パンチの独り言

(2022年9月5日〜9月11日)
(覚醒、民意とは、儲け話、燃料問題、どうする、沈思黙考、発言続行)



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9月11日(日)−発言続行

 馬鹿騒ぎ、とこれまでも、敢えて書いてきたが、感染症の騒動は、まだ収まりそうにない。と言っても、世界で見れば、街行く人の多くが、口鼻を、覆わずに、笑顔で、会話する姿が、見られるし、国を跨ぐ、人の往来も、制限が緩められ、元通り、と感じられることもある。
 それに比べて、この国では、依然として、多くの制限が、課され続けている。にも拘らず、陽性者数は、高止まりしており、警戒を緩めるべきでない、との声は、静まる気配さえ無い。何が、違うのか。過ちを、続ける人々が、依然として、壇上から降りず、何時迄も、愚説を、飛ばし続けるからだ。一年少し前、独り言でも、一週間かけて、過ちを指摘し、どうすべきかを、論じたことがある。それを読み返すと、今も、居座り続ける、専門家や政治家が、如何に、愚かで、何も学ぼうとしない、人種なのかが、はっきりする。この内容の抜粋は、自分の囀りにも、転載しておいたが、反響は、殆ど無い。一部には、当然のことで、目新しさが無い、と思う人も居るだろうが、あの社会での、「いいね」文化からは、ちょっとした、疎外感が残る。それはそれとして、未だに、根本的な解決を、図れないのは、何故だろうか。これも、度々指摘したが、世界機関や企業が、自らの利益を、上げる為に、この騒動に乗じていることを、考えれば、科学的に、成り行きを眺め、論理的に考えることは、彼らの損失を、大きくするだけ、と見做されるのだ。では、何を、どうすればいいのか。ちっぽけな個人が、できることは、そんなには無い。声を上げ続けるのは、少ない中の一つで、独り言でも、囀りでも、それを、続けていきたい。一方で、当然のこと、と思った人々の多くは、自らも、声を上げ、接種やマスクの問題を、盛んに取り上げる。ただ、その言説の多くは、やはり、非科学的でしかなく、感情に走り、非論理的なものでしかない。それらへの、問題指摘については、今では、無駄としか感じない。

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9月10日(土)−沈思黙考

 誰だって、様々なことで、不安が過ぎるものだ。それでも、不安を煽る言動に、振り回されぬよう、そこで語られるものを、論理的に、繙いていく。その過程で、多くの場合、不確かなことや、誤ったことを、見つけることで、一つひとつの問題を、解決して、不安を打ち消すのだ。
 そこでは、特別なことは、殆ど何も無い。だが、不安に苛まれ、悲鳴を上げ続ける人は、その多くが、簡単なことさえ、何もしないまま、悪意に満ちた言動さえ、鵜呑みにすることで、潰れていく。確かに、他人の言葉を、鵜呑みにするから、他人の責任、と考えることが、できない訳ではないが、やはり、これもまた、自業自得と言うべきだ。解決の手段は、自分で、見つけることが、できる訳だし、時には、反論を繰り返すことで、悪意を、跳ね返すこともできる。ところが、増殖し続ける、社会媒体の仕組みでは、悪意が、良識に勝り、身勝手な言動が、増え続けてしまう。論理については、ここで、何度も取り上げたが、ごく単純なことを、繰り返すだけで、嘘や誤魔化しを、見破ることができるし、悪意を抱く連中を、撃退することも、簡単にできる。なのに、何故、多くの人々が、悩まされ続けるのか。人間は、感情の動物だから、という説明が、あるのだが、これも、怪しいものだ。確かに、感情に、振り回されることは、度々あるに違いないが、それに対しても、ただ、何も考えずに、行動に移すことは、殆ど無いだろう。それより、少し考えて、でも、感情を抑えられず、誤った判断を、下してしまった、という経験の方が、遥かに多いと思う。考えるといっても、結局、論理を積み重ねず、簡単に、結論を導いてしまう。感情が、高ぶってしまうと、つい、こんな過ちを、繰り返すのだ。一時の怒りや、悲しみに、左右されるのは、時に、仕方のないことだが、多くの場合、やはり、落ち着いて、考えてみることが、重要となる。今も、多くの間違いが、繰り返されているが。

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9月9日(金)−どうする

 多くの人々は、何故、強い不安感に、苛まれるのか、と思っているだろう。大震災、大津波、台風、などなど、天変地異だけでも、数多あるのに、それに加え、軍事侵攻という、専ら人為的なものもあり、更に、感染症や、温暖化という、目に見えぬ脅威まで、襲ってくる。
 だが、どれもこれも、落ち着いて考えてみれば、不確かなもので、いつ何時、襲ってくるかの、予想さえ立たない。一方で、更に考えれば、襲来さえ、確率的なものでしかなく、確実なことは、一切言えないのだ。では、何故、そんな不確かなものに、恐れを抱くのか。一つ考えられるのは、以前から、ここで取り上げてきた、傾向と対策から、逸脱していることが、挙げられるだろう。傾向と対策は、平和で安定した時代が続き、次に起きることが、ある程度予想がつくと、皆が思うようになったことで、賢く生きる為に、必要なこととして、盛んに使われ始めた。それによって、ある程度確実に、起きると分かれば、対策を講じることで、被害を減らしたり、利益を得たり、便利に使えて、安心と安全を、手に入れることで、賢く生きられる、とされていた。そんな環境に、慣れた人間にとり、不確かなものは、薄気味悪く、不安を掻き立てられる。そこに、その混乱に乗じて、利益を得ようと、蠢く人々が、登場すると、混乱が、極まることになる。温暖化という、気候変動は、不確実な要素が、入り乱れており、確定的なことは、殆ど言えないが、それを、ある方向に進むと、確定させることで、対策を講じる必要を、盛んに訴え、厳しい制限を課す。同様に、感染症も、得体の知れぬ病原体に、死への恐怖を、煽ることで、混乱を引き起こした。こちらも、危険性を考えれば、不確実でも、対策を講じる必要が、出てくるのだが、かなりの時間を経過しても、一向に変化しないのは、如何にも、おかしなことだ。不確かなものには、傾向と対策という手法は、何の役にも立たない。それだけのことでは。

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9月8日(木)−燃料問題

 不確かな学説でも、政治家にとり、重要な課題、と見做されたり、市民に危機を、及ぼすもの、と見做されたりすれば、対策を講じるべき、とされる。だが、その中で、立てられた方策は、仮定に仮定を、重ねるものであり、根拠は薄れるのに、手法は、断定的となる。
 喫緊の課題として、世界に課せられたのは、この星の将来を、左右する手立て、とされているが、その実、根拠は脆弱で、対策も、的確とは見えない。にも拘らず、世界が、これ程の圧力を、受けているのは、科学主導ではなく、政治主導で、物事が、動いているからだろう。政策では、手の付けられそうな所から、始めることが、肝心とされる。そこで、悪者とされた、炭酸ガスの素となる、炭素を含む燃料が、槍玉に挙げられ、その削減、果ては、それとの決別まで、話が及ぶと、一度捻じ曲げられた考え方は、解きほぐすことが、出来なくなってきた。政治的には、更に、極端な言説が、持ち出され、その一つが、電気自動車の普及へと、結び付いた。その上、別の不確かな要素が、ある国の軍事侵攻により、顕在化し始め、燃料問題が、更に深刻化する、結果となりつつある。愈々、本気で考えるべき、との判断から、世界各地で、電気自動車の普及を、図る政策が、講じられるが、これもまた、不確かなものへの、着手に過ぎないようだ。海の向こうの国の、ある州では、またぞろ、自動車の駆動様式に関する、規制の適用が、発表された。また、と明言するのは、40年ほど前に、同じ施策が、同じ州で、発表されたからで、当時は、夢物語に過ぎなかった、電気駆動系を、導入しなければ、販売を禁止する、とのものだったが、ある企業が、混合様式を、導入したことで、計画は頓挫した。今回は、いずれも、現実化した上での、適用だから、複雑な規制が、掛けられるが、肝心の電力供給の、懸念への言及は無い。掛け声ばかりの、施策の適用に、政治家の視野狭窄が、露呈するが、さてどうなる。

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9月7日(水)−儲け話

 不確実な話を、さも明白であるかの如く、断定する。投資話では、よくあることだが、これが、世界の人々を、巻き込んだ形で、進められるのだから、たまったものではない。ただ、儲け話と結び付けると、その背景が、はっきりと見え、不埒な輩の、目論見が、顕在化する。
 所詮、人間は、欲で動くものだ、とよく言われるが、ここでも、それが当てはまる。不確実な話を、確実な筋書きに、書き換えて、そこで、大災害がとか、悲惨な結末がとか、果ては、終末とまで言い出す。大衆の不安を、煽ることで、どんな見返りがあるのか、少し眺めただけで、見えてくる。温暖化では、気候変動が起き、大災害によって、多くの人々の命が、奪われるだけでなく、その地域の人の生活が、脅かされる。だが、それとて、局地的なもので、世界全体に、広がる話にならないから、気候変動で、食糧供給が、儘ならず、全ての人が、飢饉に見舞われる、とまで言い出す。一方、感染症では、死の病に侵され、膨大な数の犠牲者が出ると、予想することで、死への恐怖に、大衆を陥れ、不安を煽る。ついで、救世主を登場させ、その効用で、多くの人々が救われる、としておけば、大芝居の、幕を降ろすことができた。ところが、何の救いにもならず、一向に好転しない状況に、当事者達は、慌てふためいている。食糧危機には、全く別の方策が、とばかりに、昆虫食に、注目を集めるが、食指が動く、気配さえ見えない。新事業の開拓は、経済社会では、重要なものの一つだが、それにより、全体の活動を、継続させることが、不可欠と言われる。だが、その為に、恐怖を撒き散らし、不安を煽るのは、大きな過ちだ。それより、不確実な話が、如何に馬鹿げており、荒唐無稽かを、論理的に、説明することが、不可欠だろう。その意味で、先日取り上げた本の著者は、その立場を、貫いている。だが、説明が難解で、通じ難いのが、玉に瑕だろう。不確実は、不確実だから、相手にしないが一番。

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9月6日(火)−民意とは

 人気取りの為には、嘘もまやかしも、構わぬとばかり、庶民にとり、魅力的な政策を、喧伝する。大衆迎合主義は、何時の頃からか、政治の王道として、世界各地で、実行される。少し考えれば、馬鹿げたもので、すぐに、破綻するのは、目に見えているのに、欲に目が眩むと、騙される。
 こんなことが、日常となるに連れ、庶民の考え方に、大きな変化が起きた。ちっぽけな人間でも、自己主張をして、欲しいものを、手に入れることができる。そんな考えが、台頭してきたのだ。確かに、民主主義では、個々人の希望を、集めた上で、全体として、求めるものを、決めていく。最初は、個人の望みを、集めることで、その中で、何にするかを、議論の上で、決めていくのだ。こう書くと、ごく当たり前に、見えるのかも知れないが、多数決なりで、決めていく過程で、一つを除き、その他の提案は、全て却下される。まあ、時には、折衷案も、出てくるだろうから、一つだけ、とは限らず、幾つかが合わさって、という場合もあるが、それにしても、一人ひとりの望みが、叶う訳ではない。ところが、迎合を繰り返すと、何時の間にやら、自分の希望も、叶うのだと思い込む。これが、民主主義と迎合主義が、相容れない部分となる。一見、庶民の望むものを、与えるように、見えるのだが、必ずしも、そうはならない。それどころか、殆どの場合、希望は叶えられず、打ち捨てられる。これ程明白なことは、無いと思うのだが、一部の愚民達は、そうは思わない。更に、自分を、愚かとは思わず、社会全体の利益を、考える人間、と思っているのだ。著名な政治家が、暗殺されたとして、それを、国を挙げて、弔うべきかは、別の話だろう。それ自体は、その通りと思うが、反対の理由が、そんなことに、税金を使いたくない、となるとどうか。税金の使い道は、様々にあり、時に、希望に沿わないこともある。しかし、社会が、民主主義で、成り立つのなら、その結論も、総意の一つとなる。

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9月5日(月)−覚醒

 気候変動も、感染症騒動も、世界各国が、挙って、問題視して、対策を講じたものは、実は、不確実なものに、過ぎなかった。この所、書き連ねていることは、その事実を、「確実」に、示している。政治家達は、問題を掲げ、資金を投入すれば、何かの利益を、得られるらしい。
 そんな状況が、反論を唱える側から、不都合な真実、などと投げ掛けられるが、どうも、その多くは、同じ穴の狢の如く、私利私欲に走る、良からぬ輩の、所業のようだ。科学者とて、学問の追究などという、意義深い目標を、投げ出して、日々の営みを、手に入れる為の、手立てとして、不確実な話を、さも確実なように、解釈を施し、時には、嘘の数値まで、作り出している。経済優先、という掛け声は、確かに、庶民の生活を、豊かにする為、という目的を、達成するものだが、その行き過ぎは、こんな形で、大きな歪みを、社会に引き起こしている。解決法が、多くの人々から、様々に、示されるが、その殆どは、まさに、利欲の表れでしかなく、歪みを強めるだけで、その解消には、役立ちそうにない。倫理や道徳も、経済優先によって、様々な形に、変貌してしまい、本来の姿を、思い出すことさえ、難しくなっている。確かに、日々の生活を、成り立たせることは、重要なのだが、今の形でしか、それが実現できないか、については、色んな考えが、あるに違いない。それを、金の力で、世界を牛耳る人々が、歪曲して、押し付けているのが、現状だろう。金持ちも、政治家も、彼らを、すぐに、排除することは、不可能だろう。それより、各人が、何を大切にし、何を求めるか、今一度、考え直すべきで、その上で、今、世界にばら撒かれている、不確実で、誤った情報を、一つひとつ吟味し、その誤りを、見つけ出して、追及する必要がある。その上で、正しい選択肢を、選び出すことこそが、重要となるだろう。科学者も、その一端を、担うことができる筈だ。目を覚まそう。

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