まやかし、でしかない。そんなことが、公然と行われ、人々の混乱は、高まるばかりとなる。一年を超え、収まる気配さえ、見えぬ中で、大衆の苛立ちは、高まっている。が、肝心の人々は、当初の考えに、囚われたままで、改善の兆しも、見えぬまま、新手を繰り出す。
だが、状況も、把握せず、新たな情報も、吟味しないまま、目先を変える、言葉の掏り替えでは、本質的な解決は、遠のくばかりだ。緊急事態宣言、という、仰々しい名称が、登場した時には、人々の心に、緊急という言葉が、少しは、届いていたようだが、それが、複数回となると、聞き飽きたとばかり、反応は、鈍くなっていた。そこに、登場したのが、蔓延防止措置、という言葉だ。それぞれに、策定した人間には、意図を込めた呼称だろうが、大衆に、理解できるとは、思えない。だが、大真面目な人々は、これらが、まやかしでも、誤魔化しでもない、と断言する。二つの違いは、責任の所在にあり、地域を、限定できることに、あると言われる。確かに、後者において、適用されたとの報道で、自治体が、限定されていた。そこに、生じている、矛盾に、誰も気付かないのか、不思議に思える。地方分権を、前面に押し出す為として、権力を、分掌する動きが、高まる中で、自治体の分類が、細かくなっていった。本来、47に分けられた中に、その下に属する、自治体が、並んでいたが、多くの人口を、抱える所に、権力を、与える為として、政令指定都市、という括りが、適用されたのだ。これは、47の括りと同等、という制度であり、多くの組織が、それに準じる形に、定められていた。だが、今回、その権利は、剥奪されている。緊急時とばかり、かなり荒っぽい制度が、作られた為だろうが、矛盾している。特に、首長同士が、啀み合う地域では、それが、反映された結果が、現れている。まるで、子供の喧嘩のようだが、笑うこともできない。
評論家は、愚民政治の問題点を、取り上げているが、同業の人々が、政治家と同類であることに、気付いていないのか。大衆受けを、狙っていては、肝心なことを、見誤るとの指摘は、どちらの側にも、当てはまるのだ。批判の主も、的も、同じ轍を、踏んでいる。
この傾向は、近年、この国で、著しくなっていた。政治家が、人気商売となり、政権交代が、何度も起きた時、政が、やるべきことは、見失われ、大衆の気を、惹こうとする動きは、国の行く末を、危うくしていった。当時は、それでも、報道する側に、矜持のようなものがあり、その危うさを、盛んに、批判していたが、一度失った政権を、今の政党が、取り戻した頃から、双方が、大衆の支持を、得ようとの、競い合いが、始まったようだ。となれば、同じ路線が、並び立つこととなり、大衆には、唯一つの見方しか、提供されない。元々、自ら判断しよう、という気の無い大衆に、限られた情報のみが、提供されれば、再び、国の歩みは、危うさを見せ始める。国への批判を、繰り返す人々にとり、格好の標的を、提供した為、亡国論が、盛り返していたが、実は、これは、世界的な趨勢だったようだ。海の向こうの、民主主義の国でさえ、指導者の言いなり、と思える勢力が、力を増しており、極端な見方だけが、取り上げられていた。反対勢力が、政権を取り戻し、正常化が、始まったかのように、見えたものの、病巣は、業界全体に、広がっていたようだ。就任後、初めての、そして、騒動下の会談が、始まったが、直後の記者会見では、耳を疑う質問が、あちら側の記者から、発せられた。国内情勢のみに、目を向けた質問は、場も弁えず、状況も理解しない、傲慢な姿勢から、起こされたものであり、別の場で、尋ねれば済む、程度のものでしかない。自らの不明を、恥じることなく、それこそが、大衆の興味に違いない、との判断からだろうが、にしても、迎合の極致、でしかない。
この騒動が、始まった時、様々な見方が、飛び交っていた。病気そのものへの見方は、発端となった機関と国が、一定の方向性を、示したことで、別の解釈を、抑える力が、働いており、異様とも思える、固定化が、著しくなり、真偽と無関係に、進むべき道が、決められた。
混乱の中、どんな結果が、生じるのかなど、複雑な問題が、次々に、起き始めていた。感染の嵐に、襲われた国々で、最も注目を、浴びていたのは、やはり、政に関わる人々だろう。決められた方針を、守ることが、条件の如く、受け取る向きも、あったのだが、現実には、北欧の一国が、他国とは、全く異なる対応を、いち早く決め、それを実行に、移していった。機関の指示に、従った国々が、厳しい規制を、敷いたにも関わらず、発端国を除けば、殆ど、深刻な被害を、受ける中、規制をせず、自然の成り行きに、任せるという政策は、当初、功を奏していたが、徐々に、死者数が増し、感染が広がると、批判の声が、高まってしまい、国王までもが、謝罪をするという、前代未聞な事態を、招いた。当初、政治家達が、この騒動の成り行きで、成果を得る、と思われていたのは、避け難い自然災害では、手立てを講じても、無駄となるか、成果を上げるかの、どちらかであり、前者は、当然の成り行き、と見做され、批判の対象とはならず、単に、上手くいった時だけ、評価されるのだから、有利に働く、と思われたからだ。だが、長引くうちに、迷走の数々が、並んでしまうと、非論理的な説明が、増えるばかりとなり、予想外に、政治家達が、厳しい批判を、受けることとなった。長期化が、主原因と見る向きも、あるのだろうが、現実には、真の原因は、専門家も、政治家も、現状把握も、論理的な解釈も、きちんと行わず、ただの思いつきに、しがみついたからなのだ。その為、朝令暮改を、繰り返すばかりで、信頼を失い、自滅した。所詮、交代すれば、済むだけのこと。居座りだけは、御免だ。
そろそろ、山を越したようだ。と言っても、例の、人為的な騒動の話、ではない。毎年、襲ってくる、花粉の影響が、そろそろ、薄れてきた、という話だ。アレルギー反応として、花粉を原因とするものは、多種多様であり、これに、限ったものではないのだが。
スギとヒノキが、この季節の花粉症の、主体となっており、2月頃から4月頃まで、多くの人々を、悩ませている。毎年のことと、人々は、それぞれに、対策を講じて、症状を、軽くしているが、根本解決の道は、見つからないままだ。対症療法、というものは、確かに、面倒なものに、違いないのだが、それで、軽快するのであれば、良しとするしか無い。医者に、処方して貰った、薬を飲む人も居れば、市販の専門薬を、飲む人も居る。パンチの場合は、市販の風邪薬を、代用している。本来の効用とは、異なるものだが、この時期、毎朝、一服飲めば、一日、大過なくなるから、それで良し、としている訳だ。その服用も、先週末に、打ち切った。そろそろ、大丈夫だろう、と思って、決断したが、今年の場合は、丁度良かったようだ。機序は、ある程度、明らかにされているが、それを、防ぐ手立ては、一様ではなく、また、症状の現れ方も、人それぞれで、軽重の違いも、それぞれなので、対応策も、それぞれである。にしても、季節的なものとして、不快であり、面倒極まりない。根本解決は、植物に求めるしかない、とばかりに、花粉を作らぬ株を、開発したとの話が、何度も、紹介されるが、解決は、何時になるのやら。でも、この病気に対する、対策こそが、今の作られた騒動でも、通じることではないか。自身の体調に、注意を払い、日々の生活を、続けるだけで、多くの人々は、彼らなりの生活を、続けていく。ただ、それだけのことだ。国も、機関も、無益な対策を、講じ続けるだけで、一向に、好転しない中、一部の業界が、潤う対策が、日々、膨らみ続ける。自己防衛で、済む筈では。
先週、話題にしたのとは違うが、やっと重い腰が、上がった。と言っても、違う点は、対象だけではない。今回は、法人税ではなく、海洋放出の話題だが、それに加え、腰が重かったのは、政府だけでなく、報道機関もなのだ。何のことか、と思う人が、多いだろうが。
事故現場に、林立する貯蔵施設に、異様さを、感じない人は、まず居ないだろう。制御下に、あるとは言え、日々刻々、産み出される、放射性物質は、科学的処理により、大半が、回収されるが、最も小さなものを、回収する手段は、無いと言われる。その結果、大量の処理水が、溜まってきた。従来、発電所も、研究施設も、この物質では、希釈後の放出が、基本とされてきた。他の放射性物質でも、同様に、希釈さえすれば、害を、殆ど無くすことが、できるという話は、事故直後の独り言に、書いたことだが、その後も、この点に触れる独り言を、書き連ねてきた。やっと、政府が、決定したことは、ある意味、画期的と言えるが、言い訳じみた説明には、呆れてしまう。一方、風評なる、姿なき怪物を、引っ張り出しての批判が、出ることにも、強い違和感を、抱くだけでなく、それに寄り添うフリをする、偽善的な政治家達は、無価値でしかなく、消えろ、と叫びたくなる。その中で、根本的な説明を、怠っていた、報道機関が、やっと思い腰を、上げた。その記事は、いつまで掲載されるか、わからないから、中で紹介された、三つの解説図を、紹介しておく。国内の放出量を、示した図では、従来から、放出が、日常となっていたことが、分かる。つまり、元々、放射性物質が、環境に、出されていたのだ。ただ、これは、世界でも同じであり、批判を繰り返す隣国も、同様である。ただ、今回の放出が、従来と異なるのは、その濃度基準だ。風評なる怪物を、押さえ込もう、という意図か、異常な程の低濃度に、希釈することで、世間を、納得させようとする。これも、異常だが、この報道で、世界の動向を、総量だけでなく、どんな濃度で、放出されるのか、一切触れないのは、相変わらずの手落ちなのだ。
hate crime、とは、憎悪犯罪、と訳されるが、海の向こうで、深刻な問題、となっている、と伝えられる。だが、首を傾げた人も、居るのではないか。犯罪、特に、誰かを、傷つけるものは、その相手を、憎むからこそ、傷つけ、時に、殺そうとまで、するのでは。
そこに、憎悪の感情が、現れるのは、ごく当たり前で、犯罪自体が、憎悪に基づくもの、と考えれば、こんな呼称を、敢えて使う必要は、無いようにさえ、思えてくる。では、何故、敢えて、単純なcrimeではなく、hateが付け加えられるのか。あちらで、建国以前から、続いてきた、偏見が、背景にある、ということだろう。人種や性別に、基づく形で、現れる差別は、深刻な問題として、特に、近年、盛んに取り上げられ、解決の道筋を、見つける努力が、続けられている。だが、犯罪とならないまでも、その事例が、一向に減らないのは、人の心に存在する、差別意識が、消せないものだからだ。競争意識も、差を実感し、それを、克服する所から、始まっている。どんな差が、あるのかを、見極めることで、克服の手立てが、見つかる場合も、多いのだ。それを、上下の違いに、置き換えることが、差別へと繋がり、問題となる。そうならないような、努力が必要なのだが、心底から、意識すればする程、抑えることが、難しくなる。多様性などと、綺麗事を並べるが、これも、差別の原因となり、解決には程遠い。だからこそ、はじめに挙げた言葉を、殊更に取り上げるのは、どうかと思う。一方、犯罪が、憎悪ではなく、楽しみで、行われるようでは、社会的には、もっと深刻なものとなる。今の時代、犯罪を、未然に防ぐ為に、様々な方策が、講じられている。憎悪や怒りを、鎮める秘訣も、確かに、大切なものだが、愉快という、心の動きによって、引き起こされる犯罪こそ、注意を要する、ものなのではないか。
良識とは何か。誰にも当てはまる話だが、皆が、考えているとは、言えないようだ。情報を、伝達する人々も、政に、携わる人々も、更には、専門家と呼ばれる人まで、国内だけでなく、世界中で、良識を、疑うような言動が、続出している。それに、惑わされては、駄目だ。
多勢に無勢、と言えば、まさに、その通りだろう。耳目を、集める立場の人々が、挙って、大騒ぎを、盛り上げている。世界機関の目論見には、誰も、目を向けず、言われるがままに、非常識な見解を、広げ続ける。政に、できることは、限られており、現状は、精一杯の状況、とも見えるが、実際には、都市封鎖などの、厳しい規制が、功を奏したのは、発生源となった、あの国に限られており、その実態も、怪しさばかりが、目立っている。情報規制を、敷くことにより、政府の威厳を、保ってきた、制度の中でも、独裁者を、目指し続ける主席が、君臨する下では、もたらされる情報の、真偽の程は、定かではない。一方、専門家の姿勢も、耳だけでなく、目までもが、疑わざるを得ない状況、と言えるだろう。科学的な解釈を、投げ出した挙げ句、先入観に、縛られた形の、暴言を吐き続けては、信頼は、微塵も、得られない。本来、多種多様な意見が、交わされる筈の、学界の動向も、一部の意見のみが、発信されるだけで、本来、両論が並び立つよう、配慮しなければならないのに、明らかな偏向が、際立っている。このままでは、社会全体から、良識が、失われてしまい、取り返しのつかない、大失敗が、強行されかねない。こんな状況で、枢要な立場にない、大衆が、できることは、何か。やはり、良識でしかなく、それを、共有することではないか。その為に、必要な道具は、身近にある。誰もが、発信できる、道具を使えば、相互に、発信し合い、共有することが、できるのだ。他人任せでなく、自ら、動く必要が、あるのではないか。