、海外向けを、念の為に、掲げておくが、主旨は、今の独裁者が、嘗ての独裁者と、その心理が酷似しており、その人物が嘗て行った、粛清をはじめとする暴挙の数々と、変わらぬ程の数の犠牲者を、この戦いにおいて、戦場で出しつつあり、その意味で、歴史に名を残す、と思われるというものだ。先の大戦において、傀儡政権樹立から、その隣国への侵攻を、正当化していった、当時の軍部と政府の、犯した過ちは、度々批判されてきた。しかし、最近は、それが、別の勢力による陰謀の結果、とする解釈が、一部の論者によって、なされている。それに与する人々は、今回の侵攻も、陰謀によるとの主張を、繰り返しており、報道される被害は、偏向による操作であり、事実を伝えていない、とする。その上で、別の見方を、紹介しているが、それもまた、著しい偏向に過ぎない。何方も、事実であり、それを導いたのは、当事者でしかない。
目糞鼻糞の話を、以前取り上げた。情報社会で、生き抜く為の術として、重要なことを、説いたつもりだ。種種雑多な話が、様々な所から、もたらされる。その中で、信頼できるものを、選び出し、全体像を、築き上げる。論理構築では、当然の道筋だが、多くの人ができずに居る。
その中で、同類を、嘲り笑う人々が、傲慢な意見を、送り付け、同好の士が、互いに、褒めそやす。何故、自明なことに、気付かぬままに、悦に入って居るのか。一つのことにしか、目を向けず、気に入らぬことは、無視し続ける。その姿勢では、全体像を掴むことは、決してできない。その代わり、自分が見つけたことや、同好の士が、披露したことのみに、目を向けて、持論を展開する。相反する意見に、異なる意見をぶつけ、完全否定を繰り返す。この態度では、議論は成立せず、ただ、言い放つのみとなる。小心者や、無知な人々が、その過ちを、繰り返すのは、学ぶことや、互いに認め合うことが、出来ないから、仕方ないとされてきたが、最近では、いい大人や、地位のある人々、更には、大国でさえも、同じ過ちを犯し始めた。互いの過ちを、認め合った上で、結論を導くのではなく、自論に拘り、聞く耳を持たぬのでは、自分の間違いだけでなく、相手の間違いにも、気付けぬままだ。自分の意見を、発することができず、議論下手と呼ばれた、国民性さえ、端末を手にして、好き放題に、妄言を繰り返すのでは、議論以前の問題でしかない。折角の道具も、宝の持ち腐れとなり、人々は、同じ穴の狢同士、狭い穴蔵で、互いに、褒め合うことで、自己満足するばかり。こうなると、ペンは剣より強し、とはならず、力の行使に対し、意見を束ねること無く、多くの権利を、失っていく。独裁的な存在が、君臨する世界は、多様性を維持できず、崩壊へと突き進むしかない。そんな世界に、向かうのを、妨げるのは、多様な考えであり、視野を広く持ち続けることしかない。気付けよ、もう。
落語の、「桶屋が儲かる」話では、一見、繋がりの無い物事が、見事なのか、無理矢理なのか、結び付けられる。笑いを誘うのは、そこにある論理の飛躍であり、よくもまあ、と聞き手に思わせることが、印象に残る。だが、それと同じことが、今、世界で起きている。
一つは、もう読み飽きた、と言われるに違いない、感染症騒動だ。まず、検査優先の論理、封じ込めができず、的外れだっただけでなく、その後も、検査費用は、ドブに捨てられ続ける。そこには、何の脈絡もない論理が、実しやかに語られる。次に、ワクチン接種が来る。感染防止の筈が、見事としか思えない程に、当てが外れ、感染も、重症化も、防げず、そして、死の回避さえ、確かとならぬのに、依然として、次の接種を、不可欠と説く。その論理は、飛躍どころか、破綻し切っている。まだ、落語の方が、笑い飛ばせるだけ、罪が無い。こちらは、生活を脅かされ、命の危機は、一向に遠去かる気配が見えない。だが、暴論を操る人間共は、世界各地に、居座り続ける。もう一つは、この騒動のずっと前から、起きていたことだが、この機会に、発言権を手に入れ、傲慢な論を展開する。愚かな人々は、同じ過ちを、犯しながら、相手こそが、間違っている、と叫んでいる。こちらは、陰謀論に、取り憑かれた輩で、感染症騒動を、その一つとして、糾弾していたが、そこに起きた、軍事侵攻にまで、お節介な論理を、押し付けている。極右や極左と、相手を罵倒し、自らを、絶対正義と、信じて疑わぬのは、精神を病んだ人々と、何ら変わらぬ様相だが、端末を手に、四六時中、持論を展開し続ける。病的な程に、陰謀に拘ることで、繋がりの無い物事を、無理矢理結び付けるのは、落語ならば、笑い飛ばせるが、大真面目な、政治論争、国際論争と、信じて疑わぬのでは、犬も食わぬ、としか思えない。何の因果か、そんな連中に、拍手喝采を浴びせるとは。
何故、冷静さを、失わないのか。他人事と思えば、誰でもできるが、自分の事となると、急に、冷静さを失い、慌てふためく。なのに、この世界的な騒ぎに、冷静な目を向け、分析と共に、論理的な解釈を施す。何処に、違いがあるのか。実は、大した違いは無く、時に不安を抱く。
人間だから、心理的な作用を、完全に排除することは、できない筈だ。だが、その一方で、ざわざわする心を、何とか押さえ付けて、論理を優先させる。この資質を、誰もが持つとは、決して思わない。でも、仮令、少数にしても、ある割合で、そんな人が居れば、集団の統制は、保たれるのだろう。これが、考える葦である、ヒトという種が、その歴史を、途絶えること無く、続けてこられた理由なのだ。さて、その視点で、2年にも渡り、世界を席巻し続ける、騒動を眺めてみると、当初から続く、異様な状況が、はっきりと見えている。まず、検査により、病原体を有する人間を、特定する手立てを、取ったのは、隔離による抑制を、目的としたからだ。だが、それで判明したのは、この方法では、封じ込めが不可能なことと、病状を発するかが、定かでは無いことだった。それが、治療現場を、混乱に陥れ、隔離した患者を、どう治療するかに、戸惑いが広がった。重症化して、死に至る患者が居る一方で、無症状のまま、回復する患者も居る。その違いは、体質によるとの見解もあったが、依然として、定かではない。遺伝子解析で、治療方針が決められる、と言われてから、既に四半世紀を経ても、何故と思う。もし、体質の違いが、その原因ならば、当初、急増した死者は、その範疇にあり、人種ごとに、割合が異なることで、国ごとの違いも、説明できる。だとしたら、その割合に、近づくにつれて、死者数は、減少する筈だ。今の状況に、当てはまりそうな気がする。その上、遺伝体質が、原因ならば、当てはまらぬ人間は、無事に過ごせる訳だ。さて、どうだろう。
大災害に直面した時、人は無力感を抱くものだ。そこからの回復過程で、大きく分けて、二つの道筋があると思う。一つは、感情の起伏の波に、飲み込まれつつ、日常を、取り戻そうと努める道。もう一つは、敢えて、感情を捨てて、論理的に、難題に挑もうと努める道。
大震災直後、多くの芸術家が、人々への関与に、諦めの声を上げていた。悲しみに沈む人々を前に、自らの芸術に、何ができるのか、強い戸惑いを、覚えたと伝えられる。だが、日を追う毎に、以前の意識を、取り戻していった。それは、被災者の多くが、音楽や小説に、喜びを表す姿に、接してきたからだ。だが、この混乱の最中、多くの人々は、依然として、感情に振り回され、端末を手に、それらを表明し、同意を得ることで、安心を手に入れていた。この頃から、感情を最優先し、同じ思いを抱く仲間の存在を、糧とする人が、増えていたようだ。そこに、感染症の騒動が起き、不安に苛まれる人々に、専門家と称する輩が、脅し文句を並べ、人心を操ろうとした。そこで使われたのは、感情を揺さぶる言葉で、科学的根拠無しに、直感に訴える言説だった。同時に、これらの言説に、反対する人々も、科学的論理より、感情を優先させ、別の主張を訴えた。どちらも、非論理的なもので、落ち着いて、理解すれば、容易に論破できる。だが、感情では、好き嫌いに頼るしか無く、論破ではなく、どちらに与するか、しか選択が無い。ただ、そんな状況でも、「いいね」を頼りに、同好の士を見つけ、安心感に浸る。別の勢力に属す、論理的に、物事を理解しようとする人々には、何方の側も、所詮、自らの言説に酔うだけで、何の結論も導けず、無駄としか見えない。その上、論理に因らぬ人々は、自らの言説の誤りに、気付くこと無く、正すことも無い。その場凌ぎの言説は、非論理的で、誤謬だらけでも、同好の士には、魅力的に映るのだ。当然、反論が、受け付けられることは無い。
情報社会が確立され、誰もが、あらゆる情報に、接続できるようになった。と言われたら、さて、どう答えるだろう。確かに、多くの人々が、その恩恵に浴している。その道具として、殆どの人が使うのが、検索エンジンと呼ばれるものだ。ググる、とまで言われるのだから。
何かについて、調べたい時、多くの人は、鍵となる言葉を、打ち込むことで、その情報源を炙り出す。その時に、使うのが、この道具だ。瞬時に、回答が列挙され、その言葉を含む内容に、接続できる。嘗ては、何か、調べたいものがあると、図書館に出向き、それらしい書籍や、雑誌や新聞などを、探し出す必要があった。検索できるのは、書名だけであり、内容に関しては、手立てが無かった。この手法に、悩まされた人々にとり、今の方式は、全く異なるものとなった。だが、瞬時に手に入る、ということは、そこに検索すべき内容を、溜め込む必要がある。それが、この道具の最大の特長であり、人気を誇る点だ。今や、それが、当然のこととなり、人気の有無ではなく、不可欠の道具となった。でも、何度も繰り返すと、不便を感じることがある。それは、表示されるのが、世の中にある全ての情報ではなく、ほんの一握りに過ぎない、という点だ。人気の場所に、保管された情報は、ほぼ全てが表示されるが、不人気な所や、閉ざされた環境には、接続さえできず、保管もされず、当然、表示されることも無い。研究者や専門家が、便利さの反面、この問題点を、懸念するのは、徹底調査が、不可能なのに、満足させられるからだろう。所詮、一部のものしか、手に入らない、と承知の上で、調べるのなら、それでもいいが、これで全て、と納得するようでは、困りものとなる。こんなことに、触れたのは、この独り言が、検索では表示されず、新たな閲覧者を、期待できない状況にあるからだ。エンジン用の、接続方法を、整備したことで、一時はできていたが、今は、無視されて、困っている。
侵攻が始まり、世界中に、不安が広がった。その中で、各国の経済が、影響を受けるとされ、その典型として、日々の生活の必需品が、取り上げられる。原油、ガス、穀物などなど、数え上げれば、きりが無い。どれも、不安を発端として、将来への懸念が、広がったからだ。
確かに、供給不安が広がれば、物価上昇へと繋がる。だが、直接供給を、受けることで、利益を得ていた国を除き、多くの国々は、不安からの懸念が、導いたとされる、価格上昇が、主要因であり、均衡を取り戻せば、ある程度、落ち着くものとされる。将来的には、変動を繰り返すものの、ある範囲内に、収まると見るべきだろう。一方、当事国との関係は、無視できない。特に、制裁という形で、国同士の関係を、断絶する動きは、それぞれの国で、活動する企業にとり、大きな打撃を、与えつつある。資本主義が、多くの国で、採用される中、自由主義が、伴うならば、企業の経済活動は、自らの運営のみで決まる。だが、それが、今問題となっている国のように、独裁者の如き存在が、大きくなったり、まさに独裁国家だったりすると、状況は、一変する。資源確保の為に、進出した場合も、市場開拓の為に、進出した場合も、どちらも、相手国の状況により、経営が、脅かされることが出てくる。今回は、相手国が、始めたこととは言え、撤退の判断は、こちらの国々の都合で、行われた。その結果、事業停止だけでなく、手に入れた筈の資産まで、失うとなれば、損失は大きい。だが、このような変化は、常に、想定する必要が、あったのではないか。特に、独裁国家を相手とすると、進出の便宜は、様々に図られ、都合良く、事が運ぶものだが、一度、こんな事変が起きると、状況は一変する。仮令、平時と雖も、国を治める人が、変心すれば、同じことが起きる。国同士の関係も、そうなのだが、企業にとっても、想定すべきことだ。グローバルなどと、言ってられない。