パンチの独り言

(2022年6月6日〜6月12日)
(無駄事、行政過誤、偽物達、針小棒大、欺瞞の渦、無害無益無駄、静けさ)



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6月12日(日)−静けさ

 茶番だ、と書けば、死者を冒涜するとか、犠牲者を蔑ろにするとか、果ては、人非人呼ばわりされる。だが、感染症による被害が、下らないこと、などと書いたつもりは無い。単に、騒ぎを大きくする為に、妄想を巡らせ、妄言を吐き、人心を惑わすこと自体が、茶番なのだ。
 論理の欠片も無く、ただ闇雲に、恐怖を植え付け、不安や心配を、世界中に広げた。片棒を担いだのは、例の如く、マスゴミだったが、それを、強く支えたのが、偽物も含め、俄専門家の面々だろう。過去の業績は兎も角、その場での説明には、根も葉も無いことを含め、強引な結び付けや、非常識な考えなど、戯言の数々が、並べられた。にも拘らず、大量な対象に、情報を送り出す媒体が、それを流し続ければ、何が起きるかは、火を見るより明らかだ。私利私欲に走る、愚かな群衆には、格好の材料を、与えることとなり、騒動の波に乗った人々は、悲鳴を上げるが如く、馬鹿騒ぎに、参加してきた。だが、中身の無いことには、何の変わりも無い。はじめから、明らかだったように、被害は、常識的な範囲に、留まってしまい、騒動主どもは、声を張り上げて、必死で訴えるが、実体の無い騒動は、終息を迎えるしかない。発信源だった、世界機関は、彼らにとり、幸いなことに、別の感染症の登場で、こちら側への関与を、続ける必要は無くなった。担当者達は、自らの存在意義を、主張し続けるが、現実には、被害の程度は、急速に縮小している。となれば、知らぬ存ぜぬと、無視するのが、適策となるか。まさに、そんな調子で、大本山が、黙り始めると、政府も研究機関も、幕引きを始めたようだ。だが、広がった心配症を、一掃することは、簡単ではない。様々な工夫を凝らし、目を逸させたり、話題を切り替えたりと、無駄な手続きを始めた。マスクしかり、旅行しかり、他の数々も、まるで何でも無かったように、元通りに戻る。まるで、劇が終わり、静寂が訪れるように。

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6月11日(土)−無害無益無駄

 習慣化したから、気にならない、という人も居るだろう。だが、一方で、無駄なことは、したくない、と訴える。この矛盾は、そもそも、死への恐怖との繋がり、から来ている。無駄と思っても、死への恐怖の方が、遥かに大きいので、我慢して、続けている、という訳だ。
 これについて、論理的な説明は、ほぼ不可能だろう。何しろ、不安や心配は、あくまでも、心理的なものであり、それは、主観でしかなく、客観的な理解が、得られないからだ。だから、巷では、依然として、殆どの人が、誰とも擦れ違わない、道を歩く時でさえ、マスクをしている。また、一人で、車に乗って、走っている人の顔に、マスクが見える。やっと、重い腰を上げ、当然の如く、屋外でのマスク着用の義務は、全く無いとの見解を、専門家達が、宣い始めても、習慣化し、死への恐怖に、取り憑かれた人々は、生活を変える気配を、見せようとしない。というより、この国の人間の心理では、他人から、どう見られるかが、何よりも重要であり、皆と同じであることを、最優先させる。この無駄を、どう考えるかは、人それぞれで、他人に、どんな意見を、ぶつけたとしても、何の役にも立たない。だが、根本的な問題は、マスクの効用なのだ。これほど、多くの人々が、着用していても、陽性者数の趨勢に、大きな変化は無く、何か、別の要因がある、とさえ思えてくる。これは、手洗いも、嗽も、入り口での消毒も、全て同様だろう。何の根拠も示さず、ただ、勢いで強要した結果、こんな社会を、築き上げた。だから、犠牲者が、少なくて済む、との主張にも、根拠は全く無い。この国に限った話で、他の国々では、もう誰も、マスクをしていないのだから、どういうことか、解る筈なのだが。一方、ワクチンについては、世界各地で、何の変化も起きない。資本主義では、金を動かす必要があり、これも、その一つと見えるが、誰も、文句を言わない。害になるかでは無く、役立たずでも。

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6月10日(金)−欺瞞の渦

 以前から、そして、最近も、独り言に書いていることは、まるで、世間で、声を上げている人々への、批判でしかない、と思う人が居るだろう。何しろ、勇気を出して、政府や大企業や専門家などの、権力を握る連中を、糾弾しているのに、何故、彼らが、悪者かの如く、扱うのか、と。
 だが、冷静に、内容を読み直して欲しい。何度も書いたように、客観的に、物事を眺め、解析することで、論理的に、考えることが、重要なのだ。何も、好き嫌いで、判断する訳でも、まして、彼らが、盛んに持ち出すように、権力に与するとか、果ては、原子力ムラなどと、揶揄される類のものではない。こういう冷静な意見を、まさに、好き嫌いで、応援したり、拒絶したりする人々とは、全く異なる考えに、基づいている。例えば、客観的な解析が、重要だとしても、それが、施されていれば、何でも、受け容れる、という訳ではない。その好例は、ワクチンの効果として、製薬会社が、提示したものに、含まれている。当初、免疫獲得で、感染を防げる、という認識が、常識となっていたが、彼らの解析結果は、全く異なっていた。そこで、調査対象となったのは、陽性を示したことのない集団で、おそらく、病原体であるウイルスと、接触したことのない人々、という解釈だったのだろう。そこから、接種集団と、未接種集団で、発症者の割合が、どうなるかを、調べた訳だ。従来は、発症した人々を、感染者と見做していたが、今回は、検査陽性者を、感染者と見做した為に、この違いが、生じたのだろう。だが、この点から、ワクチンの効用は、感染ではなく、発症とそれに続く重症化を、予防することにある、と結論付けた。一方、ワクチン接種を、推進する専門家達は、その意義を、感染拡大による、変異誘発を、未然に防ぐ、としていた。この絡繰りに、気付かぬ人々は、依然として、同じ論を繰り返すが、矛盾を、理解していない。要するに、目的のすり替えが、行われたのだ。他にも!

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6月9日(木)−針小棒大

 不安や心配は、自分自身のものであり、主観的なものだ。では、客観とは、何が違うのか。今、起きていることを、少し見渡してみれば、気付けることが、沢山ある。例えば、不安や心配には、たった一つの事例でも、十分であり、主張できる。だが、客観には、それが出来ない。
 客観的な見地には、全体を見て、集団を見て、それがどの程度通用するのか、という問題が、不可欠となる。そこで、語られるのは、確率であり、一人ひとりに、当てはまるか否かは、確実には言えない。確率を嫌う人々は、何万人に何人、と言われても、それに、自分が当てはまるか、当てはまらないか、それが判断できない、と言い返す。あくまで、自分がどうなるか、それが心配であり、それが不安の種なのだ。だから、ワクチン接種後の副反応で、心筋炎が起きたとか、血栓症が起きたとか、そんな事例が伝わる度に、だから危険だ、と断言する。また、感染後、回復しても、頭痛がする、息切れがするなどの、明らかな症状だけでなく、やる気が起きないなどの、精神的なものまで、あらゆることが、後遺症として伝えられ、だから心配だ、と言い募る。更に、マスク着用も、熱中症が起きれば、全ての原因を、そのせいとする。これらは、何れも此れも、当てはまった話だけが伝えられ、それ以外の話は、一切伝えられない。客観という見方からは、それぞれの事例が、どの位の割合なのか、を確かめる必要がある。その為には、母数となる集団を、想定した上で、その中の事例数を、調べねばならない。疫学や公衆衛生が、頼みとする手法は、これらの手順に従い、客観性を担保する。だが、心配や不安を募らせる、庶民にとり、そんな面倒は、真っ平御免だ。これでは、議論が成立する筈が無い。なのに、そんな事例を、引き合いに出し、一部の専門家さえ、持論を展開する。愚の骨頂だが、支持者は、確かに居る。分かり易く、寄り添ってくれる、という理由だけで。愚の連鎖、ではないか。

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6月8日(水)−偽物達

 怖いとか、不安だとか、そんな感情は、主観的なもの、という考え方に、殆どの人は、同意するだろう。一方で、科学的な解析の結果、導き出された、安心の確率が、客観的なもの、という見方にも、多くの賛同が得られる。当たり前、と見られたことが、どうしたのだろうか。
 度々、批判しているように、弱者保護の考えは、当然のことにも、悪影響を及ぼす。様々な状況から、保護されるべき人々、と見做すことが、できる場合は除き、現状では、強い主張をすることで、利益を得ようとする、「似非弱者」が、巷に溢れており、ご丁寧にも、彼らを支援する、「似非人道主義者」も、世論を操作できる程に、力を得ている。こんな状況では、何事も、主観を主として、最優先に扱うことで、社会全体に、強い歪みを及ぼしている。確かに、不安を解消することは、精神的な安定を、産み出す為に、不可欠なことだが、その多くは、まさに、自分の心の中から、生じたものであり、解決するのは、当然、自分自身でしかない。ところが、社会支援は、全く違った形で、施されるように、なってしまった。それによって、過剰な対応が、必要となってしまい、社会全体に、過負荷が、広がっている。これらは、単に、精神的な負担だけでなく、金銭的な負担を、増やすこととなり、状況を、更に悪化させる、一要因となっている。保護を、受けるべき人には、負担の義務は、無いとされるから、事態は、更に厳しくなる。ここまで書いてくれば、この状況が、まさに悪循環の道を、歩んでいることが、見えてくるだろう。では、どうしたらいいのか。弱者を、全て切り捨てよ、などと言うつもりは無い。ただ、誰でも、その権利がある、という馬鹿げた考え方は、捨て去る必要がある。これは、弱者にも、人道主義者にも、通用することで、どちらもが、弱者という存在を、どう考えるのか、という点に、当てはまる。嘗てのこの国が、貧しさの中で、何を重視してきたか、思い出そう。

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6月7日(火)−行政過誤

 根拠があり、危険だとする、世論の中で、数値表は、連日報じられていた。それが、いつの間にか、消えたのは何故か。消したことを、強く批判する人々が居り、彼らの主張では、この情報は、日々報じられる、事件よりも、遥かに重要なもの、とされる。頑迷な人々は、学ぶ気配が無い。
 事故直後から、正しく理解する為、という思いから、何度も、この話題を、独り言で取り上げた。その一部を、紹介しよう。一つは、ひと月後のもの、もう一つは、その2週間後のものだ。その中で、放射線の性質と、当時の状況の説明を、施していた。理由は簡単で、巷に溢れる情報が、荒唐無稽な嘘ばかりで、少しの知識と、正しい論理で、眺めれば、いとも容易く、否定できる話だからだ。その為の武器と、そこから導ける、正しい考え方を、少しでも、分け与えたい、との思いがあった。だが、科学的な根拠があっても、人それぞれの反応は、大きく違う。これはまた、地球上の地域により、放射線量が、大きく違うこともあり、多様性と確率の問題が、事を複雑にし、理解を難しくした、と思える。それでも、核種の問題から、線量率は、直後から、急速に、また徐々に、減衰していった。核種とは、原子核の性質であり、陽子と中性子などの数を、表すものだが、多くの場合、放射性物質を指す。その中で、半減期の違いから、直後に問題視されたものと、長期に渡り、影響を及ぼすものを、区別して考える必要があった。連日の報道では、長半減期の核種を、対象とした調査結果が、示されたが、こちらも、空間的な半減を、考慮に入れずに、受け取れば、誤った判断を、下すこととなる。単純に、距離が倍になれば、放射線量は半減する。局所的な汚染を、大袈裟に捉え、騒ぎが大きくなったが、これは、その後の除染作業にも、大きな影響を与えた。要するに、基本を理解せず、騒ぐだけの人々に、対応することは、過ちを犯しかねない。これと同様に、今の感染症騒動も、多くの過ちを犯す。

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6月6日(月)−無駄事

 同じように、毎日掲載される、数値なのだが、その根拠に関しては、大きな違いがある。線量率は、年間の被曝量として、一般人への制限が、決められているから、比較して、一時的にも、危険と考えられる範囲に、達した場合に、警告を出せるものだ。だが、陽性者数には、根拠は無い。
 実は、被曝に関しては、半世紀以上昔、隣の大国が、先進国に、追いつけ追い越せ、とばかりに、盛んに、兵器実験を、繰り返していた時代、風向きにより、汚染された微粒子が、届いたことを計測し、地域の小中学校に、屋外での活動の制限を、通告していたことと、関係がある。当時から、子供達にとり、放射線被曝は、大人よりも、危険性が高い、という観点から、このような措置が、取られていた。所詮、経験則に基づくものだが、それでも、被爆地の調査などから、導き出されたものだ。それに対して、感染者の動向について、如何にも、科学的根拠に、基づくものとされてきたが、そこでは、何の調査も施されず、当然ながら、実験研究が、行われる筈も無く、結果として、不安を煽る為の、数値でしかないものを、大事とばかり、連日伝えていたに過ぎない。当初から、指摘してきたように、陽性者という括りは、感染症において、その拡大を知る、最善の策とされてきたが、今回は、それが、大きな妨げを産んだ。つまり、検査によって、病原体の存在を、確認したとして、それが、検体の感染を、意味しないばかりか、感染拡大の要因と、見做すことさえ、確定できていないのだ。そんな数値を、連日調査する為に、多くの人手と手間が、掛けられてきたが、これも、単に、現場の混乱を、高めただけで、そんな状況では、綿密な調査は、実施不能とされ、悪循環が強まるだけで、解決への道筋は、つけられなかった。それでも、後生大事に、拘り続けるのは、専門家が、無能なだけだし、役所を含め、多くの人々が、アリバイづくりに努め、止めることができない。愚かなだけだ。

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