不確実な話は、何処まで行っても、不確実なままだ。それを、確実なものに、する為には、確たる証拠が、必要となる。例えば、因果関係を、明白にするのだ。原因と結果が、直接結びつけば、確実な筋ができる。その目的で、営まれるのが、科学なのだ。だが、今の「科学」は、違う。
誰かの都合に、見合うような、説明を施すのが、「科学」の役割だ。例えば、今回、長々と続く騒動の、中心にある感染症でも、そんな言説が、撒き散らされている。典型は、予防法の一つとされる、マスク着用だ。数ヶ月前に、ここでも取り上げ、問題提起をしたから、覚えているだろうが、そこで、取り上げたのは、マスクの性能と、その有用性についての、説明だった。そこにあるのは、単なる性能でしかなく、感染症予防における、有効性は、一切語られていない。その理由は簡単で、飛沫や粒子を、捕捉する性能は、測定できるが、感染が起きるか否かには、全く別の要素が、絡むからだ。感染を起こす病原体が、体内に入るかには、二つの経路が、仮定される。一つは、病原体が付着したものに、接触した上で、体内に取り込むものであり、もう一つは、飛沫として、呼吸により、体内に入るものだ。前回は、前者の可能性は、著しく低く、後者を考えるべき、としていたが、だとしたら、マスクの効用は、どう考えるべきか。95%とか99%とか、阻止率は、かなり高いものの、一部を吸入する可能性は残る。但し、その阻止によって、感染率も、確実に下がることは、予想がつく。それを、拠り所とするのが、推奨者の言説だ。しかし、0とはならず、ある割合は、感染する。だから、爆発的感染を、ある程度抑えても、まだ、感染が広がる。そこに、不要論者が、付け込むこととなる。問題は、感染の仕組みが、不明であり、効用を、推測することも、できないことだ。世界一の計算機も、飛沫拡散の仮想計算しかできず、宝の持ち腐れだ。不確実を、一掃せねば、因果は、明らかにならない。
何事も、確実なことは、言えない。という話は、目新しかっただろうか。否、当然のことであり、今更、聞くまでも無い、との返答が、投げられそうだ。その通り、生き物である人間にとり、唯一、確実なことは、いつかは死を迎える、ことだけだ。それを、避けようと?
安全・安心は、この国の人々が、求めて止まない、大きな願いだろう。それに、付け込み、恐怖を植え付け、指示を守ることを、強いる動きが、起こされたのは、報道を中心とした、扇動者の集まりからか。というより、彼らの多くは、金に目が眩み、一部企業や、世界機関が、盛んに喧伝した、死への恐怖を、電波や紙面に、乗せただけのことだ。最も深刻な問題は、大衆の思い込みにある。その意味で、先日取り上げた本は、示唆に富んだものだが、如何せん、不確実を、不確実で、否定する論法は、容易に理解できず、その時点で、拒否反応を、示した読者が、多かったのではないか。確かに、一部の科学者が、嘘に加担することは、誠実な科学者にとり、信じ難いことであり、唾棄すべきと思える。だが、所詮、世の中は、金で動くとすれば、そんな加担者の殆どが、自らの利益を、優先させた結果であり、すぐに、結果が出ない事象では、彼らにとり、事が有利に動く。それに対して、感染症は、想定外の連続だ。死を迎える人々は、あっという間に、命を失い、それを避けようと、指示に従った人々も、様々に、問題を抱える。特に、社会全体として見れば、対策のほぼ全てが、徒労に終わり、課題は、解決されるどころか、更に増えている。何しろ、金の生る木を、手に入れたのだ。簡単には、手放したくはない。彼らにとり、好都合だったのは、病原体の変異が、繰り返されることで、同じ筋書きが、何度も反復する。その度に、同じ論法で、指示を繰り出せば、事が片付く、というものだ。これほど、容易いことは無い。だが、それとて、生物が持つ多様性が、解決すれば、終幕を迎える。
昨日の、基礎疾患と、感染症の致死率の、関連を調べた、解析結果は、どう受け止めただろう。成る程、生活習慣病などの、罹患者は、感染に気をつけ、ワクチン接種も、怠ってはならない、と思ったろうか。それとも、この解析は、本当に、信用できるのか、と思ったか。
調査そのものは、国の役所が、行ったものだから、信用できる、とするのは、軽々のこととされる。特に、様々な不祥事が、明るみに出て、国の利益優先というより、官僚の利益優先に、改竄が、不可欠となる時代には、不信感を抱きつつ、こんな文書を、眺める必要がある。今回の調査で、まず、肝心と思われるのは、監督官庁の発表のもので、その4頁に、背景が掲げられている。その年齢階級別の数値を、少し眺めて欲しい。この調査は、報告義務のある患者の、実情から、関係部分を、切り出したものだが、この項目にある、入力の有無の欄が、異常に思えるのだ。基礎疾患とは、一般的に、生活習慣からくるものが、多く含まれるとすれば、加齢と共に、その罹患率は、高まってくると考えられる。その通り、リスク因子の有無の欄では、高齢者が、最も高い率を、示していた。だが、その元となる、入力の有無に関しては、正反対に、高齢者が、最も低い率を示し、調査の母集団が、全体を反映するかが、怪しくなる。ここから、既に、調査が、躓いている、と思えるのだ。但し、ここでも、統計学上では、ある一定数以上の、選別集団であれば、全体を反映する、との解釈があるから、妥当と見たのだろう。しかし、そこから、疾患ごとの結果を、選び出せば、その数は、どんどん減り続ける。その結果、統計学でも、問題視せざるを得ない、域に達する訳だ。細分化は、進めるにつれ、こういう問題を、生じることとなる。一方、基礎疾患という大括りなら、十分通用する筈、との解釈もあるだろう。各項目は、不確実だが、それが集まれば、確実とは、何だろう。統計とは、そういうものだ。
脅迫じみた言説が、盛んに流布され、素直に従う人々は、恐怖に戦いている。だが、その論拠の殆どは、脆弱なもので、特に、今回の騒ぎでは、完全に否定され、灰燼に帰したものが、数多くある。批判する側には、格好の標的となり、こちらもまた、盛んに流布される。
どちらにしても、科学的な解析が、不可欠であり、その過程を経て、どの程度に確実かを、論じる必要がある。それは、昨日の話題と、酷似している。糾弾され続けても、懲りない輩は、次々に、新しい礫を、投げつけてくる。接種の推奨は、その最たるものだが、そこでの決まり文句の一つに、基礎疾患がある。不思議に思い、検索すると、監督官庁の文書が、提示される。肝心の対象者について、どこにも数値が見当たらないが、ある組織が、高齢者以外の推定数を、公表している。1330万人とあり、人口比としては、約16%であり、かなりの割合だが、16-64の年齢層で、どの程度の致死率かは、これも数値が見当たらない。では、直接的に、基礎疾患と、感染症による致死率を、比較したらどうか。こちらについては、保健指導に関わる組織が、結果をまとめている。見出しは、例の如く、衝撃的だが、果たして、元の解析結果は、どうだろうか。こちらも、監督官庁の発表が、基となっており、そちらに当たると、様々に、首を傾げたくなる。但し、同じ表が、前の組織のまとめでも、使われているから、鵜呑みの典型、とも思える。結局、結論ありきの解析で、いつもながら、科学の名を借りた、統計操作の結果、となっている。その上、現状では、推奨の理由として、一番に挙げられる、基礎疾患と接種との関係は、一切、明らかとならない。昨年の数値では、そんな調査は、不可能だったが、その後の発表でも、推測だらけで、役に立ちそうにない。こんな為体では、批判され、糾弾されるのが、当然だろう。不確実性の問題は、やはり、ここでも、明白になりつつある。
今月読んだ本で、紹介するが、ある意味、示唆に富んだものだった。気候変動は、様々な要素が入り乱れ、未確定な事柄に、溢れていて、科学的には、決定的なことが、言えない筈が、政治的には、一方的な展開で、その元凶さえ、確定している。それに、異論を唱えた本だ。
ただ、確定できないのは、どちらの方向にも、なので、その内容は、煮え切らなかった。その点では、Facebookなどの広告は、誇大だった、と言えそうだ。しかし、著者の主張には、何程と思わされた。例えば、「気候や破滅的終末をめぐる科学的な言説をねじ曲げることで、責められるのは、報告書を書く科学者、まともに審査しない科学者、無批判に復唱する記者、世に出す編集者、危機を煽る活動家と組織、沈黙して嘘を認める専門家、この誤りが何度も繰り返され、『真実』と受け取られる」とある。ここでは、気候変動を述べているが、別のものでも、十分通用する。新型コロナでは、どうだろう。よく似た状況だ。一方、感染症で、批判に晒される、世界機関も、事務局長が、「気候変動はすでに私たちの命を奪っている」と題する論考を、発表して、大気汚染と気候変動を混同し、恥知らずなデタラメを、流している、と糾弾している。こちらも、感染症への警告で、用いられた論法と、大差ないようだ。著者の主張は、何度も繰り返されるが、様々な可能性を、検討すること自体、科学的には、何の問題も生じないばかりか、科学の営みの根幹をなすものだが、それぞれに、不確実性の大きさに、言及せずに、極端な結末を、さも、確実に起きるが如く、主張したり、そこだけを切り取り、見出しに使う行為は、科学ではなく、ある特定の人々が、好んで使う「科学」、その人々の断定的主張に使われる言説、でしかない、ということだ。今の時代、マスゴミが、好んで使う危機的言説は、その塊だし、それに反対する、社会媒体で、流布される言説も、同程度に間違いだらけだ。不確実なのだ。
先日、ある集まりの会費を、納めようと、郵便局に行った。送られた払込用紙を、窓口に提出し、支払いを済ませよう、としたら、改定により、料金が掛かると言われた。ご存知のように、赤い払込用紙には、料金の欄に斜線が引かれ、無料とある。にも関わらず、だ。
驚いて、その場は引き上げ、近くにある、本部に持参して、問題を解決した。思い当たることは、二つあった。一つは、用紙に、通信欄があり、そこに記入したから、その送信手数料なのか、ということ、もう一つは、一般の銀行と同様に、窓口業務では、あらゆるものに、手数料が加算され、機械操作より、高額となる、ということだ。今回、調べてみると、多くの人々が、戸惑いを覚え、情報を公開している。一つは、俳句の集まりのページだが、こちらは、コンビニエンスストアの利用を、助言している。ただ、制約が掛かるようで、別の方法を、推奨しているようだ。一方、もう一つは、ある雑誌のページで、編集者の一人の、経験が語られている。こちらの方が、役立つと思えたのは、郵便局での助言が、語られているからだ。曰く、現金ではなく、口座からの払い込みなら、無料となる、とのことだ。これらの情報から、見えてくるのは、上の推測が、どちらも当たっていない、ということだ。仕方なく、二つ目の助言にあった、画像の一つを、ゆうちょ銀行のサイトで、探してみた。そちらには、確かに、改定があり、手数料がかかるとある。表から見えるのは、多くの料金が、窓口利用では、更なる手数料を、加算するということだ。この点では、二番目の推測が、当たっているが、料金受取人負担、という赤い用紙では、無料とあるだけに、その部分を、変える訳には、いかなかった、ということだろう。苦肉の策なのか、口座からの支払いでは、無料を維持する、となった訳だ。それにしても、横並びの考え方、郵政民営化が、悪政の極みと言われるのも、当然だ。
弱者救済が、話題となる。例えば、学費の問題は、国ごとに異なり、特に、高等教育には、個人負担と公費負担の、両極端と思える仕組みが、作られている。経済成長が、見込まれた時代には、何方の制度でも、問題は生じ難い。成長が、負担や返済を、支援するからだ。
だが、様々な問題が、蓄積した結果、世界的に、成長の鈍化が、明白となった。公的な負担が、厳しくなれば、対象の数を、減らすことで、維持は可能だが、個人が負担する制度では、個々の希望と、負担の現実との乖離が、大きくなり、遂には、破綻が起きる。奨学金制度は、ある程度は、公的負担で、賄えてきたが、かなり前から、この国でも、単なる借金と、見られるようになった。海の向こうでは、従来から、借金制度が、充実しており、奨学金を、得られなかった人々の、殆どが、負債を抱えて、社会に出て行った。それでも、成長期なら、十分な収入を、返済に充てられたが、今は、厳しい時代となり、立ち行かなくなった。そこに、登場したのが、返済免除の導入だが、これは、個人の負債を、公金で返済する、ということだ。この例では、弱者救済は、国民全体の負担で、賄われる。要するに、構成員の窮地に、社会全体で、対応する、となる。感染症騒動でも、多くの医療費が、公費負担となり、個人負担は、殆ど無い。だからこそ、検査や接種を、半強制的に、行うことができる。医療に関しては、難病治療の問題に、同様の措置が取られる。治療の難しさから、難病と指定されるが、多くの場合、患者数も、少ないと言われる。今、そういう病気の治療に、注目が集まり、製薬会社も、その研究開発に、力を入れている、との広告がある。本来、利潤追求が、企業の基本であり、希少な病気の、治療薬開発は、見込みの無いもの、と見做されてきた。だが、堂々と広告するのは、何かしらの勝機を、見込んだことだろう。開発にも治療にも、公的支援が、見込まれるのだ。おかしくないか?!