続きを始める。海の向こうとこちらで、大学の仕組みは大きく異なる。昔からよく言われたように、入るのは難しく出るのが簡単なこちらと比べ、入るのは簡単で出るのが難しいのが、向こうの事情のようだ。だか、入る難易度は、一発勝負かどうかの問題に過ぎず、出る為の難易度とは、全く異なる基準によるものだ。
何処の誰が思いついたのか、全く見えてこないのは、政策の常であるけれども、今回の入学試験制度の改革も、その一つには違いない。形としては、向こうの制度の焼き直しに過ぎず、目新しさは感じられない。だが、これが新たな歪みを産むことになるのは、入った後の違いをそのままに放置することから、明らかだろう。思いつきには、深い思慮は無用のものだ。様々な場合を考え、それぞれに対応を備える。こんな当たり前のことが、普通にできないからこそ、無謀な政策を断行し、後々の混乱を招くこととなる。この場合も、気楽に機会を与えるなどと言うだけで、その後の配慮のないままでは、人材の育成には程遠く、時には、一生に一度の機会を、あっさりと奪うだけとなる。基準を下げることで、対応し続けてきた仕組みに、もう余裕は全く無い。そこに、更なる機会を、との掛け声では、現場の混乱は目に見えている。一つだけ方策があるとすれば、向こうと同じように、簡単には出られなくすることだろう。その為に必要な手立ては、今の制度の中では、講じ難いものとなる。限られた年数で、厳しい環境を強いるのは、十分な機会を与えることにはならない。そこで、年限を排除し、年単位の授業料を、講義の単位に従った基準で、徴収すればいいとの案が考えられる。思いついた人と同じ穴の狢たちは、授業料の改定を、当然のように論じるが、その基準への思いは、何一つ無い。ここで掲げた提案に、十分な思慮があるとは、まだ言えないだろうが、これを端緒として、深慮を重ねれば、向こうの制度より優れた、合理的なものが出来上がるだろう。生活事情によって、出たり入ったりを繰り返せる、大学があってもいい筈だ。
自由を求めて、様々に活動する。時に、法律の範囲を逸脱し、問題を起こすこともあるが、範囲内であれば、問題はない。だが、活動の成果として、自由を手に入れた途端に、彼らの意欲が失われる。折角の機会を、と思う人々にとって、彼らの心情は理解できない。だが、その多くは、獲得を目的とするだけなのだ。
欲望の結果として、自分のものとなった瞬間から、その対象に飽きてしまう。こんな書き方をすると、そんな人間はまともでないとする人もいるだろうが、実際には、多くの人が大なり小なり、こんな心を持っているのではないか。極端なものは忌み嫌われるが、小さなものなら、次の欲望が出てくるだけのことだ。自由にも、程度の違いがあるとはいえ、そんな対象となることがある。束縛から解放されたいとの願いも、実現してみると、次の束縛を意識する。だから、完全な自由などはない、とされるのだ。だが、目の前の縛りを、何らかの形で解きほぐせば、そこから、新たな何かを産み出せる筈だろう。それを実現しないまま、次の縛りを意識するのでは、解放の目的は何か、と思えてくる。たとえ押し付けられた自由だとしても、環境の変化に応じて、新たな展開を推し進めるのが、当然のことではないか。連日取り上げている国立大学の問題も、こんなものの一つだが、存在意義を含めて、何の変化も現さず、納税者の怒りは、様々に表されている。監督官庁は、目先を変えようと、新たな策を講じ続けるが、まともな展開は見られない。時代の変化との言い訳も、解らなくもないが、成果が出ないことにはどうにもならない。入試制度の変革もその一つだろうが、海の向こうを真似ただけでは、目的は明確にならず、また、向こうの制度全体を模倣しない限り、同じ効果は期待できない。相変わらずの思いつきに、現場の混乱が訴えられるが、それも筋違いの感がある。その説明は、次回に。
法人税の問題が、喧しく取り上げられているが、ここでも、本質を見抜けぬままの議論で、展望のない施しに向かおうとしている。論じる資格も持たぬ人が、掛け声ばかりを強め、いつものように、後先を考えない愚行に向かう。競争という名の下に、勝敗の行方を気にする人々は、勝ち負けの根本さえ知らないのだ。
同じように、競争を強いられる中で、法人へと看板を付け替えさせられた組織は、相変わらずの迷走を続ける。何を目指すべきかを議論することなく、付け焼き刃の対応を押し付けられた人々は、独立性を失うばかりか、独自の選択さえ、自由にできない状況へと追い込まれている。連日の話題だから、少し読んだだけで、想像がつくと思うが、これは、所謂「国立大学法人」に関するものだ。同時期に、同様の変革を求められた「独立行政法人」も、本質を考えぬままに、厚化粧を施そうとした役人の、勝手な思いが結実しただけで、何を目指し、どうあるべきかが、目に見えぬままとなったのは、致し方ないとしか言いようがない。法人ごとの自由な発想は、収入源の制限が大きな障害となり、形をなすことのないままに、ひと昔という時間が過ぎた。依然として、勝手な掛け声ばかりが響く業界では、それに混じる形で、現場の悲鳴が上がっているが、聞く気のない者達には、何も届いていない。もし、法人格を確立するなら、独自性を担保する必要があり、自由度は、以前よりも遥かに高い状態を、目指さねばならない。にも拘らず、雁字搦めの拘束に、制限をかけられる安心感を、抱くような現状は、愚かとしか表現できない。授業料の問題も、各自が決められれば、企業努力と呼ばれるものの導入が、可能となる筈だし、意味を成さない就学年限も、外すことが可能だろう。これらの組み合わせこそが、学習意欲を失った馬鹿者達に、意識改革を迫るきっかけになるのではないか。
物価の上昇は、庶民にとって、魅力的には映らない。にも拘らず、意図的な上昇を目指すという政策が、先進国で採られている。理由は理解しにくいものだが、生活水準が向上した時代には、収入と物価が共に上昇し、ある意味、均衡が取れていたが、安定するとどちらも動かなくなり、少しのきっかけで、均衡が崩れてしまうからのようだ。
そこで、意図的に物価を上昇させ、全体を上向きにすることで、安定を継続させようとする。絵に描いた餅、としか思えないが、頭の悪い経済学者達は、これしか無いように訴える。上昇を続けていた時代、公共的な経費も、上昇を続けていた。ただ、日常生活に関わるものでないと、後手に回ることが増え、漸進的な上昇ではなく、急激な変化を持ち込まざるを得なくなる。例えば、学費は、国立大学では、半世紀前には、月に一万円だったものが、十年後には、その12倍に引き上げられた。それでも、報道によれば、今から15年後には、さらにその8倍ほどになるらしく、物価上昇との乖離は、際立つものとなる。何しろ、60年で100倍近くの違いである。これほどの上昇は、おそらく地価くらいしか、当てはまらないのではないか。いずれにしても、教育費支出の割合が低いと、世界から批判される国が、何を目指しているのか、さっぱりわからないところだが、出し渋りの気分は、変えられそうにもない。猫も杓子も、という進学姿勢は、そろそろ見直す必要がありそうだが、それと共に、学習意欲を失っている人々に、やるべきことを自覚させる為の、新たな方策が必要ではないか。他人の財布に期待するばかりで、自分達の工夫を忘れた人々に、強い圧力をかけたら、そんなものが捻出できるかもしれない。見かけだけの法人と揶揄される存在も、この際、法人の格を誇示できる体制を整えるべきだろう。
役に立つかどうかが重要とされ、それが荒廃を招いたと言われる。一度荒れ始めてしまえば、それを止めることも、改善することも難しくなる。頭を押さえ込むような形で、強制的に授けられてきたものが、いつの間にか、説明の上で同意を得る必要があるとなり、何も知らない人間相手に、その効用を説いている。
教育の影響力は、成果を上げた時だけ、評価を受ける。だが、その反面、悪影響を及ぼし、無駄に振り回された経験は、無視されることが殆どだ。将来の効用を説いたとしても、今必要かどうかは、その説明では定かとはならない。つまり、こんな措置を施しても、多くの若者達は、何も得られないことに、反発を覚える訳だ。それが徐々に悪い方に向かい、成長を実感できないことで、信頼を失えば、離れていく者達を止める手立ては、見出せなくなる。現状は、まさにこんな状態であり、焦る人々は、様々に工夫を施し、次々と新たな試みを繰り出すが、失敗の山を築くだけとなる。そんな様子を外から眺めていれば、無駄な説明を施すより、強制的に覚えこませ、理解を進める方が、遥かに効果的であると思えてくる。だが、渦中の人々は、それまでの数々の失敗にも懲りず、依然として同じやり方を続け、逆に、被害者を増やし続けているようだ。今、これを学ばねばならない、と言われれば、嫌でもそうする筈が、下手に説明を続けることで、反論の余地を広げていく。教育評論家の多くは、こんな愚行に、何の疑いも挟まず、持論を展開し続けている。彼らの思慮の足りなさは、自らの経験さえ顧みることなく、ただ、机上の空論に取り憑かれたかの如く、不確実な効用を掲げている。これでは、無駄としか言いようがない。
主体性とか、積極性とか、そういう性質を持つことが重要であり、教育現場では、それを身に付けさせようと、様々に工夫を重ねているという。一方、安定社会では、自分に欠けたものを、授けようとする傾向が強まっており、社会では、そんなものを持ち合わせない人間が、沢山いることが問題とされている。
しかし、現実には、この二つの状況には、大きな矛盾が隠されている。現代社会において、全ての人間が、我先にと行動し、自分が、という態度を露わにしたら、多くの問題が噴出するだろう。主体とか積極という行動様式には、他人を排除しようとする心理があり、多くの場合、協調性の欠如が目立つようになる。団体行動も難しくなり、周囲への気遣いも無くなれば、組織の中での集団行動は、不可能となるだろう。だが、世の中は、無い物ねだりへと突き進んでいる。それが実現された時、何が起きるかという想像力も、かなり乏しくなっている現状では、調整を図ることも難しい。本来、主体性や積極性を有する人材は、一握りに限るべきであり、平等主義や全体主義が蔓延る中で、目指すものではない。民主主義の取り違えは、こんなところにも表れており、その資質のない者までも巻き込んで、無駄を増やすばかりとなる。精鋭主義は、必ずしも適切とは言えないが、今のような状態が続くようでは、先導する人間の育成は、頓挫してしまうだろう。精鋭だけではなく、その周辺にいる人間をも巻き込み、機会を与えることの必要性を、もっと深刻に捉えれば、かなり違った状況を作り出すことができる。掛け声ばかりで、成果が上がらない原因には、こんな錯誤があるのではないか。
先週、図書館の話題を続けて書いていたら、何度も読みに来る人がいたようだ。何か、琴線に触れることが、あったのかもしれない。それにしても、本を読むという行為に対して、話題は尽きることはない。ヒトという種が、今の繁栄を誇れるのも、世代を超えた伝達媒体を手に入れたからで、知識の蓄積が起きたからだ。
だが、今の世の中は、随分と変わってしまったらしい。活字離れもさることながら、情報に踊らされる人の数は、増えるばかりとなっている。この独り言のページでは、検索をしてみると、意外なほどの数の記事が提示される。それだけ気になる事柄であり、社会の歪みが映るように思えるからだろう。例を挙げれば、2002年4月、2002年10月、2002年10月、2003年2月、2005年5月、2005年7月、2006年11月、2007年8月、2009年10月、2014年4月、ざっと並べても、こんな感じである。集中的に取り上げた時期があるのは、多分、気になることがあったからだろう。一方、この所、話題にすることは減っている。逆に言えば、当たり前になってしまって、取り上げるまでもない、ということなのかもしれない。いずれにしても、やり方は色々とある筈なのに、要求に応じることを優先し、本質を見極めようとしない態度が、表面に現れているようだ。機会を増やそうとする動きにしても、貸出のみを考えるのではなく、閲覧を主体としてもいい筈だ。そこでの機会を増やすための複数冊購入であれば、出版社も何も言わなかっただろう。自分の時間を貴重なものと考え、その対価として本代を見做せば、惜しいことなど何もない。それより、無駄に待たされることの方が、余程惜しく感じるのではないか。各人の考え方によることとはいえ、公共性を第一に見れば、身勝手な人々の要求に応えることは、必ずしも公共の利益とはならないのだ。