パンチの独り言

(2023年4月3日〜4月9日)
(考えよう、地に落ちた、何が不当、打破力、何が的か、競争せず、凡庸でも)



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4月9日(日)−凡庸でも

 誰もが、研究者を目指した時、大発見を夢見て、大きな賞を、勝ち取ることを、願うものだろう。だが、そんな一握りの人の話は、自分に、降ってくるとは限らない。というより、そんなものは、非現実でしかない、と思う方が良いのでは。年寄りの戯言、と思うだろうが。
 成功への、光り輝く道を、歩もうとする人間に、冷や水を掛ける、と思われるだろうが、本人も、そんなことは、薄々感じているに、違いない。では、こんな話はどうか。国内の大学の頂点に、君臨する所で、長く教授を務め、その後、長い歴史を誇る、理科大学の学長を、務めた人物が、発した言葉として、伝わっているものだ。我々にとり、幸いなことは、仮令、天才が出たとしても、その寿命は、精々百年であり、その間に、成せる業績は、どんなに優れていても、数えられる程だ。だからこそ、自分達のような、凡庸な研究者でも、あげられる業績は、幾らでも残っている。という話だが、どう受け取るかは、人それぞれだろう。自らを、凡庸と考えるのは、長い研究生活を、振り返ってこその、結果に過ぎないが、これから、その道を、歩み始める人間にも、そんな思いは、過るのではないか。一方で、地道な研究を、続けた結果として、発見を繰り返した人々は、数え切れぬ程に居る。彼らの存在が、無かったら、今、皆が習うべき、事柄の殆どが、存在しなかったろう。誰も、考えなかった事とか、誰も、思いつかなかった提案とか、そんなものを、思い付くのは、何も、天才に限った話ではない。日々の積み重ねによって、小さな発見を繰り返し、その結果として、新展開に進むことは、誰にも、あり得る話ではないか。おそらく、かの人物も、そんなことを考えて、天才の寿命という話に、行き着いたのだと思う。大学という環境では、それに加えて、後進の育成が、役割として課されている。そちらに、活路を見出すのも、生き方の一つだろう。可能性は、幾らでも有りそうだ。

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4月8日(土)−競争せず

 では、枯渇問題は、どうか。こちらも、現状への不満の、最大要因の一つとして、盛んに取り上げられる。屡々、国立大学の法人化に伴う、交付金の削減が、元凶と捉えられるが、実際には、それ以前から、この問題は、拡大していた。そこに、気付く必要がある。
 それは、競争原理だ。納税者への、説明の一つとして、予算が、正しく使われている、という話がある。そこで、強く推進されたのが、競争に基づく、研究費の配分、という仕組みだ。今も、囀りでは、それについて、言及するものが、多々見られるから、気にする人も多い。だが、一方で、新たな発見は、筋書き通りには進まず、時には、失敗と思えるような、予想外の展開から、始まることが多い、との指摘もある。となれば、計画段階での競争は、無意味となり、妥当性は失われる。この議論には、おそらく、正解は無く、予定通りに進めることで、徐々に、新発見や、新製品の開発に、至った話もあるから、何方が、正しいと、一概には言えない。だが、競争原理は、予想外を、排除するから、それだけに拘っては、大事を見失うこととなる。既に、法人化から、四半世紀が、過ぎようとするが、こちらの見解は、それよりも更に、10年以上前から、指摘されてきた。つまり、今元凶の一つとされる、ばら撒きこそが、僅かな可能性を秘めた、大発見を、導くものとなる、という訳だ。但し、そこに、巨大予算を、注ぎ込むのは、明らかな間違いで、個別には、小規模の予算でも、それを、満遍なく撒き散らし、各自の研究活動を、保証することが、大切というのだ。競争的資金、という言葉に、惑わされた挙句、そこに、交付金の削減が、襲ってきたことで、多くの研究室が、活動を妨げられ、やる気を無くしている。ただ、一方で、流行ばかりを追い、誰もがする研究を、行おうとすれば、日々の研究費は、増すだけだろう。斬新な提案と共に、地道な研究を、選択することも、必要となる。

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4月7日(金)−何が的か

 改めて、書くまでもないが、この所、触れたのは、この国の大学の話だ。ある時期から、新規採用に、任期制が導入され、活性化を図った、と言われる。現場からは、期待外れの人材に、対応できるとの声と、理不尽な採用法だ、との声が、入り混じって届いているようだ。
 賛否があるのは、改革において、当然のことで、その前から、上の地位の人間が、変化を求めるのに対し、下が、継続を求めており、保守・革新の図式が、反対では、との声もあった。そんな事情もあり、不満の声が、届く訳だが、それはどうか、という意見のつもりだ。一方、採用方式では、依然として、研究主体の評価で、そちらに対する批判も、聞こえてくる。どの職位に、応募するかで、この様相は、一変するらしく、研究費枯渇が、社会問題として、取り上げられる中、先細りを、痛感する人も、多いようだ。更には、報道では、国自体の研究力の減退を、強調する記事が、多く見られ、それが、大学への圧力とも、なっている。だが、これについては、以前取り上げたように、調査方法や、解析方法に、問題があり、実力を、正しく反映しておらず、的外れな意見、と思っている。その中で、競争ばかりが、強調された結果、かなりの歪みが、生じていると言われる。本質的なことを言えば、大学とは、何の為にあるのか、という点に、目を向けぬまま、現状を憂い、改革を望むのは、どうかという問題なのだ。研究を主体として、活動するのが、当然の世代を、対象とするのなら、評価も、研究業績で、問題ない。だが、大学に、長く在籍すれば、その間に、様々な業務が、課せられてきて、殆どの人は、教育への負担が、増したと感じている。なのに、応募者への評価は、相も変わらず、研究のみとするのは、如何なものか。更に、役割としても、研究主体から、教育主体への、転向も考えられ、そういう道を、用意するのも、あり得るだろう。これらの中で、自分の存在意義を、考えるべきでは。

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4月6日(木)−打破力

 悪い環境に、何が不満なのか、と問われた、と思うのだろう。ある年代から下の層から、総攻撃が、浴びせられる。だが、こちらは、そんなことを、述べているのではない。環境は、何も悪くない、にも拘らず、何が不満か、と問うているのだ。この違い、分かるだろうか。
 高度成長を、誇っていた時代に、育った年代は、目標を掲げ、それに邁進することが、幸福を手に入れる、手段と教えられてきた。というより、時代が、そんな空気に、満ちていたのだ。だから、手に入れられなければ、それは、自分の努力が足らず、自分の責任だ、と感じてきた。一方、成長が鈍化し、下り坂に入った頃から、後の時代に、育った年代は、全く異なる考え方を、身に付けてきた。それは、どんな努力をしても、社会の情勢が、好転することは無く、幸福は、とても手に入れられない、という時代だ。だが、もしそうなら、厭世観に囚われ、目標を捨て、その場その場の幸福に、浸るだけとならないか。もし、そうだとしたら、不満を漏らすより、諦めに沈むのみだろう。だが、人間は、自分の能力を、活かしたいと思う、生き物なのだろう。何とか、努力をして、評価されれば、幸福を手に入れられる、と楽観的に、考えたくなる。だが、現実は、過度な競争を、強いられるだけで、努力が報われず、幸福を、手に入れることは、難しいと思える。仮令、仕事で、成果を出しても、それに見合う評価が、得られないから、不満が募るのだ、と。それが、環境が悪い、と悲観的になり、文句を並べることに、繋がる。その状況の変化を、当事者の一人として、見つめてきた立場からは、環境の悪化は、見方次第であり、どんな時代も、その状況に合わせて、対処することで、人間は、幸福を手に入れてきた、としか思えない。だからこそ、不満を並べる人々に、厳しく当たるように、見えるのだろう。ただ単に、今の状況で、頑張るには、どうしたらいいのか、考えてみたら、と思うだけなのだが。

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4月5日(水)−何が不当

 聞いたことがないので、事実かどうかは、わからないのだが、任期付きの職業は、稀なのではないか。誰もが、定年を迎えると、退職するという制度も、実は、当然のものではなく、海の向こうでは、憲法違反となる、と言われている。一方で、任期付きは、問題ないとも。
 現代は、多くの物事で、差別か否かが、重要な判断基準となる。任期は、契約上のものなので、双方の合意に基づき、となる訳だが、定年は、制度として、定めた場合には、年齢による差別、という判断が、なされるらしい。もし、退職年齢を、契約で定めたら、問題が無くなる、ということだろう。さて、この国では、殆どの職業で、定年までの期限はあるが、終身雇用が、保証されていた。定年と終身、というのは、本来、両立しないが、表現方法が無いので、こんな矛盾を、受け入れるしかない。ところが、そこに、新しい仕組みが、導入されてきた。海の向こうでも、殆ど聞かれず、時に、違和感を持って、接しられたようだが、組織自体の、期限という設定だ。5年間で、成果を上げることを、契約上に、規定するものの、仮令、凄い成果を、上げたとしても、延長の無い仕組みは、成果主義の国々から、奇異な目で、見られたらしい。その後、どういう背景からか、職業自体に、任期を付ける形が、導入され始めた。海の向こうでは、大学の教授に類するものでは、その殆どが、任期付きであり、成果の状況で、正式採用というか、終身雇用となる。定年制度が無いので、終身とされるが、現実には、研究費の獲得が、条件となる場合が多く、ある年齢を過ぎると、それが難しくなることで、退職する。で、この国でも、この制度を、となった訳だが、どうも、基本的な理解が、不足しているようだ。成果を、どう判断するかに、基準が無く、目標設定が、困難という理由で、不当な制度、と呼ぶ人が多いが、この点に関しては、あちらでも同様だ。また、過当競争も、珍しくない。何が、不満なのか。

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4月4日(火)−地に落ちた

 今回の騒動で、学問への信頼が、失墜したとも言われる。その最たるものは、おそらく、公衆衛生学とか疫学とか、呼ばれる学問分野、ではないだろうか。嘗ての栄光は、消し飛んでしまい、伝家の宝刀、とも呼ばれた、統計処理を、武器とした解析は、錆び付いてしまった。
 嘗て、伝染病の実体が、定かでなく、大衆が、恐怖に慄いた時代、感染者の分布や動向から、感染源を特定し、更なる感染拡大を、防いだと言われたのは、まさに、統計による分析であり、公衆衛生学の力だった。先日も、ナイチンゲールの業績が、ある新聞に、取り上げられていたが、彼女の功績は、統計を持ち込んだこと、と言われている。このように、統計を武器に、感染症の実態を、暴いたり、病気の背景を、炙り出すことが、疫学や公衆衛生学の、役割と言われてきた。だが、今回の感染症騒動では、その専門家達が、矢鱈に、騒ぎを煽る言説を、撒き散らすばかりで、動向の変化や、病原体の性質を、明らかにする方には、一切向かわず、学問の本質を、見失ったとしか、思えなかった。感染経路や、病原性の問題、更には、発症後の、症状の変遷に関しても、冷静に、世界各地から、押し寄せる数値を、分析することを、忘れたかの如く、騒ぐばかりだった。これでは、無知蒙昧の大衆と、何らか変わらぬ、と思った人も、多かったろう。俄か専門家が、囀りなどの、社会媒体で、騒いだのも、実は、専門家の言説が、根も葉もない噂と、何ら変わらぬ状況だったからだ。混乱が、更なる混乱を、引き起こした結果、国を治める人々は、恐慌を来してしまった。感染症そのものだけでなく、ワクチンの効用についても、製造企業の宣伝文句に、まんまと乗せられ、あらぬ方へと、市民を向かわせた。少なくとも、当初の緊急事態では、他の手段が、見当たらなかったとして、その後の解析を、怠った責任は、政府や専門家達に、あると言わざるを得ない。これが、信頼失墜の、主たる要因なのだ。

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4月3日(月)−考えよう

 取り沙汰されて以来、少しは、変化が、起き始めたろうか。しかし、電車や建物の中では、依然として、着用する人の方が、遥かに多いようだ。不安だから、との見解もあるが、安全・安心を、追い求める人々に、何の保証も、与えぬ存在、何とも滑稽な光景、でしかない。
 とは言え、以前から、無駄とばかり、主張する人々に対して、ここでは、全くの無駄では無い、としてきた。ただ、不安症に苛まれる人々は、そんな程度の保証では、無意味と断じる。なのに、何とも不思議な状況が、展開される。おそらく、そちらの理由は、成立することは無く、単に、周囲の状況に、流されているだけの、ある意味、考えようとしない人間が、この国で、暢気に暮らしているのだろう。では、何故、感染の恐怖は、去りつつあるのか。これまでの知識で、考えてみよう。当初、膨大な数の死者を、出すと予想された、病原体は、その後、変異を重ね、状況を変化させてきた。一部には、感染力の増大に反して、毒性、という言葉は変だが、病気を重くする力は、急速に、減退したと見る向きもある。だが、その根拠は、殆ど示されず、単なる想像の産物としか思えない。一方で、別の見方は、ここで、何度も触れてきたが、当初、重症化する患者が、一部に限られ、それが、体質によるもの、との見解が示されたこと、と関係する。つまり、死者が増えるに従い、その体質を有する人の数が、減り続けたのだ。それが、病原性の減退と、関係するのではないか。同じことが、感染力にも、当てはまると思うが、こちらは、死者の数に比べ、遥かに多数だから、余り大きく変化せず、今に至っている。毎年流行する、風邪や流行性感冒と、同じ状況と見るのだ。これが正しければ、不安材料は、大きなものが、一つ無くなる。だとしたら、着用の意味も、当然消え失せ、外国同様、素顔を見せて、出歩くことも、問題無くなる訳だ。だとしても、あの連中は、理解できず、続けるだろうが。

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