パンチの独り言

(2024年5月6日〜5月12日)
(尽きぬ種、他人事、長い目、大切なこと、素人考え、脛に疵、本当は)



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5月12日(日)−本当は

 物の値段は、どう決まるのか。経済の原則からすれば、需要と供給により、と言われたのだが、今の状況は、どうだろうか。世界的に、不安定な時代となり、その駆け引きの中で、需要の均衡が崩れ、供給も安定しない。だから、物の値段が上がる、という説明は、納得できるか。
 そう言われれば、と思える時もあるが、必ずしも、当てはまらない時もあり、首を傾げてしまう。でも、と思うのは、あらゆる物が、世界中から集められ、それを使って生活する、という図式では、確かに、そんなこともあるし、今の不安定が、そこに影響を及ぼすのも、何となく理解できる。だが、地産地消はどうか。国内の賃金が、ある程度抑えられ、それが元なのか、逆の繋がりなのか、兎に角、それとの関係で、値段も抑えられてきた。だが、地産地消と雖も、全てを自分達で作ることは、難しい。例えば、燃料は、その典型であり、石油に関連するものは、ほぼ全てが輸入となるから、このご時世には、高騰を続けてしまう。輸送は当然だが、電気やガスも、同じこととなり、値上げは止むを得ない、と言われる。ただ、だからと言って、今の調子で、どんどん値上げが続くと、多分、皆の生活は、厳しくなるばかりだ。だから、賃上げを始めた、とされるものの、実質としては、物の値上がりに追いつかず、厳しさは、収まる気配を見せない。だからこそ、節約を進めるのだ、と相変わらずの論調も、あるにはあるが、果たして、この考え方は正しいのか。これもまた、経済に纏わる話だけに、簡単には、答えを導き出せない。でも、と思うのは、その割には、皆、それなりの生活を続けている。だとしたら、まだ、余裕があるのでは、と思うのだ。その上で、節約とか、世知辛くとか、そんなことより、必要なものを、必要なだけ、手に入れるようにすれば、然程心配する必要は、ないのでは、と思っている。厳しいからと、施しを欲したり、ただに飛び付いたり、それには至っていないようだ。

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5月11日(土)−脛に疵

 最近、見知らぬ番号からの、突然の電話に驚いた人が、多いそうだ。よく知られるように、それらは、十中八九、詐欺とのことで、前にも書いたが、警察や役所は、その周知に精を出している。まさか、と思う人も居るが、つい先日、掛かってきた電話は、まさにそれだった。
 表示された番号は、+29323063122とあり、慣れた人なら、国際電話と思うだろう。だが、冒頭にある国番号は、該当する国が無く、何かしらの方法で、捏造されたものだ。流れた音声は、まず、「入国管理局です」とあり、その後、突如として、外国語、おそらくは中国語に変わり、まくしたてて終わる。これが、数回続いた後、突然、切れるという具合だ。検索してみると、沢山のサイトが紹介されるが、一部には、別の詐欺と関わるものもあり、注意を要する。役所のものならば、ということで、紹介しておくが、数年前から始まり、使用する言語から、その国からの在留者を、対象とした詐欺行為、ということだろう。にしても、相手も選ばずに、何をするのか、と思うのは、平和な国に暮らす人間が、考えることだ。数打ちゃ当たる、とばかりに、出鱈目に発信しても、無料電話となれば、何の経費も掛かるまい。騙された、善良な(?)人間から、少しの額でも、巻き上げれば、濡れ手に粟となる。にしても、どうしたことか、と思うこと頻り。裁判所からの通告とか、税務署からの通知とか、果ては、外国人を相手にして、出入国管理局からの通告とか、そんなものの多くは、覚えの無い人間には、何の意味もなさない、と思うのは、昔のことかも。不安や心配を、連日のように煽られ、社会への信頼を、失った人間には、儲け話も、犯罪に関わった話も、何方にしても、放っておくことが、できなくなるようだ。脛に疵となれば、尚更のこと、慌てて反応するのも、やむを得ない、となるのかもだ。それにしても、嫌な時代となった。あらゆる国で、同じことが、起きているのだから。

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5月10日(金)−素人考え

 平日の早朝には、朝の経済番組が、放映される。報道の質の低下は、何度取り上げても、足りないと思うが、その中で、少しはましな情報を、発信している方だ。ただ、その中で、専門家によっては、何を言いたいのか、的外れな意見ばかりで、聞くに耐えないものもある。
 一般に、経済学者も、経済の専門家も、評論家でさえ、どちらかと言えば、結果が見えてから、意見を出す場合が多く、相場の常として、必要となる筈の、見通しや見解を、述べる人は少ない。元々、経済活動が、予測不能なものであり、そこには、理論が成立しない、という理解があったからだが、それにしても、後出しジャンケンは、感心しない。ここ暫くの間、何度か取り上げた話題に、為替の変動の話があるが、それについても、盛んに議論したり、評論したりするものの、核心を捉えることは、殆ど無いに等しい。報道が、盛んに喧伝するように、確かに、それが、外国人観光客の増加に、繋がっているのかも知れないが、実際には、彼らが、安いと思っている理由には、円安ではなく、単に、物価の違いによるものが多く、それを、いつまでも、為替の問題として、取り上げる姿勢には、呆れてしまう。ただ、この経済番組の面白さは、週末に出てくる、お笑いが生業の、外国人の意見が、斬新であることにある。彼の政治に対する考えは、海の向こうの混乱の、一つの要因を、垣間見せてくれるが、それとは別に、今回も、問題の本質を、捉えていると思える意見を、述べていた。要するに、収入の違いが、外国人の購買意欲と、国内に住む人々の、節約志向の違いに、現れているというものだ。まさに、その点が、重要な筈であり、安物買いを常とする、風潮が長く続いたことで、収入が上昇せず、外国との格差が、広がったことこそが、問題の核心にある、ということなのだ。素人考えなどと、甘く見てはいけない。経済に関しては、全員が素人なのだろうから。

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5月9日(木)−大切なこと

 やはり、と思っただろうか。実情を訴える被害者代表に対し、権力側が取った措置に関して、弱者に寄り添う姿勢を見せる、報道がとった姿勢は、権力への徹底批判だった。報道や権力が、示したものを、やはりと思ったか、という意味とは限らず、別の「やはり」があると思う。
 確かに、強硬手段に出たことには、厳しい批判の声が飛ぶのは、当然に思える。だが、そこで示された、背景について、何の見解も示さず、一方的に加担するのは、どうかと思うのだ。被害を受けた人々が、直接、窮状を訴えたいとして、設けられた席だったろうが、不十分なままに、権力の横暴に晒された、との意見が大勢であり、ここで書くことは、まさに炎上の材料とも思える。が、限られた時間の中で、如何に訴えるかは、多くの人にとって、日常起こり得る話である。確かに、3分とは、短過ぎると思えるかもだが、互いの都合の中での、設定だったとしたら、話す側にも、責任があったと見るべきだろう。にも拘らず、ある意味、予想通りとしても、話し続ける人物に対し、予定通りの要請が、なされた上のことに、仮令、それが過激だったとしても、その行為のみを、糾弾する姿勢は、ここで何度も取り上げてきた、弱者保護の典型としか、思えて来ない。3分が、短過ぎるとしても、そこに集まった全員にとって、貴重な時間であり、それが、全員分の時間となれば、かなりのものだ。事前に、知らされており、その為の準備をするのは、機会を与えられた人間に、課されたものであり、老齢だからとか、被害の大きさを考えてとか、そんな事情から、許されるべきものではない。そんなことを、すぐに考える人間には、今回の話も、また起きたか、という意味での、「やはり」なのだ。その上で、一時の怒りに任せて、担当者の処分や、大臣の責任を、追及するのは、如何なものか。正義の味方を、気取るのも、と思ったりもするが、これがまた、炎上騒ぎになると、面倒には違いない。

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5月8日(水)−長い目

 新制度が始まり、それと共に始めた人も居ただろう。折良く、市場が活況となり、明るい将来を、描いた人が居たかも知れない。しかし、その後、様々に解説されるが、解せぬままに、相場は下がり続けた。話が違う、と思った人が、居るかも知れないが、まさに、これが自己責任なのだ。
 物価が上昇し続ければ、貨幣価値が下落し、そのまま持ち続けるのは、勿論のこと、仮令預けたとしても、今の利率では、目減りを止めることは、不可能と言われる。だからこそ、上昇率を、上回るような割合で、増え続ける筈のものに、投資するのが最善、との話だった。それも、儲かったものにさえ、税がかからぬとなれば、尚のこと、と思えていたが、現実は、甘くはなかったようだ。と、ここで、終わりにすれば、損をしただけ、となる。だが、多くの人々が、注ぎ込んだ先は、単純な、ある銘柄への投資ではなく、投資信託と呼ばれる、ある専門家集団が、決めた割合で、多種多様な銘柄に、投資するものであり、それも、一般には、短期で打ち切るのではなく、長期に渡るものだから、今、調子が悪くなったからと言って、すぐに辞める、とはいかないものだ。その上、少額で済むからと、積立という形で、始めた人にとっては、それが、ある額に達するまでは、仮令少額と雖も、続ける必要がある。まあ、これ以上の損失は、と思ったら、解約という方法が、あるにはあるが、それでは、更なる損失が、嵩むだけとなる。だから、続けるべき、という話ではない。相場の世界では、損切りは、一つの有用な手法であり、更なる損失を、出さぬ為のもの、と言われるからだ。ただ、ここでの話は、そちらのことではない。単純に、相場が上下するのは、いつものことであり、分散投資にしても、全体が萎む時期には、避け難いものとして、考えるべきだろう。更に、今始めた所で、あたふたするのは、それも、賢い方法ではない。老後の為、と思うのなら、尚更、長い目で見る必要がある。

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5月7日(火)−他人事

 立場の違いから、様々な意見が出てくる。中東の紛争は、まさに、その典型と思えるが、今回は違う、と思う人が多いのではないか。でも、と思うのは、この独り言を書き始めた、二日目に書いた話があるからだ。平和と安定を、求める声があるが、その多くは、そういう地域からのものだ。
 と書いたら、「そういう」とは、何方のことだ、と思った人も居るだろう。平和が保たれ、安定が続く国々から、求める声が出ているが、彼らには、本当の現実が、見えていないのでは、という意味だ。当時も今も、ふた昔以上違うのに、同じような状況が、続いている。施政者の問題、と片付ける向きもあるが、暫定政府と呼ばれる組織は、当時と比べると様変わりし、その上に、実効支配する勢力が、存在するから、事は、より複雑化している。その中で、反撃に出た国は、自らの平和を求め、当時も今も、同じような活動を続ける。そこに起きたのが、今回の事件であり、表面的には、平和な時が過ぎていたが、その実、地面の下では、着々と計画が進められ、過激な活動となった。まずは、そのことを忘れずに、今の問題に取り組む必要がある、と思うのだが、過剰防衛とも思える、過激な軍事行動に、冷静さを失った人々は、一方的な糾弾を始めた。嘗て、自国の軍隊を、他国に侵攻させて、一方の勢力を支援し続けたが、そのこと自体の意味を、失いかけた頃から、国内の反戦運動は、激化していき、特に、若い世代が集まる、大学という存在が、その舞台となっていた。それを彷彿とさせる、と見る向きもあるが、その違いにさえ気付けず、一方のみを攻撃する人々には、どんな深慮があるのか。多分、そんなに深く考えずに、同情の念とか、反省の思いとか、そんなものが、浮かぶことから、下した決断にしか思えない。所詮、対岸の火事であり、直接的な関与は、起きそうにもない中、盛り上がっているように見えるが、結局、「あなた達は、ここに住んでいない」と言われるのだ。

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5月6日(月)−尽きぬ種

 嘗て、海を挟んで、彼方と此方では、固定相場制が、敷かれていた。当時、物価も遥かに違い、持ち出せる外貨が、制限されていたから、旅行に出かけても、厳しい生活が、強いられていた、と聞く。ただ、逆に、彼方で働けば、帰国した時には、家を持てる程の蓄えが、できたそうな。
 今更、そんな戯言を、書いても詮方無い。ただ、この所、何度も触れたように、為替の問題として、今の違いを捉えるのは、如何なものか。遠い昔とは、生活水準が大きく異なり、互いに、然程差の無い、生活ができている。その一方で、長く続いた経済状況の違いから、いつの間にか、物価の水準が、かなり開いたように見える。そこが、問題の本質の筈が、そう捉えたくない人々は、挙って、円安を引き合いに出す。だが、物の値段が、既に違っており、為替による差は、それを埋められず、本当に、物価の違いが、為替に直接影響するなら、おそらく、今の倍くらいの水準に、引き上げる必要がある。それはそれで、別の方面への影響が、大き過ぎるだろうから、誰も、触れたくないのだ。さて、そう考えてみると、巷で取り沙汰される問題の、多くの部分は、誰かがこさえた絵空事、に思えてくる。もっと冷静になり、様々な面で捉えた上で、判断すべきことなのに、何故か、鵜呑みにして、納得し続けるのは、どうしてか。まあ、それだけ、平和な時代が、長く続き、大した心配もせずに、日々の生活が送れている、ということなのだろう。だが、それでは、煽ることを生業にする人々には、不都合なのだ。物価が低く抑えられていれば、格差のようなもので、不都合を演出する。そちらに、目を向けて貰えねば、互いの貨幣の価値に、差を見つけ出して、それが、恰も大層なことのように、不都合を演出する。それだけのこと、と一笑に付されてしまえば、今度は、将来の生活へと、不安を演出する。それだけ、平和なのだとなれば、戦闘が続く地域の問題を、ときりがない。やれやれ、と思う。

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